第10話 十までの約束
わたしを、見ていた。
熊が、すぐそこにいるのに。
ゾフスの目は、ぴくりとも動かなかった。
……なんで。
……なんで、そっち、見ないの。
その目は、こわがってもいなかった。急いでもいなかった。
朝の光の下で、ただ、静かに開いていた。
わたしのほうを、まっすぐに。
まばたきが、1度。
それだけだった。
それだけなのに、合図みたいに見えた。
まず、足の裏に来た。
音より、先だった。
土が、下から、とん、と持ち上がった。
それから、耳に来た。
どすん。
そのつぎに、風が来た。
熊は、まだ、あんなに遠いのに。
……押されてる。
熊が来るより先に、熊のぶんの空気が、こっちへ来ていた。
*
わたしは、街道の真ん中で、足を開いた。
うしろに、荷馬車。荷馬車には、リーンちゃんと、眠ったままのお父さんと、縛られた7人がいる。
だから、ここから、下がれない。
どすん。どすん。
地面が、太鼓みたいに鳴った。鳴るたび、歯の奥が、かちかち、と細かく震えた。
白い角が、朝の光を、ぬめり、と返した。
線が、見えた。
角の先から、わたしの胸へ。
まっすぐで、太くて、1本だけ。
……見える。
うれしくなった。ほんとうに、うれしかった。
昨日、猪の針が飛んだとき、線は数えきれなくなった。網みたいになって、隙間がどこにもなかった。
でも、今度は、1本。
……よけられる。
わたしは、右へ滑った。
花びらが横へ落ちるみたいに、するっと。
線の、外へ。
線の外へ、ちゃんと、出たのに。
ばんっ。
肩に、家が当たった。
そう思った。
視界が、白くなった。身体が、街道を横へ跳んだ。土の上を2回はねて、3回目で、止まった。
息が、半分、出ていった。
……あたった。
顔を、上げた。
熊が、こちらへ首を回していた。
角は、わたしのいた場所を、まっすぐ通り抜けていた。
線は、あっていた。
線は、あっていたのに。
……肩。
角の線の、その横。太い肩が、線の外を、丸ごと通っていた。
……そっか。
のどが、ひゅっと鳴った。
……この子、おおきすぎて。
……線の、そとが、ない。
*
立った。膝が、少し笑っていた。
でも、下がらなかった。下がったら、うしろに荷馬車がある。
熊が、また来た。
今度は、走らなかった。
歩いて、来た。
1歩。土が、鳴る。2歩。土が、鳴る。
急がない歩き方だった。急ぐ必要が、ないみたいだった。
わたしは、正面から入った。
前足の内側。毛皮のいちばん薄いところ。指の腹が、そこを勝手に選んだ。
膝を沈めて、掌の付け根を、下から突き上げた。
どすん。
打った。
ちゃんと、打った。
なのに、なにも、起きなかった。
打った力が、毛の中に入って、そのまま、消えた。深いところで、なにかにぶつかった気配すら、なかった。
……とどいてない。
手のほうだけが、しびれていた。
熊が、わたしを見下ろした。
赤く濁った目が、2つ。
それから——熊は、わたしから、目をそらした。
……え。
のっそりと、首が、横へ動いた。
わたしの、うしろへ。
荷馬車の、ほうへ。
……だめ。
熊が、歩き出した。
わたしの横を、通り過ぎた。
毛皮が、わたしの肩をこすっていった。あたたかくて、湿っていて、川の岸みたいな匂いがした。
どすん。どすん。
わたしは飛びついた。背中に手をかけて、拳を、2度、3度、打ち込んだ。
届かない。
熊は、止まらなかった。
振り払いも、しなかった。
……ふりはらっても、くれない。
こわい、が、そこで、かたちを変えた。
痛いのが、こわいんじゃなかった。
この子にとって、わたしが、いてもいなくても同じだということが、こわかった。
*
荷馬車の上で、リーンちゃんが立ち上がるのが見えた。
その脇に、シズちゃんがいた。
鍔が、ぱちん、と鳴った。
……だめ。
……まだ、こないで。
言葉には、しなかった。息がなかった。
でも、シズちゃんの黒い耳は、こちらへまっすぐ向いたままだった。
抜きかけた刀が、そこで、止まった。
止まったまま、動かなかった。
……シズちゃん。
その一瞬に、上から、声が降ってきた。
「ハルカちゃん、目——!」
リーンちゃんだった。
御者台の上で、なにか大きなものを、両手で頭の上まで持ち上げていた。
鍋だった。
朝ごはんを煎じた、あの鍋だった。
「目、閉じてくださ——」
最後まで、聞こえなかった。
鍋が、飛んできた。
