届かない剣-02
黒い獣が一歩踏み出す。
――ズン。
地面が揺れる。
その振動だけで、小石が跳ね、木々の葉が音を立てて降り注いだ。
「っ……!」
ノアは思わず息を呑む。
勝てない。
そんなことは、六歳の子どもでも分かった。
「リリア!」
「は、はいっ!」
「走ろう!」
ノアは迷わずリリアの手を握った。
温かくて、小さな手。
その手は恐怖で震えていた。
「出口まで行けば、大人がいる!」
「う、うん!」
二人は駆け出した。
落ち葉を踏みしめ、小道を必死に走る。
後ろを振り返る余裕なんてない。
ただ前へ。
一歩でも遠くへ。
ノアは森の道をよく知っていた。
この先を右へ曲がれば、小川。
その橋を渡れば街道へ出られる。
街道まで行けば、きっと父や村の大人たちが助けてくれる。
走れ。
走れ。
頭の中では、その言葉だけが何度も繰り返される。
だが。
――ズン。
――ズン。
背後から聞こえる足音は、少しも遠ざからなかった。
むしろ、ゆっくりと近づいてくる。
まるで獲物を追い詰めることを楽しんでいるかのように。
「ノア……。」
リリアの声が震える。
「大丈夫!」
ノアはそう答えた。
自分に言い聞かせるように。
「もう少しだから!」
その時だった。
「きゃっ!」
リリアの小さな悲鳴が響く。
振り返ると、木の根に足を取られたリリアが転んでいた。
「あっ……。」
立ち上がろうとする。
でも立てない。
足首を押さえ、小さく顔をしかめる。
「いたい……。」
ノアはすぐにしゃがみ込んだ。
「どこ!?」
「ここ……。」
足首は赤く腫れ始めていた。
ひねってしまったのだろう。
走るのは難しい。
後ろから。
――ズン。
また地面が揺れる。
近い。
さっきより、ずっと近い。
ノアは一瞬だけ唇を噛む。
迷っている時間はない。
「乗って!」
「え?」
「早く!」
リリアは驚いた顔をしたまま動けない。
「でも……。」
「大丈夫だから!」
ノアは背中を向けて腰を落とす。
「早く!」
震える小さな腕が、そっとノアの首に回された。
「ご、ごめんなさい……。」
「謝らなくていいよ。」
ノアはリリアを背負うと、ぐっと立ち上がる。
思ったより軽い。
でも、自分より少しだけ大きな女の子を背負って走るのは簡単ではなかった。
それでも足を止めない。
一歩。
また一歩。
息が上がる。
胸が苦しい。
それでも走る。
絶対に助ける。
その想いだけが、幼い身体を動かしていた。
しかし。
数十歩ほど走った、その時だった。
ノアの足が止まる。
「……え?」
目の前の道を、大きな影がゆっくりと横切った。
黒い巨体。
紅い双眸。
あの獣が。
いつの間にか、二人の前に立っていた。
回り込まれた。
ノアの喉が、ごくりと鳴る。
逃げ道は、もうなかった。




