旅立ちの日-04
「ただいま戻りました。」
玄関の扉を開けると、焼きたてのパンの香ばしい匂いが家いっぱいに広がっていた。
続いて、スープの優しい香り。
「おかえりなさい。」
柔らかな声とともに、エプロン姿の母が顔をのぞかせる。
エレナ・アークライト。
穏やかな笑顔がよく似合う女性だった。
「もうすぐ朝食ができるわよ。」
「はい、母さん。」
ノアが返事をすると、奥の食卓から明るい声が飛んできた。
「おっ、ようやく帰ってきたか!」
椅子に座っていた青年が、大きく手を振る。
兄のルーク・アークライトだ。
二十歳になったばかりの長男で、ガレス譲りの体格を持ちながらも、人懐っこい笑顔を絶やさない。
「今日は旅立ちの日なんだから、もう少しゆっくり帰ってきてもよかったのに。」
「朝稽古は休めないよ。」
ノアが苦笑すると、ルークは肩をすくめる。
「相変わらず真面目だな、お前は。」
「少しくらい手を抜いても父さんは怒らないぞ。」
その言葉に、ガレスが静かに椅子へ腰を下ろした。
「怒る。」
一言。
食卓が静まり返る。
……かと思えば。
「ほら見ろ。」
ルークが大げさに肩を落とし、ノアが思わず吹き出した。
エレナもくすりと笑いながら、焼きたてのパンを籠へ並べていく。
「あなた、今日くらいは優しいことを言ってあげたら?」
「甘やかす理由がない。」
「旅立ちの日なのよ?」
「だからこそだ。」
あまりにも真面目な返事に、ルークは頭を抱えた。
「母さん、父さんはもう少し『頑張れ』とか『体に気を付けろ』とか言えないの?」
「あなたも昔、同じことを言っていたわね。」
エレナは楽しそうに笑う。
ルークは照れくさそうに頭をかいた。
「……言ってた。」
「でも、そのあとちゃんと送り出してくれただろ?」
その言葉に、ガレスは少しだけ目を伏せる。
「必要なことは伝えた。」
「それだけだ。」
「ほら。」
ルークがノアへ小声で囁く。
「父さん、照れてる。」
「えっ?」
「しーっ。」
二人が顔を見合わせて笑っていると、ガレスがゆっくり顔を上げた。
「聞こえている。」
「……。」
一瞬の沈黙。
そして。
「あはははっ!」
ノアが吹き出した。
ルークも耐えきれず笑い始める。
エレナまで笑い声を漏らし、食卓は温かな空気に包まれた。
そんな家族を見回しながら、ノアは静かに思う。
――この時間が、ずっと続けばいいのに。
けれど今日、自分はこの家を離れる。
王立ルミナス学園。
夢だった場所。
期待と、不安。
その両方を胸に抱えながら、ノアは家族と囲む朝食を一口ずつ味わった。
きっとこの味を、しばらく食べられなくなる。
そう思うと、焼きたてのパンも、温かなスープも、いつもより少しだけ優しく感じられたのだった。




