第9話 香玉
灯りが、ひとつ、消えた。
遠くの街の、いちばん端の灯り。
その隣も、その隣の隣も、ちゃんと光っている。そこだけが、穴みたいに黒かった。
「……あの灯りは」
シズちゃんが、いつのまにか立ち上がっていた。黒い耳が、その方角へ、ぴん、と立っている。
「消える、時刻じゃ、ない」
わたしに言った声じゃなかった。
わたしは、そっと、うしろを振り返った。
荷台。薬草の束の、向こう。縛られた7人の、いちばん奥。
あの人の目が、薄く開いていた。
灯りのほうは、見ていなかった。うしろで縛られた指が、1本ずつ、ゆっくり折り曲げられていた。全部折れると、また、ぜんぶ伸びた。
数を、数えているみたいだった。
なにを数えているのかは、分からなかった。
分からないのに、首のうしろの毛が、いっせいに立った。
*
夜明けの、ずっと前。
空が、まだ藍色だった。
わたしは焚火のところへ下りていった。
リーンちゃんが、火の前で、裂けた外套を縫っていた。針が、ちいさく光った。
シズちゃんは、その向かいに立っていた。
「……あの、シズさま」
リーンちゃんの声が、いつもより低かった。
「あの人の顔、思い出しました」
針が、止まった。
「ゾフス、といいます」
シズちゃんの黒い耳が、ぴく、と動いた。
「それ以上は」
「知りません。名前だけです」
知らないことを、知らない、と言える人だった。
「……近づくな」
シズちゃんが、短く言った。
「はい」
「ぞ、ふす」
口に出したら、2人が、いっぺんに振り向いた。
「……ハルカ」
「きいてた」
「わたし、ずっと、おきてた」
嘘だった。半分だけ。
*
リーンちゃんが、火の上の小さな鍋に、草をひとつかみ落とした。
しばらくして、あまいにおいが立った。
「ハルカさま。飲みますか」
「のむ」
「熱いですよ」
「ふうふうする」
「ふうふうしても、熱いです」
「する」
リーンちゃんが、ふ、と笑った。ゆうべからずっと硬かった顔が、そこで、いっぺんにほどけた。
それから、わたしのとなりに、すとん、と座った。
近かった。ゆうべは、あんなに離れて座っていたのに。
「リーンちゃん」
「はい、ハルカさま」
「それ」
「はい」
「さま、やだ」
リーンちゃんが、まばたきをした。
「わたし、ハルカ」
「で、でも、命の恩人ですし」
「わたし、年下だし!」
わたしは、びしっと自分を指さした。
リーンちゃんが、口を半分開けたまま、止まった。
それから。
「……あ」
ぱち、と目が開いた。
「そうですよね。たしかに、そうです」
「うん」
「じゃあ——ハルカちゃん」
速かった。
迷った時間が、たぶん、息ひとつぶんもなかった。
「ハルカちゃん!」
「ハルカちゃん」
「もういっかい」
「ハルカちゃん」
「うれしい」
「わたしもです」
リーンちゃんが、わたしの肩を、ぽん、と叩いた。
*
わたしは、火の向こうを見た。
シズちゃんが、こちらを見ていた。
……シズちゃん、なんで、そんな顔してるの。
困っている顔だった。魔物のにおいを拾ったときの顔じゃない。もっと、途方に暮れた顔だった。
「シズちゃん」
「……なんだ」
「シズちゃんも、やだよね」
「なにがだ」
「さま」
シズちゃんは、しばらく答えなかった。
それから、リーンちゃんのほうへ、静かに顔を向けた。
「……そう呼ばれると、遠い」
それだけだった。
短くて、まっすぐな声だった。照れも、ごまかしも、なかった。
リーンちゃんが、息を呑んだ。
でも、すぐに姿勢を正して、まっすぐシズちゃんを見返した。
「……分かりました」
「シズさん、で、よろしいですか」
「ああ」
「はい。シズさん」
それきりだった。
リーンちゃんは、それ以上、近づかなかった。
肩を叩いたりも、しなかった。
わたしのときとは、距離が、ぜんぜん違った。
……リーンちゃん、シズちゃんには、そうするんだ。
*
リーンちゃんは、喋りながら、片手でずっとなにかをしている人だった。
煎じた草を、眠っているお父さんの唇に含ませる。焚火の石の上に、パンの残りを並べる。それを、喋りながらやっていた。
じ、と小さな音がした。
……あ。
……あさごはんの、におい。
ゆうべの野宿と、なにも変わらない場所のはずだった。
なのに、そこだけ、家みたいだった。
「ハルカちゃん、パンはお好きですか」
「すき」