中身ごと、鍋ごと、まっすぐ飛んできて、熊の鼻先で、ばしゃっ、と割れた。
白っぽい草の粉が、ぶわっと広がった。
においが、来た。
目の奥が、じん、とした。舌の裏に、苦いものが勝手にわいた。
熊が、止まった。
止まったのに、土だけが、まだ、揺れていた。
それから、熊は、天を向いて、首をぶんぶんと振った。
角が、朝の空を、めちゃくちゃにかき混ぜた。
鼻を、地面にこすりつけた。
においから、逃げようとしていた。
……いま。
わたしは、走った。
*
熊の首が、上を向いている。
顎の下が、こっちへ、まるごと開いていた。
線が、見えた。
前足のところに、1本。首のところに、1本。2本とも、太かった。
でも、わたしは、もう、線を見ていなかった。
……外へ、出ようとしてた。
……この子は、大きすぎて、外がないんだ。
……じゃあ。
……なかに、はいる。
わたしは、身体を地面すれすれまで沈めて、線の下をくぐった。
毛皮の壁のなかへ、飛び込んだ。
暗かった。上も、横も、ぜんぶ毛だった。
と——時間が、遅くなった。
昨日と、同じだった。
毛の1本1本が、風に押されて、順番に倒れていくのが見えた。落ちてくる草の粉が、空中で止まりかけていた。
……また、これ。
わたしは、その遅い時間のなかで、探した。
熊のうしろ足。
太い、太い、丸太みたいな足。
その、うしろ側。
曲がるための、折れ目。
毛皮の下で、そこだけが、ぐっ、と張っていた。ずっと重いものを支えて、張りきっていた。
……そこ。
膝を、深く沈めた。
掌の付け根を、ふたつ、そこへ、下から突き上げた。
ばきん。
乾いた音がした。
太い足が、内側へ、折れた。
巨体が、片方から、傾いた。
ゆっくりだった。
大きいものは、倒れるのも、ゆっくりだった。
*
わたしは、その下から抜けなかった。
抜けたら、また、外になる。
上を、見た。
熊の身体が、空を全部ふさいで、こちらへ落ちてきていた。
空気が、押されて、下りてきた。耳が、詰まった。
……おもい。
……おもいのが、この子の、いちばんの武器で。
……いちばんの、おもさ。
わたしは、両膝をたたんで、地面に背中をつけた。
それから、両腕を、まっすぐ上へ突っ張った。
掌の付け根が、ふたつ。
落ちてくる首の付け根の、その骨のつなぎ目に、かちり、とはまった。
あとは、待つだけだった。
熊が、自分で、落ちてきた。
ごき。
小さい音だった。
あんなに大きな身体から出た音とは、思えないくらい、小さかった。
どさり。
地面が、最後にもう1度、鳴った。
*
しばらく、なにも聞こえなかった。
毛皮の脇から、朝の光が、細く差し込んでいた。
わたしは、その隙間から、這って出た。
膝が、笑っていた。1度、地面に手をついた。
息が、ぜんぶ、戻ってきた。
冷たくて、針葉樹の匂いがして、少しだけ、苦い草の味がした。
口の端が、勝手に上がった。
「……たのしかった」
言ってしまってから、慌てて口を押さえた。
「ハルカ」
シズちゃんが、目の前にいた。
いつ来たのか、分からなかった。
膝をついて、わたしの肩を、両手で持っていた。
「どこだ」
「かた」
「見せろ」
「あと、よこっぱら」
「……2か所か」
「あと、て」
「3か所だ」
シズちゃんの黒い耳が、ぱたっと伏せた。
わたしは、そこで、シズちゃんの足もとを見た。
土が、ふたつ、深くえぐれていた。
足の形に、ふたつ。
……シズちゃん。
わたしは、なにも言わなかった。
言ったら、たぶん、この人は困る。
*
「ハルカちゃーん!」
リーンちゃんが、御者台から飛び降りてきた。
降り方が、めちゃくちゃだった。板を踏み外して、そのまま、わたしのところまで転がるみたいに走ってきた。
「生きてます!?」
「いきてる」
「よかった、生きてます、生きてました! わたし、心臓が、いま、2回止まりました!」
「にかい」
「2回です!」
わたしは、笑ってしまった。笑ったら、脇腹が痛かった。
「リーンちゃん」
「はい」
「さっきの」
「はい」
「なべ」
リーンちゃんの動きが、止まった。
「……鍋、ごと、行きました?」
「なべごと、いった」
「……手が、滑ったので」
「なべごと」
「言わないでください。いま自分で言いましたから」
3回目だった。
わたしは、割れた鍋のほうを見た。
白っぽい粉が、まだ、街道にうっすら残っていた。
「あれ、なに」
「鼻曲がり草です」
「はな、まがり」
