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転生少女と黒狼姫 〜女神に選ばれた少女と、掟破りの狼族戦士〜  作者: 白川雫


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第11話 残らない街

 鐘の音が、まだ、耳の奥に残っていた。


 車輪が、石畳を、からから、と鳴らしていた。


「リーンちゃん」


「はい」


「いまの、鐘?」


「市の鐘です。今日、市が立つので」


 リーンちゃんが、手綱を握ったまま答えた。


 それから、ちょっと首をかしげた。


「……でも、鳴らすには早いです」


「早いの?」


「早いです。……鳴らす人が、寝ぼけたのかもしれませんね」


 言い方が、あんまり明るかったので、わたしは笑ってしまった。


 シズちゃんは、笑わなかった。


 黒い耳が、まだ、そっちを向いたままだった。


   *


 自警団の詰所は、東の門から近いところにあった。石でできた、低い建物だった。


 馬車が止まると、扉が内側から開いた。


「ゲランさん」


 リーンちゃんが、先に声を出した。


 出てきたのは、50くらいの男の人だった。腰に、他の団員さんより上等な剣を吊るしていた。


 歩き方が、ちがった。腰が低く沈んで、足の運びが、静かだった。


 シズちゃんの目が、ふっと細くなった。


 団長さんは、まずリーンちゃんに小さく頭を下げた。それから荷台の縁に手をかけた。


 縛られた7人を、1人ずつ、ゆっくり覗き込んでいった。


 その目が、いちばん奥の顔の上で、止まった。


「……こいつは」


 かすれた声だった。


「ゾフス、じゃねえか」


 頭領の息が、名前のところで、1拍だけ抜けた。


 吸うのを忘れたみたいな、短い空白だった。


 それから、また、元のとおりに戻った。


 目は、開かなかった。


 団長さんが、縛られた腕を持ち上げて、掌を上へ返した。


 指の付け根に、硬くなった皮の盛り上がりが、4つ並んでいた。


「……この豆は、剣のだ」


 指が、その手首から肩へ、ゆっくり上がっていった。止まったのは、首の付け根だった。


「肩の乗り方も、変わっちゃいねえ」


「LV30は、下るまいよ」


 それから、腕を、荷台へ戻した。骨に触るのを避けるみたいな、静かな置き方だった。


「……わしも、あの依頼の場にいた」


 声が、そこだけ、急に小さくなった。


 玄関口に立っていた若い団員さんが、そっと目を伏せた。


 あの日なにがあったのか、団長さんは、ひとことも言わなかった。


   *


「あの」


 わたしは、荷台の横で、手を上げた。


「縄のことです」


「あん?」


「あの人、自分で縄をほどきました」


 団長さんの目が、こちらへ来た。


「2重が、1重になってました」


「いつだ」


「ゆうべです。夜のあいだに、見ました」


「逃げたのか」


「逃げてません」


 わたしは、首を横に振った。


「ほどいて、そのままにしてました」


 団長さんは、しばらく、わたしの顔を見ていた。


 それから、団員さんたちのほうへ首を回した。


「縄はやめろ」


 声が、急に太くなった。


「鎖だ。2本、噛ませろ」


「足も、だ」


「はい」


 団員さんたちが、走った。


 わたしは、そっと息を吐いた。


 ……いえた。


 ゆうべは、言えなかった。


 「シズちゃん、なわ」の、7つの音が出せなかった。


 今朝は、もっとたくさん音が要ったのに、ぜんぶ出た。


「ハルカ」


 シズちゃんが、わたしを見ていた。


「うん」


「よく、言った」


 それだけで、胸のまんなかにあった硬いものが、すこし、小さくなった。


   *


「団長どの」


 シズちゃんが、半歩、前に出た。


 声が、いつもより低かった。


 ……あ。この声。


 これは、シズちゃんが、いちばん大事なことを言うときの声だ。


「1つ、伺いたいことがあります」


「なんだ」


