第十二話
黄皓と結託し、蜀漢にとっての最善を模索する廖化は、姜維が再び北伐を行うべく漢中へ武具兵糧、そして兵士を送りはじめたことを知り、焦りを覚えはじめていた。
招集命令が出れば、自分も漢中まで北上するため、成都で黄皓と夏侯覇について調べることができなくなる。
陳祗という侍中が何を考えているのかについても、よく知っておきたい。そうでなければ、北伐軍が北上を開始し成都を離れたのちに、夏侯覇の情報を独占し、費禕が宮廷内で更に権勢を強め、北伐中止案を打ち出す恐れもある。
それに、姜維は夏侯覇をどのように思っているのだろうか。こんな時に、どうして北伐の準備が進められるのだろうか。
様々な思いから廖化は、姜維の自宅を訪ね、直接問いかけることにした。
「衛将軍、夜分遅くに失礼致します」
「どうした元検。私の家を訪ねてくるなど、珍しい。誰か茶を持って参れ。我が家に珍しく客人が参ったぞ」
客間に案内され、二人は運ばれた温かい茶を飲んだ。寒い部屋の中では、湯気がやけに白く、そして激しく揺らめいていた。
「此度はなにゆえ我が家に参ったのだ。お主とは、酒を陣中で酌み交わすことはあっても、家で語らうことは今までなかった。私と、鎧を脱いで茶を飲みながら話をしてくださったのは、思えば丞相だけであった。理由はどうであれ、今日は感謝しよう」
「その儀には及びません。ただ私は、姜維将軍の心中を思い、こうして参った次第。将軍は日々、北伐にて魏を討伐することに心を砕き、妻も娶らず、子もなく、ただ蜀漢のために尽くしておられる。何度北伐を行おうとも兵力差は大きく、その上に費禕に圧力をかけられ、大軍を動員して長期に及ぶ戦いを行うことも難しく、日々、鬱憤が溜まる一方であるとお察し申し上げます」
「どんなに困難な状況にあっても、成果を出すのが将たる者の勤めだ。丞相ならば、このような状況でも戦果を上げておられた。全てはこの姜維の凡才の責任だ」
「ここ数日、北伐の準備をなさっておられると知り、将軍のお心も少しは晴れるやもしれぬと思い、馳せ参じたる次第。しかし……こうも思うのです。将軍はこの成都に、やり残したことがあるのでは……と」
「夏侯覇か。なるほど、そのために参ったのだな、そなたは」
「左様にございます」
廖化は頭を下げた。廖化の思いに気づいた姜維は、何度も頷いた。
「確かに夏侯覇は気がかりだが、我らは、いずれの派閥にも属さぬゆえ、仲間がおらぬ。宮廷内ではすでに、夏侯覇の尋問の結果が出回っているだろうが、我らの耳にそれが届くのは、全て事が決したあとであろう。夏侯覇を録尚書事に取られてしまった以上、我らにできることはない。あとは戦で、結果を出すのみだ」
姜維の諦観は、正しいものであるように思えた。確かに、宮廷に根を生やしていない姜維は、魏との戦には強くとも、国内の情報戦にはめっぽう弱いため、このまま夏侯覇を巡って成都で足踏みをせず、さっさと北伐の用意をし、仮に夏侯覇を巡って費禕が功績を立てたところでそれを上回る戦果をあげてしまう方が良い。姜維がこの時期に北伐へ出向くのは、姜維らしい合理的な判断にもとづくものであった。
「将軍、お願いがございます。この廖化を成都に残し、夏侯覇を我らの手に取り戻させてください」
「手立てがあるのか」
「あります。その為には……我らは……費禕を……!」
「殺すのか。蜀漢の臣を殺すというのか! 私の北伐を邪魔するというだけで、陛下の臣を、陛下の臣に殺させようというのか!」
「お聞きください将軍。そもそもその見方に誤りがあるのです。北伐の有無で、臣下が意見を割っている今が、有ってはならないことなのです」
「どういう意味だ?」
「我らはこれより北伐を再開します。戦果を出そうとも、数の力で太刀打ちできず、いつも魏に跳ねかえされます。我らには、兵の数が足りなすぎるのです。国内には兵が有り余っていて、東の呉や南の南中に目下敵はなく、国内の各郡も安定している中で、なぜ兵を北へ向けないのか──。録尚書事を暗殺、あるいは、失脚させるしかないのです。北伐をさせないのは、ほとんど録尚書事の一存ではありませぬか。録尚書事さえ除かれれば、そもそも我らは、北伐の妨害もされず、夏侯覇のような目的不明の刃を皇帝陛下のお膝元に置くこともなかったはずです」
「つまりお前は、夏侯覇の存在に惑わされ、暗殺をしようというのだな。それは断じて認められん。お前は必要ゆえ、共に北伐を行うのだ。北へ参れ」
「もうしばらく、話を聞いてください!」
「申せ、全て」
「費禕殿の小鳥に、侍中の陳祗という男がいます。この者は、費禕殿からの離反の気配があり、私と陳祗が結託すれば、夏侯覇を巡って蜀漢の亀裂が深まることを防げます。我らは北伐をし、内側は北伐を支える。その、蜀漢のあるべき姿を作り上げることができるのです!」
湯気が立っていた。湯のみはまだ熱く、飲む気にはなれなかった。だが姜維はどうしても茶を啜りたくなり、熱いとは思いつつ、ずずずと音を立てながら、茶を口に含んだ。存外熱すぎず、その苦さに気持ちが晴れた。
「その陳祗という侍中の存在を、どこで知ったのだ」
「宮廷に根を張る怪物、宦官の黄皓からです」
「名は聞いたことがある。黄皓は宮中の蜘蛛だと聞く。至るところに糸を付け、罠にかかったものを捕食し、都合のいい時に吐き出して使うのだ。最後は絡みとられ、お前は黄皓に使われ、いつかは殺されるかもしれんぞ。秦の趙高や、漢の十常侍同様、宦官の言葉は信用ならんものだ」
「陳祗を通し、費禕殿は黄皓を頼りにしていると聞きますぞ。そして今や費禕殿は、録尚書事の地位にあります。また肩書きだけといえども、軍での位は大将軍です」
「私よりも上だな。しかし、こうして軍を支配しているのは私だ。奴は軍で人を従わせることはできない。兵とは、王侯貴族よりも、生死を共にした上官の命に従うものだ。そして私は録尚書事をも兼任し、必要があれば朝廷にて費禕殿と同じように、発言できる」
姜維は茶を飲み干して、いった。
「黄皓に捕食された録尚書事殿の末路、そう長くないものと見た。お前は奴に関わるな、私と共に北へ上るのだ」
「御意。将軍のおかげで目が覚めました。共に北伐へ参ります」
廖化もまた茶を飲み干し、礼をして帰っていった。