「わたしも好きです。焼きたての、端っこの硬いところ。あそこがいちばんおいしいんです。うちの父、やわらかいところしか食べないんですよ。あれで弓を引くんですから、信じられます?」
「ゆみ」
「はい。荷台の底に積んであります。獣よけの弓です。父が引くと、だいたい当たります」
「リーンちゃんは?」
「わたしは、だいたい当たりません」
「……リーンちゃん」
「言わないでください。いま自分で言いましたから」
わたしは、お腹をかかえて笑った。
「くさ、うるの?」
「売ります。摘んで、干して、束にして。帳面もわたしがつけてます。東の桶屋のダンさん、南門のパン屋のマヤさん。お客さんの名前、ぜんぶ覚えてます」
「ぜんぶ」
「ぜんぶです」
「すごい」
「でしょう」
リーンちゃんが、えへん、と胸を張った。わたしも、つられて胸を張った。
「でも、うちの村がどっちにあるかは、いまだに分かりません」
「え」
「ハルカちゃん、山って、動くんですよ」
「うごく」
「動きます。歩いていると、さっきまで前にあった山が、いつのまにか左にいるんです。もっと歩くと、また前に戻ってきます」
「だからわたし、まっすぐ歩いてるつもりでも、思ってるところと少しちがうところに着くんです」
リーンちゃんは、そこで先に笑った。
「遠くへ行くのが、こわいんです。わたし」
「……リーンちゃん」
「言わないでください。いま自分で言いましたから」
2回目だった。
「ハルカちゃん」
「うん」
「さっきから、髪に草が刺さってます」
「え」
「ずっと刺さってます。2本」
「なんで、いわないの」
「かわいかったので」
「……リーンちゃん」
「3本になりました」
わたしは慌てて頭を振った。かさかさ、と乾いた音がした。
*
風が吹いた。
リーンちゃんの髪が、さらさらと流れた。栗色の、まっすぐな髪だった。
いい匂いがした。草の匂いじゃなかった。もっと、あまい匂い。
リーンちゃんが、こちらを向いて笑った。人に話しかけるときの、あの笑い方だった。
……わたし、リーンちゃん、すきだなぁ。
*
「シズちゃん、シズちゃん、シズちゃん」
「……なんだ」
「しんじられない、って言って」
「なんの話だ」
「リーンちゃんのおとうさん。やわらかいとこしか、食べないの」
「……知らん」
「しんじられない、って」
「……」
「シズちゃん」
「……信じられ、ない」
真顔だった。
真顔のまま、ちゃんと最後まで言った。
リーンちゃんが、ぷっと噴き出した。わたしも、また笑った。
*
リーンちゃんが、あたたまったパンを半分に割った。大きいほうを、シズちゃんへ差し出した。
「シズさん。端っこ、いりますか」
「……もらう」
差し出すとき、リーンちゃんの手は、ちゃんと届く分だけしか伸びなかった。
それから、リーンちゃんは、シズちゃんの黒い耳を、じっと見た。見て、口を開きかけた。
……あ。なんか、ききたいんだ。
でも、リーンちゃんは、そこで口を閉じた。
訊かなかった。かわりに、にこっと笑った。
「おいしいですよ、そこ」
シズちゃんが、ひとくち噛んだ。黒い耳が、ぴこ、と1度、動いた。
「……硬い」
「硬いんです」
リーンちゃんが、わたしのとなりへ戻ってきて、思いきり身を寄せてきた。
「ハルカちゃん、聞きました? 硬い、って」
「きいた」
「わたし、あれ、うれしいです」
早口だった。声が、ちょっとだけ、うわずっていた。
*
シズちゃんは、パンを持ったまま、わたしたちを見ていた。
……シズちゃん、いまの、わかんないんだ。
わたしたちは、なんにも役に立つ話をしていない。パンの端っこと、当たらない弓と、帰れない家の話しか、していない。
それから。
シズちゃんの口の端が、ほんの少しだけ、上がった。
……あ。
シズちゃんが、そこで止まった。
自分の口もとに、指を1本、そっと当てた。上がった、といま自分で気づいた顔だった。
黒い尻尾が、ふわり、と1度、揺れた。
「……そうか」
小さな声だった。
なにが「そうか」なのかは、言わなかった。
わたしも、訊かなかった。
訊いたら、たぶん、消えてしまう気がした。
「……いいなあ」
しばらくして、リーンちゃんが、ぽつりと言った。
「2人とも、強くて」
それから、すぐに顔を上げて、笑った。
「わたし、戦えないので。魔法も、ないので」
