届かない剣-03
黒い獣は、道の真ん中に静かに立っていた。
まるで最初からそこにいたかのように。
紅い瞳だけが、じっと二人を見つめている。
「……どうして。」
ノアは息を呑んだ。
一本道のはずだった。
ずっと後ろから追ってきていたはずなのに。
どうして前にいる。
理解が追いつかない。
背中でリリアの身体が小さく震えた。
「ノア……。」
その声で、ノアは我に返る。
「大丈夫。」
反射的にそう答えた。
だが、その言葉とは裏腹に、自分の鼓動は激しく乱れている。
逃げ道を探す。
左。
深い茂み。
子どもでは抜けられない。
右。
岩肌が切り立ち、人ひとり通れる隙間もない。
前。
黒い獣。
後ろへ戻るしかない――そう思った瞬間。
背後から、バキッという音が響いた。
振り向く。
倒木。
さっきまで通ってきた道を、大木が塞いでいた。
風で倒れたのではない。
黒い獣の長い尾が、ゆっくりと揺れている。
まるで、逃げ道を断つためだけに倒したかのようだった。
ノアの背筋を冷たい汗が流れる。
「……うそ。」
喉が渇く。
息が浅くなる。
目の前の存在は、本当に魔物なのだろうか。
父が話してくれた魔物は、もっと本能のままに動く生き物だった。
だが、これは違う。
考えている。
逃げ道を塞ぎ、獲物を追い詰めている。
「ごめんなさい……。」
背中から、小さな嗚咽が聞こえた。
「わたしが迷子になったから……。」
「ノアまで……。」
リリアの声が震える。
「ごめんなさい……。」
ノアはゆっくりと首を振った。
「違うよ。」
「でも……。」
「リリアは悪くない。」
そっと背中から降ろす。
立とうとしたリリアは痛みに顔をしかめ、その場に座り込んでしまった。
やはり走れない。
ノアはその姿を見て、静かに息を吐いた。
もう、分かっていた。
逃げられない。
どちらか一人だけなら。
そう考えた瞬間、その考えを自分で打ち消す。
違う。
二人で帰る。
二人とも、生きて帰る。
それしかない。
ノアは折れかけた木剣を握り直した。
震える手に力を込める。
その時、不意に父の声が脳裏によみがえった。
『ノア。』
『剣は勝つためだけに振るうものじゃない。』
『守りたいものの前で、最後まで立っているために振るうんだ。』
幼い頃は、その意味がよく分からなかった。
でも、今なら分かる。
勝てるかどうかじゃない。
逃げるわけにはいかないんだ。
ノアはゆっくりと前へ出る。
リリアを背中に隠すように。
「ノア……?」
「ここにいて。」
小さく笑おうとした。
でも、うまく笑えなかった。
怖い。
怖くて仕方がない。
膝が震える。
泣きたくなる。
それでも、一歩だけ前へ踏み出した。
黒い獣が、その様子を静かに見つめている。
そして――。
初めて、その口元がわずかに動いた。
まるで、目の前の小さな少年を試すように。




