届かない剣-01
――ミシッ。
倒れた大木が、地面を滑るように崩れ落ちる。
舞い上がった土煙が、夕日に染まった森をゆっくりと覆っていく。
ノアは息を呑んだ。
煙の向こうで揺れる、二つの赤い光。
それは獣の目とは違った。
まるで、燃え盛る炭火が闇の中に浮かんでいるようだった。
「ノア……。」
背中から、リリアの震える声が聞こえる。
ノアは振り返らない。
握り締めた木剣に、じわりと汗がにじんでいた。
やがて土煙が薄れていく。
その姿が、ゆっくりと現れた。
「……っ。」
言葉が出なかった。
黒い。
全身を黒曜石のような硬そうな外殻に覆われた巨大な獣。
肩の高さだけでも、大人が何人も積み重なったほどある。
頭には湾曲した二本の角。
長く伸びた尾が地面をゆっくりと這うたび、乾いた土が抉れていく。
何より恐ろしかったのは、その存在感だった。
何もしていない。
ただそこに立っているだけ。
それだけで息が苦しい。
胸が締めつけられる。
足が動かない。
心臓だけが、壊れそうなほど激しく脈打っていた。
ノアは今まで父と何度も森へ入り、小さな魔物なら見たことがあった。
角ウサギ。
牙オオカミ。
森熊。
どれも怖かった。
でも、目の前の"それ"は違う。
同じ「魔物」という言葉で呼んでいい存在には思えなかった。
黒い獣は、ゆっくりと顔を上げる。
燃えるような紅い瞳が、まっすぐノアを見据えた。
その瞬間。
ぞくり、と背筋を冷たいものが駆け抜ける。
逃げろ。
頭の中で誰かが叫んでいる。
逃げろ。
今すぐ。
ここから。
それでも、ノアは一歩も動けなかった。
いや、動かなかった。
背中にはリリアがいる。
その事実だけが、小さな足を地面につなぎ止めていた。
黒い獣が、一歩だけ前へ踏み出す。
――ズン。
地面が揺れる。
木々が震え、枝葉から無数の葉が舞い落ちた。
続いて、もう一歩。
――ズン。
それだけで、近くの細い木が根元から音を立てて倒れた。
ノアは木剣を握る手に力を込める。
震えは止まらない。
手も、膝も、声も。
怖い。
怖くてたまらない。
それなのに、不思議だった。
逃げようとは思わなかった。
守らなきゃ。
その気持ちだけが、恐怖より少しだけ強かった。
その時だった。
黒い獣が、不意に動きを止める。
紅い瞳が細くなり、じっとノアを見つめる。
まるで何かを確かめるように。
長い沈黙が流れる。
風ひとつ吹かない森で、ノアはごくりと唾を飲み込んだ。
「……なんで。」
小さく漏れたその呟きに答える者はいない。
だが次の瞬間――。
黒い獣は低く唸り声を上げると、大地を揺らしながら、ゆっくりとこちらへ歩き始めた。




