旅立ちの日-06
アークライト家の門の前に、一台の乗合馬車が止まっていた。
御者が荷台を整え、出発の準備を進めている。
ノアは家族一人ひとりの顔を見渡した。
「母さん。」
「兄さん。」
エレナは優しく微笑み、ノアの肩についた小さな埃を払う。
「身体に気を付けるのよ。」
「困ったことがあったら、一人で抱え込まないこと。」
「はい。」
ルークは笑いながらノアの背中を軽く叩いた。
「王都の料理も悪くないけど、母さんの飯には敵わないぞ。」
「帰ってきたら、土産話を山ほど聞かせてくれ。」
「うん。」
最後に、ノアはガレスの前へ立つ。
二人はしばらく何も言わなかった。
沈黙が流れる。
けれど、不思議と気まずさはない。
長い年月を共に剣を振ってきた親子だからこそ、言葉がなくても伝わるものがあった。
やがてガレスが口を開く。
「稽古を怠るな。」
「はい。」
「剣を磨け。」
「はい。」
「人を守るために振れ。」
「……はい!」
ノアは深く頭を下げた。
ガレスは静かに頷くだけだった。
それ以上の言葉はない。
ノアは馬車へ乗り込み、窓を開ける。
「行ってきます!」
家族三人が大きく手を振る。
ガレスは腕を組んだまま、まっすぐノアを見つめていた。
馬車がゆっくりと動き出す。
村の景色が少しずつ遠ざかっていく。
ノアは見えなくなるまで、何度も何度も手を振り続けた。
やがて馬車が坂道を越え、姿が見えなくなる。
静けさが戻る。
ルークがぽつりと呟いた。
「父さん。」
「なんだ。」
「最後くらい、『頑張れ』って言えばよかったのに。」
ガレスは遠くの道を見つめたまま、小さく息を吐く。
「あいつには、もう伝えてある。」
「剣で、か?」
「ああ。」
それだけ言うと、ガレスは踵を返した。
家へ戻るその背中は、いつもと変わらず大きい。
けれどエレナは、その歩幅がほんの少しだけゆっくりになっていることに気付いていた。
誰よりも寂しいのは、きっとこの人なのだ。
◇ ◇ ◇
同じ頃。
王都へ向かう街道を、一台の立派な馬車が走っていた。
窓際に腰掛けた少女は、春風に揺れる景色をぼんやりと眺めている。
長く伸びた栗色の髪。
澄んだ青い瞳。
中級貴族・ローゼンベルク家の長女――リリア・ローゼンベルク。
彼女は胸元から、小さな布袋を取り出した。
丁寧に包まれていたのは、押し花になった白い花だった。
少し色褪せている。
それでも、大切に保存されていたことが分かる。
幼い日の思い出。
森で花冠を作ってくれた、あの日の花。
リリアはそっと指先で撫で、小さく微笑んだ。
「……ノア。」
十年。
一度も忘れたことはなかった。
胸の奥で、期待と不安が静かに揺れる。
「会える……よね。」
その呟きは、馬車の音に溶けて消えていった。
青く澄み渡る空の下。
二台の馬車は、それぞれの想いを乗せながら、同じ王都へと進んでいく。
まだ互いの姿は見えない。
けれど運命の再会は、もうすぐそこまで迫っていた。