「はい。鼻が曲がるほど臭いので、鼻曲がり草。獣よけに使います」
リーンちゃんが、胸を張りかけて、やめた。
「……うちで、いちばん売れない草です」
言い方は、明るかった。
「売れないんですけどね。父が、毎年、干すんです。ぜったい売れないのに」
それから、リーンちゃんは、熊のほうを見た。
見て、しばらく、黙っていた。
「……売れなくても、干しておくものですね」
小さい声だった。
「シズちゃん」
「うん」
「リーンちゃんの、くさ」
「うん」
「すごい、って言って」
「……」
「シズちゃん」
「……すごい」
真顔だった。
真顔のまま、ちゃんと言った。
リーンちゃんが、ぷっ、と噴き出した。
そして。
わたしの耳が、拾った。
「……ふ」
シズちゃんだった。
短い、息みたいな音だった。
でも、たしかに、笑った。
「シズちゃん」
「なんだ」
「いま、わらった」
「……笑っていない」
「わらった」
「笑って、いない」
「わらった〜」
シズちゃんの黒い尻尾が、ふわり、と1度、揺れた。
揺れたことに、この人は、たぶん気づいていない。
リーンちゃんが、こっちを見ていた。
口が、半分、笑いかけていた。
それから、その口を、ゆっくり閉じた。
入ってこなかった。
……リーンちゃん、いまの、いっしょに言えばよかったのに。
でも、リーンちゃんは、ただ、うれしそうにしていた。
*
シズちゃんが、立ち上がった。
熊のほうへ、歩いていった。
倒れた鼻先のところに膝をついて、毛のあいだへ、指を入れた。
指を、抜いた。
その指先を、じっと見て、それから、鼻へ近づけた。
黒い耳が、ぴん、と立った。
「……ハルカ」
「うん」
「来い」
わたしは駆け寄って、シズちゃんの指先を覗き込んだ。
毛の油に混ざって、うっすらと、紅い粉がついていた。
においを、かいだ。
甘い。腐った甘さ。花でも果物でもない、あの、鼻の奥がひりっとするやつ。
「……おなじだ」
「同じだ」
シズちゃんの声が、低くなった。
「風下から、まっすぐ来ている」
「かざしも」
「あの匂いを、追ってきた」
シズちゃんは、指を風に払った。
それから、荷馬車のほうへ、顔を向けた。
黒い尻尾が、下がった。ゆっくりと、まっすぐに。
……あ。
シズちゃんの尻尾がこうなるところ、わたし、初めて見た。
「この熊は」
シズちゃんが言った。
「あの男が、呼んだものだ」
*
シズちゃんが、荷台へ上がった。
薬草の束を、片手でよけた。
いちばん奥。ゾフスの襟を、掴んだ。
ゾフスは、目を開けた。
驚いていなかった。
「……なぜ、呼んだ」
シズちゃんの声は、静かだった。
静かすぎて、こわかった。
ゾフスは、しばらく答えなかった。
それから、首だけを、ゆっくり、こちらへ向けた。
わたしのほうを、見た。
「……見たかった」
かすれた、低い声だった。
わたしが、この人の声を聞いたのは、それが初めてだった。
「なにをだ」
「その子が」
ゾフスの目が、わたしから、離れなかった。
「どこまで、やるか」
シズちゃんの手に、力が入った。襟の布が、ぎゅ、と鳴った。
「……逃げるためでは、なかったのか」
ゾフスは、答えなかった。
答えないまま、また、目を閉じた。
閉じる直前に、口の端が、ほんの少しだけ、持ち上がった。
*
わたしは、荷台の横に立っていた。
立っていたから、見えた。
シズちゃんの手は、襟のところにある。
ゾフスの手首は、その下。薬草の束の、影のなか。
2重に巻かれていたはずの縄が、まだ、1重のままだった。
直っていなかった。
この人は、あれから、なにもしていなかった。
ほどきもしないで、戻しもしないで、ただ、1重のままにしていた。
……いえる。
……いま、いえば、いい。
「シズちゃん、なわ」って、7つの音を出すだけだ。
わたしは、口を開けた。
ゾフスの目が、うっすら開いた。
わたしを、見た。
喉のところで、言葉が、ぐるぐるした。
かたちにならないまま、沈んでいった。
シズちゃんが、荷台から降りた。
「行くぞ。街は、近い」
「……うん」
わたしは、うなずいた。
うなずいてしまった。
*
風が、朝の匂いを取り戻していった。
甘くて腐ったにおいが、少しずつ薄れていった。
と——目のまえで、光の粒がふるえた。
粒がふわりと集まって、まぼろしの窓が、ぽうっと灯った。
1枚じゃなかった。
==========
LV UP!