「草の名前だけです。それも、うちの店にある分だけ」
言い方は、明るかった。
明るかったのに、その1言だけが、少しだけ、軽すぎた気がした。
わたしは、なにか言おうとした。
なにも、出てこなかった。
シズちゃんも、なにも言わなかった。
リーンちゃんは、もう、鍋を火から下ろしていた。
*
馬車が、東の街道を、ゆるやかに進んでいた。
手綱はリーンちゃん。シズちゃんは、その隣。わたしは荷台で、薬草の束の脇に座っていた。
だから、いちばん近くにいたのは、わたしだった。
……なわ。
7人の手首は、みんな2重に巻かれている。6人は、その2重の巻きが、きっちり詰まっていた。
ゾフスの縄だけ、上の1本が、下の1本より、ほんの少しだけ、下にずれていた。
「シズちゃん」
「うん」
「あの人の、なわ」
「うん」
「……ずれてる、かも」
シズちゃんが振り向いた。荷台へ身を乗り出して、手首を手前から順に見ていった。
最後に、ゾフスのところで、目が止まった。
「……大丈夫、だよ」
……あ。
しっぽが、止まった。
シズちゃんが「だいじょうぶ」って言うとき、しっぽは、いつも止まる。
「ゆうべ、わたしが、ぜんぶ、締め直した。縛られていると、手首が痩せる。だから、少し余るんだ」
「……そう」
余っているんじゃない。ずれているんだ。
でも、その言い方が、口から出てこなかった。言葉が、喉のところでぐるぐるして、かたちにならないまま沈んでいった。
シズちゃんは、もう前を向いていた。
……きのせい、かも。
そう思うことにして、それでも、荷台の奥から目を離さなかった。
*
だから、見えた。
ゾフスが、薄く目を開けた。
わたしと、目が合った。
合ったのに、この人はまばたきをしなかった。かわりに、口の端だけを、ほんの少し持ち上げた。
それから、自分の襟に、顔を伏せた。
噛んだ。
ぷつ、と糸の切れる音がした。
襟の内側から、紅い粉が、ぱっと散った。
風が、それをさらっていった。
甘いにおいがした。
でも、腐った甘さだった。花でも果物でもない、なにか。鼻の奥がひりっとした。
「シズちゃん——!」
目で追ったはずなのに、途中がなかった。気がついたらシズちゃんは荷台の奥にいて、ゾフスの首元を掴んでいた。
襟を、指で裏返した。
破れた糸の跡と、紅い粉が、指先に残った。
「……香玉」
シズちゃんの声が、低くなった。
「こうぎょく」
「魔物を、呼ぶ」
シズちゃんが、その指を風に払った。
「森の獣は、この匂いに、集まる」
ゾフスは、答えなかった。
薄く笑って、それから、静かに目を閉じた。
森の奥で、木の枝がざわざわと鳴った。
ざわ、が、ざあ、になった。ざあ、が、ばきばき、になった。
「シ、シズさん。いまの——」
「馬車を止めろ」
シズちゃんが、短く言った。
「リーンはお父上の側に伏せていろ」
リーンちゃんが手綱を引いた。それから、唇をぎゅっと結んで、顔を上げた。
「縄も、見ています。1本も、ほどけさせません」
声が震えていた。震えたまま、最後まで言いきった。
「……頼む」
わたしは荷台から降りて、シズちゃんの脇に、ぴたりと並んだ。
心臓が、とん、と1度大きく鳴った。それから、走り始めた。
でも、こわい、じゃなかった。
——うごきたい。
身体のほうが、先にそう言っていた。
「シズちゃん」
「うん」
「連携、いこう」
「……ああ。2人で、な」
*
茂みが、ばさっと割れた。
黒くて、丸くて、地面すれすれを走ってくるものが、3つ。
猪だった。牙が、下から上へ、太く曲がっている。
でも、背中が、へんだった。
毛が、毛じゃなかった。銀色の針が、背中いっぱいに、びっしり生えていた。走るたびに、その針が、しゃら、しゃら、と鳴った。
朝の光がそこに当たって、背中だけが、川みたいに光っていた。
……きれい。
思ってしまってから、慌てて口を結んだ。
「針毛猪」
シズちゃんが、低く言った。
「はりげ、いのしし」
「まっすぐしか、走れん。だが、背を見せるな」
「せなか」
「あれは、飛ぶ」
右の1頭が、来た。
シズちゃんが、動いた。
しゃっ。
刀が鞘を走った。すれ違いざま、細い線が1本、猪の首のところに引かれた。
猪はそのまま3歩走って、それから、地面に鼻を落とした。
まんなかの1頭が、わたしに来た。
線が、見えた。牙の先から、わたしの腰へ。太くて、まっすぐな線だった。
