旅立ちの日-01
夜明け前の森は、まだ薄い霧に包まれていた。
木々の隙間から差し込む淡い朝の光が、草葉に宿る露を静かに照らしている。
その静寂を破るように、一振りの木剣が風を切った。
――ブンッ。
鋭く、それでいて無駄のない音。
少年は止まらない。
肩で息をすることもなく、一定の呼吸を刻みながら木剣を振り続ける。
踏み込み。
斬り下ろし。
引き戻し。
構え。
その一つひとつが、まるで長い年月をかけて磨き上げられた型のように美しい。
やがて少年は、小さく息を吐いた。
「九百九十七。」
再び剣を振る。
「九百九十八。」
足の運びは乱れない。
木剣の軌道もぶれない。
「九百九十九。」
額から流れ落ちた汗が、朝日に照らされてきらりと光る。
そして最後の一振り。
――ブンッ。
「千。」
木剣を静かに下ろす。
ゆっくりと目を閉じ、呼吸を整える。
森を渡る風が、黒髪を優しく揺らした。
幼さの残っていた面影は消え、肩幅も広くなっている。
それでも、その穏やかな眼差しだけは十年前と変わらない。
「今日も千回、か。」
背後から落ち着いた声が聞こえた。
振り返ると、一人の男が腕を組んで立っている。
朝日に照らされた銀混じりの黒髪。
鋭い眼差し。
鍛え抜かれた体躯。
ノアは自然と背筋を伸ばした。
「父さん。」
ガレス・アークライトは小さく頷く。
「振りが浅くなったのは最後の三十本だけだ。」
ノアは苦笑した。
「ばれましたか。」
「息が少し上がっていました。」
「なら、なおさら誤魔化せん。」
ガレスは淡々と言う。
厳しい。
だが、その声にはどこか温かさもあった。
ノアは照れくさそうに頭をかく。
「父さんの目は、本当にごまかせませんね。」
「十年見てきた。」
短い返事だった。
その一言に、積み重ねてきた歳月が滲む。
六歳の春から始まった朝稽古。
雨の日も。
雪の日も。
熱を出した翌日でさえ、木剣だけは握り続けた。
気づけば、それはノアにとって呼吸と同じくらい当たり前の日課になっていた。
ガレスは一本の木剣を拾い上げる。
静かにノアへ向けた。
「一本だけ付き合え。」
その言葉を聞いたノアの表情がぱっと明るくなる。
「はい!」
返事に迷いはない。
木剣を握り直し、自然と正眼に構える。
その姿を見たガレスは、ほんの一瞬だけ目を細めた。
――本当に、大きくなった。
胸の内でそう呟く。
だが、その想いを口にすることはない。
代わりに自らも木剣を構え、静かに向き合う。
森に朝日が差し込む。
父と子。
十年間、一日も欠かさず続けてきた稽古が、今日も静かに始まろうとしていた。




