書物の向こう側-03
「……あれ?」
ノアの小さな呟きに、セシルは本から顔を上げた。
「どうかしたか?」
ノアは慌てて顔を上げる。
「あっ、すみません。」
「少し気になるところがあって……。」
セシルは穏やかに席を立ち、ノアの隣へ歩み寄る。
「見せてもらってもいいかな?」
「はい。」
ノアは研究書を少し横へ寄せた。
開かれていたのは、複合魔法陣の魔力循環について書かれたページだった。
「ここです。」
ノアは術式の一部を指差す。
「この魔法陣、説明では『第二循環から第三循環へ魔力を流す』と書かれていますよね。」
「ああ。」
「複合術式では一般的な理論だ。」
セシルは頷く。
「でも。」
ノアは紙へ簡単な魔法陣を書き始めた。
迷いのない手つきだった。
「この構成だと、第三循環へ送る前に魔力が干渉します。」
「だから術式全体が不安定になります。」
セシルは図へ目を落とす。
「……。」
ノアはさらに一本の線を書き加えた。
「この補助術式を先に通せば干渉は起きません。」
「それなら説明とも矛盾しませんし、魔力効率も少し良くなると思います。」
静寂が流れる。
セシルは何も答えない。
ただ、図を見つめていた。
「先生?」
ノアが不安そうに声を掛ける。
セシルは我に返ったように瞬きをした。
「……少し待っていてくれるか。」
そう言うと近くの書架へ向かう。
数冊の研究書を取り出し、机へ戻る。
ページをめくる音だけが静かな図書館へ響く。
一冊。
二冊。
三冊。
古い研究書を照らし合わせながら、セシルの表情が少しずつ変わっていく。
「まさか……。」
思わず小さく呟いた。
ノアが指摘した箇所には、後年の研究者による注釈が書き込まれていた。
『本理論には魔力干渉の問題が残る。改良の余地あり。』
さらに別の研究書。
そこには新しい術式が掲載されていた。
その構造は、ノアが今しがた紙へ描いたものと、ほとんど同じだった。
「……。」
セシルはゆっくりと顔を上げる。
「ノア君。」
「はい。」
「この改良術式を、以前どこかで見たことは?」
ノアは首を横に振る。
「ありません。」
「じゃあ、どうしてこう考えたんだ?」
ノアは少し考えてから答えた。
「前に読んだ魔力循環の本で、『魔力は急激に方向を変えると干渉しやすい』って書いてありました。」
「あと、属性変換術式では補助術式を先に組む例が多かったので……。」
「それなら、この魔法陣も同じじゃないかなって。」
あまりにも自然な答えだった。
特別なひらめきではない。
読んできた知識を一つずつ繋ぎ合わせた結果。
ただ、それだけ。
しかし、その「ただそれだけ」が、どれほど難しいことかをセシルは知っていた。
魔法理論とは、知識を覚える学問ではない。
知識と知識を結びつけ、新たな答えを導き出す学問だ。
目の前の少年は、それを無意識にやってのけている。
セシルは静かに息を吐いた。
「……驚いた。」
「え?」
「いや。」
セシルは穏やかに笑みを浮かべる。
「君と話していると、私まで勉強し直したくなる。」
ノアは照れくさそうに笑った。
「僕なんて、まだまだです。」
その言葉を聞きながら、セシルは心の中で苦笑する。
――この少年は。
――自分がどれほど希有な才能を持っているのか、本当に分かっていないのか。
そう思わずにはいられなかった。