……よけやすい。
わたしは、脇へ滑った。花びらが横へ落ちるみたいに、するっと。
すれ違いざま、掌の付け根を、その脇腹に打ち込んだ。
どすん。
打った。打ったのに、手のほうが、痛かった。
掌の付け根に、細い赤い筋が3本、走っていた。針が、かすっていた。
3頭目が、そこで、足を止めた。
止まって、身体を、ぶるっと震わせた。
銀色が、いっせいに立ち上がった。
——飛んだ。
空気が、白く光った。
線が、見えた。
1本じゃない。2本でも、3本でもない。
数えられなかった。
わたしの前の空気が、線でいっぱいになった。網みたいだった。網のあいだに、隙間がない。
……ない。
線のないところが、ない。
初めてだった。
背中を、ぐいと引かれた。
シズちゃんだった。
わたしの前に出て、刀を横に寝かせた。
ちちちちち、と、雨みたいな音がした。
針が、刃と、シズちゃんの外套と、腕に当たった。
袖が、いくつも裂けた。裂け目から、赤い点が、ぽつぽつと浮いた。
「シズちゃん!」
「浅い」
シズちゃんは、それだけ言った。
「近づけ。あれは、近くでは飛ばせん」
「うん」
わたしは、走った。
地面すれすれまで身体を沈めて、まっすぐ。
と、横から、来た。
……あ。
まんなかの1頭だった。倒れていなかった。脇腹を打たれたまま、地面を回り込んでいた。
線が、2本になった。前と、横。
前の線を、よけた。横の線は、間に合わなかった。
太い牙が、わたしの脇腹を、下からすくい上げた。
どん、と身体が浮いた。地面に落ちて、2回、転がった。
息が、半分だけ、出ていった。
顔を上げた。
3頭目が、こっちを向いていた。
銀色が、また、いっせいに立ち上がった。
……たてない。
うしろで、シズちゃんが地を蹴る音がした。
……とおい。
——ひゅっ。
細い音が、頭の上を通った。
風を切る音。まっすぐじゃない、ふらふらした音だった。
矢だった。
矢は、猪の顔の、目のすぐ下に、とすっ、と刺さった。
猪が、悲鳴みたいな声を上げた。
立ち上がりかけた銀色が、ばらばらと崩れた。針が、あさっての方向へ散っていった。
……いま。
わたしは、地面を掴んで、立った。
息は、まだ半分だった。半分でも、足は動いた。
首を振っている猪の、その顎の下へ、身体ごと入った。
膝を、深く沈めた。
掌の付け根を、ふたつ、下から突き上げた。
ごつん。
太い身体が、ふわりと浮いて、それから、落ちた。
どさり。
残りは、脇腹を打たれた1頭だった。
わたしのうしろへ回りこもうとして——そこに、シズちゃんがいた。
ひゅん。
それで、終わりだった。
*
わたしは、馬車のほうを見た。
御者台の上に、リーンちゃんが立っていた。
弓を、持っていた。
両手が、震えていた。弓の下の端が、御者台の板を、こつ、こつ、と叩いている。構えは、めちゃくちゃだった。肘が上がりすぎていて、足の位置も、ばらばらだった。
口が、半分、開いたままだった。
「……当たり、ました」
自分に言っているみたいな声だった。
「リーンちゃん」
「当たりました」
「うん」
「……わたし、当たったこと、ないんです」
「うん」
「1本目は、外しました。あれは屋根より上へ行きました」
わたしは、森のほうを見た。ずいぶん上の枝に、白い羽根が、ちょこんと刺さっていた。
「……ほんとだ」
「言わないでください」
「でも」
「はい」
「2本目、あたった」
「あれ、まぐれです」
「うん」
「ぜったい、まぐれです」
「うん」
「……でも」
リーンちゃんは、そこで、弓を胸に抱えた。
下ろさなかった。
「リーン」
シズちゃんの声だった。
リーンちゃんの肩が、びくっと跳ねた。
「は、はい。あの、動くなと言われたのに、わたし、勝手に」
「あれがなければ」
シズちゃんが、まっすぐリーンちゃんを見た。
「ハルカは、立てていない」
それだけだった。
シズちゃんはもう、森のほうを見ていた。
リーンちゃんは、口を半分開けたまま、こくん、と1度だけ、うなずいた。
弓を抱えた腕に、少しだけ力が入ったのが、こちらからも見えた。
*
目のまえで、光の粒がふるえた。粒がふわりと集まって、まぼろしの窓が、ぽうっと灯った。
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LV UP!
