第十一話
同日、夕前
尚書省へ戻った陳寿は、問いの遊びがいつもより早く終わってしまったため、また勤務に戻ろうと考えた。机を敷き、墨を溶いて筆を手に取ったとき、上司の王崇に名を呼ばれた。
「陳寿、今日は早いんだな。呂乂尚書令がちょうどお前を呼んでたんで覗きに来たんだ。場所は分かるな? 早く行け。俺あの尚書令嫌いなんだよ」
王崇に急かされて呂乂尚書令のもとを訪ねた陳寿だが、もうあまり呂乂をあまり恐れなくなっていた。夏侯覇という虎と狭い小屋の中で向かい合い続ける数日が、彼の心を強靭にしたのだ。
「久しぶりだなぁ陳寿。単刀直入にいうが、録尚書事が、成果を聞かせろと面倒くさくてな。こういう事案だから、王崇を通す訳にも、文字に残す訳にもいかん。夏侯覇が蜀漢にいることは、未だ秘匿されているからなぁ」
「ですが、少しづつ漏れているようですよ」
「だぁ、まぁ知っている。出処がどこかは分からないが、多くの者が夏侯覇とお前の名を口にしている。お前がベラベラ喋ったのかとも疑ったが、それにしても広まり方が早かったし、もはや出処などどうでもいい。無駄話はいらん、とにかく成果を聞かせろ」
「夏侯覇については……未だにしっぽを出してはいません。奇妙な夢解きばかりさせるのですが、師匠に協力を仰いでも、未だその謎は解けていません」
「そうか、他にはなにか話していないか。ないならないでも構わん。費禕が困ろうとも知ったことではないし、あれだ。陛下も夏侯覇に対して関心がないとの噂もあるしな」
「もしかすれば、奴は……百日の問いが終わる頃に、成都で何かを企んでいるかもしれません。夢解きの中に、成都で山崩れという内容がありました。その意味は複数の解釈が可能ですが……師匠が教えてくれたのですが、成都の騎都尉は魏の降将です。仮にこの降将が夏侯覇の仲間であれば……成都で騒乱が起きるやもしれません。が、未だ確信はありません」
「面倒だが一応、報告しておいてやろう。夏侯覇がわざわざ降伏してまで成都を襲うとは、どうも思えんがなぁ」
全く危機感のない呂乂の反応に、少し拍子抜けしたが、自分でもただの仮説であると感じていた陳寿にとっても、真に受けるのは野暮に思えた。
陳寿が呂乂と会っていた頃、宦官の黄皓は陳祗と宮廷で密会していた。陳祗はこの頃の費禕が夏侯覇に執心していることについて、不快感と警戒心を強めていた。黄皓にとって、自らが陳祗の相談相手として確固たる地位を築いていることを確信しつつあった。その位、費禕の小鳥として陳祗が活動していることを知り、そしてその費禕との間に溝が生まれ、本心を表に出さない陳祗がしきりにため息を吐きながら感情的に愚痴をこぼすことなど、他者に対してはありえない事だった。
黄皓は人の目には、文句や愚痴を吐き出したくなる、柔らかさや包容感がある男に映る。その麗らかな顔で、心の中に籠った熱のような不満を、浄化してくれるのだ。だがそれは黄皓にとって、仮面であった。そうして得た情報は、自らが泳ぐ宮廷にはりめぐされた罠の網を避け、絡み取られぬようにするため、時として真偽を交えながら、あるいは実直に人へ話し、新たな信用と信頼を生み出す。信用や信頼を細切れにして売りながら、彼は自らの利益として生き延びているのである。
「陳祗殿にならば、私の胸の内を明かしても、私を罰したりは致しますまい」
「なんだ、なにかそなたにも不満があるのか」
「私も、あなたも、蜀漢の臣です。費禕殿は、蜀漢の国是を蔑ろにしています。我らは魏の曹氏を滅ぼし、漢を復興するために存在しているのです。そうでしょう?」
「そうだな。そなたは、姜維のことを嫌っていたが、北伐には賛成なのか。無論、私も北伐には賛成だが、勝機があるように思えん」
「それは将軍らに任せることです。夏侯覇には、魏の内情という、我々が喉から手が出るほど欲しい情報を持っています。費禕殿が、北伐の兵数に制限をかけなければ、今度こそ勝利を掴めると、私は信じています」
「そうだなぁ黄皓殿のお話には、一理はあるな。だが、費禕殿は健康そのもの。才能もあり、替えが効かない逸材であることは確かだ。北伐に力を注ぐなら、費禕殿を頑張って説得するしかない」
「説得……なされますか?」
「どういう意味だ、黄皓よ」
「夏侯覇は百日の問いで、陳寿に夢解きをさせているといいます。内容はまだ定かではありませんが、百日目、成都で変事の可能性もあるようなのです」
「それは誰がいっているんだ」
「譙周です。先日、陳寿と直接話をしたようなのですが、その際に聞いた夢解きの内容から、思いついたようなのです」
「ならば……」
「費禕殿をそれまでに説得し、夏侯覇を味方に付けたいのです。それが叶わなければ、夏侯覇が成都で事を起こし、北伐はおろか、陛下の御身さえ怪しくなるやも……しれませんぞ!」
「百日までに説得など、不可能だ。費禕殿は北伐を止めるために姜維殿を排除したがっているのだ。いや、本音は違うだろうが、その本音のために、建前として北伐は絶対に認めないだろう」
いうまでもなく、費禕の本音とは、よそ者を排除したいというものだ。敢えてそれをいわずとも、黄皓がそれに気づかないはずがないと陳祗は知っているし、黄皓もまた、陳祗が建前上は費禕の側に立つ人間のため、費禕の本音を言葉にしたくないのだろうということに気づいていた。そしてそれだけではなく、黄皓にはそれが別の意味にも捉えられた。それは、費禕の本音が伝わっても問題ないと、陳祗から最大限の信頼を与えられていると確信できるという意味である。陳祗が政界に進出して権勢を振るうには、費禕という後ろ盾が必要となるが、その費禕を見限っていると思えてならない。
「費禕殿の首を取るのです。首をです」
「遂に口にしよったか、黄皓よ」
「これは私とあなたの秘密です。他言無用ですぞ」
「分かっている。私がそなたを裏切れば、いやそうしようとするだけで、そなたは私を殺しにくるのだろう。お前の手下がどこにいるのか分かったものではない……この宮中で最も恐ろしいのは、皇帝陛下でも、費禕殿でも姜維殿でもない。それはそなただ、黄皓」
「戯れを……口がすぎますぞ」
「予言しよう、お前はいずれ、この蜀漢で必ず台頭する。正史にその名が残るほどだ」
話をはぐらかされた黄皓はこれ以上、陳祗に費禕殺害を迫ることを辞めた。だが、いつになく疲れ果てた表情の陳祗は、時間があれば落とせると、そのように思った。