ハルカ LV8 → LV9
LV UP!
ハルカ LV9 → LV10
==========
わたしは、目をまん丸にした。
それから、両手を、ぱっ、と上げた。
「10になった!! 目標達成!!」
自分の声が、思ったより大きかった。
……あれ。
いま、つっかえなかった。
言いたいことが、言いたい形のまま、口から出た。
身体のなかが、軽かった。
あんなに重いものの下敷きになりかけたのに、いまは、自分の身体がどこにどれだけ乗っているのか、ぜんぶ分かった。
右のかかとに、いくら。左のつま先に、いくら。
重さの置き場所が、分かる。
わたしは、その場で、とん、と跳ねてみた。
高かった。
「シズちゃん」
シズちゃんが、こちらを見ていた。
目が、大きく開いていた。この人が、こんなに目を開けるところを、わたしは初めて見た。
「ルナちゃんを助けに行けるくらい、強くなった?」
シズちゃんは、しばらく答えなかった。
それから、目のふちが、静かに細くなった。
「……近づいた」
「うん」
わたしは、それだけ、しっかりうなずいた。
うれしかった。
うれしかったのに、胸のまんなかに、小さくて硬いものが、ひとつ残っていた。
薬草の束の、向こうに。
まだ、1重のまま、置いてある。
*
馬車が、東の坂を下っていった。
風が、薬草のにおいを運んできた。
乾いた草と、少しだけ甘い花と、土のにおい。街のほうから来ていた。
「あれが、ヴェルデです」
リーンちゃんが、手綱を握ったまま、そう言った。
「ヴェルデ」
「はい。緑、という意味です」
「みどりの街だ」
わたしは、その屋根の群れを、しばらく見ていた。
それから、そのずっと向こうを、見た。
空の下のいちばん遠いところに、白い山が、うっすら浮いていた。
……きた。
シズちゃんも、そちらを見ていた。
なにも、言わなかった。
*
東の門で、門番の人が、荷馬車を見て立ち上がった。
「……リーン?」
「はい」
「なんだ、その血は」
「街道で、襲われました」
門番の人が、荷台を覗き込んだ。
覗き込んで、黙った。
縛られた7人。それから、街道のほうに置いてきた、あの大きな影。
なにか言おうとして、口が動いて、それから、閉じた。
もう1人の門番の目が、シズちゃんの黒い耳のところで、止まった。
止まったまま、動かなかった。
シズちゃんは、両手を、静かに御者台の縁に置いた。
……シズちゃん、これ、なれてる。
なれてる、って分かってしまうのが、いやだった。
「……通れ」
門番の人が、そう言った。
馬車が、門をくぐった。
車輪の下で、石が、からから、と乾いた音を立てた。
その音の向こうから、鐘が、ひとつ鳴った。
ごぉん。
低い音が、屋根と屋根のあいだを転がっていった。
シズちゃんの黒い耳が、その方角へ、ぴん、と立った。
「……朝の鐘には、早い」
*
わたしは、そっと、自分の掌を見た。
まだ、熱かった。
あの毛皮のなかで、線の下をくぐったとき。指の先を通っていったところだけが、まだ、うっすら熱をもっていた。
……【見切り】は、分かった。
まぼろしの窓の、上から4つめ。シズちゃんが読んでくれた、わたしのところ。
線が見えるやつ。それは、名前が、ちゃんと書いてあった。
……でも。
……時間が遅くなるほうは。
窓の、どこにも、なかった。
上から順に、ぜんぶ思い出してみた。4つめまでは、名前があった。
いちばん下だけが、ちがった。
【???】。
……あれ、かな。
石畳の音が、車輪の下で、からから、と続いていた。
分からなかった。
分からないまま、指の熱だけが、朝の光のなかに、残っていた。