ハルカ LV7 → LV8
==========
その、すぐあとだった。
脇腹の痛みが、すっと軽くなった。痛みが消えたんじゃない。痛いところが、遠くなった。
息が、深く入った。足の裏が、地面のかたちを、前よりこまかく拾っていた。小石の位置が、踏まなくても分かる。
わたしは指を、ぐう、ぱあ、と開いてみた。
「シズちゃん、あがった」
「……ああ」
「ゆびの先まで、わかる」
シズちゃんが、刀を鞘へ戻した。ぱちん、と鍔が鳴った。
「シズちゃん、うで」
「浅い」
「あかい」
「浅い」
「まく」
わたしはシズちゃんの袖を、そっとまくった。細かい傷が、いくつも並んでいた。
シズちゃんは、なにも言わなかった。
黒い尻尾が、ふわっとひとつ、揺れた。
と、シズちゃんが、風のほうへ顔を向けた。
「シズちゃん?」
「……匂いが、消えていない」
黒い耳が、森の奥へ、ぴん、と向いた。
「あれは、まだ、呼んでいる」
*
どすん。
地面が、鳴った。
どすん。
もう1度。足の裏から、その音が、膝まで上がってきた。
街道の奥。森の暗がりが、割れた。木が押しのけられて、ばきばき、と幹の折れる音がした。
熊だった。
わたしは思わず、顎を上げていた。それでも、まだ上まで届かなかった。大人の人を2人、縦に積んだくらい。額から左右に、白くて鋭い角が伸びていた。
目が、赤く濁っていた。
「森角熊」
シズちゃんが、低く言った。
わたしはシズちゃんの外套の裾を、そっと引いた。
「シズちゃん」
「うん」
「わたしが、行く」
シズちゃんの黒い耳が、ぴく、と動いた。
「1人で、か」
「うん」
「シズちゃんは、リーンちゃんと、おとうさんの、そばに」
「あの、縛られた人たちも、いるから」
言いながら、わたしはもう1度、荷台のほうを見ていた。
シズちゃんは、しばらく答えなかった。
「……怪我を、するかもしれない」
「うん」
「それでも、行くか」
「行く」
わたしはシズちゃんの目を、まっすぐ見返した。
「強くならないと」
「ルナちゃんを、助けに、行けないから」
シズちゃんの目のふちが、ほんの少し、細くなった。それから、ゆっくり、うなずいた。
「……分かった。行っておいで」
「危なくなったら、すぐ、割って入る」
「うん」
「ハルカちゃん」
御者台の上から、リーンちゃんが、まっすぐこちらを見ていた。
早口じゃなかった。笑ってもいなかった。
「……帰ってきて、ください」
ふざけたところが、ひとつもない声だった。
わたしは振り返って、大きくうなずいた。
「かえってくる」
*
街道の真ん中へ、出た。
熊が、こちらを見た。ぐるる、と喉が鳴った。音じゃなくて、風みたいに来た。前髪が、ふわっとうしろへあおられた。
……ほんとうに、おおきい。
それでも、足は、下がらなかった。
膝を、少しだけ曲げた。右足をうしろへ、半分だけ引いた。両手を、そっと、胸の前へ上げた。
背中のずっとうしろで、シズちゃんが見ている。
……見ててね。
熊が、こちらへ、身体を傾けた。
わたしは、
1歩、まえへ、踏み出した。
——踏み出す、その一瞬に。
目のはしに、荷台が、入った。
薬草の束の、向こう。
いちばん奥の人の、手首。
2重に巻かれていたはずの縄が、1重に、なっていた。
ゾフスの目が、開いていた。
熊のほうを、見ていなかった。
わたしを、見ていた。