「探している子どもがいます」


 シズちゃんが、まっすぐ団長さんを見た。


「わたしの、幼馴染です。名は、ルナ」


 ルナ。


 その名前が、石畳の上に、まっすぐ落ちた。


「歳は、11。白い髪の、獣人の子です」


 シズちゃんの指が、自分の髪のあたりを、そっと示した。


「赤い、髪飾りを、していました」


 団長さんが、腕を組んだ。


 眉のあいだに、深いしわが寄った。


 しばらく、なにも言わなかった。


「……この街には、いねえな」


「そうですか」


「獣人の子が門を通れば、詰所に帳面が残る。この5年、ひとりもいねえ」


「……はい」


「連れて来られた、って線もねえ。売り買いの届けもだ。この街は、そういう街じゃねえ」


 団長さんの声は、丁寧だった。


 丁寧だから、逃げ道がなかった。


 わたしは、指を1本、そっと折った。


 ……ひとつ、消えた。


 ルナちゃんが、この街にいるかもしれない。


 昨日の夜、荷台の上でわたしが考えていたことが、いま、消えた。


 シズちゃんは、なにも言わなかった。


 黒い尻尾が、外套の下で、動かなくなっていた。


「ただ」


 団長さんが、そこで、少し言い足した。


「人が消える話なら、聞かねえこともねえ」


「どこで」


「北だ」


 ぴく、と、シズちゃんの耳が動いた。


「山の向こうに、村がいくつかある。そのあたりで、人が消える、と」


「消える」


「ああ。さらわれた、じゃねえ。消える、だ」


 団長さんが、片手を横に振った。


「だが、噂だ。わしは行ったことがねえ」


「……北」


 シズちゃんが、その音を、口のなかで置き直した。


「詳しい話は、冒険者ギルドで訊け。北へ入った連中の帳面が残ってる」


「今日、開いていますか」


「今日は無理だ。受付は昼までで、今日は市が立つ。人手を全部そっちに取られる」


「明日にしろ」


「……分かりました」


 シズちゃんが、頭を下げた。


 わたしは、その背中を見ていた。


 背中が、いつもより、少しだけ小さく見えた。


   *


「そこの娘。親父さんは」


「先生に、見ていただきます」


「先生は、朝は出てる。戻るのは、昼だ」


 団長さんが、詰所の中から羊皮紙を1枚持ってきて、2行だけ書いた。


 かり、かり、と乾いた音がした。


「これを持っていけ。順番を、待たなくていい」


「ありがとうございます」


「宿は銀華亭にしろ」


 団長さんが、こちらへ顎を向けた。


「あそこは、獣人にも寛容だ」


   *


 団員さんたちが、7人を詰所の中へ運んでいった。


 頭領は、最後まで目を開けなかった。


 扉が閉まった。


 しばらくして、また、開いた。


 さっきの若い団員さんが、走って出てきた。息が、上がっていた。


「団長」


「なんだ」


「……頭領が」


 言いかけて、その人が、1度、唾を飲んだ。


「繋いだばかりの鎖を、もう、1本、外してました」


 軒の下の空気が、しん、とした。


「逃げては、いません」


 団員さんが、急いで付け足した。


「その場に、座ったままでした。ただ——外れて、ました」


 団長さんは、なにも言わなかった。


 ゆっくり、扉の中へ入っていった。


 しばらくして、戻ってきた。


 なにも言わずに、また、庇の下に立った。


 外した鎖を、黙って締め直してきたのだ、と分かった。


 ……できるのに、しなかった。


 2本にしたのに、1本だけ。


 ぜんぶ外せるよ、って、見せただけだった。


 わたしは、それがいちばん、こわいと思った。


 シズちゃんの黒い耳が、ゆっくり伏せた。


   *


 馬車が、詰所の前を離れた。


 誰も、しばらく、なにも言わなかった。


 と——リーンちゃんが、ぱん、と手を打った。


「じゃあ、昼まで、あります」


「え」


「ハルカちゃん。ルナちゃんを、探しましょう」


 わたしは、目をまん丸にした。


 ……この人、名前を覚えてる。


 シズちゃんが1回言っただけの名前を、この人は、もう持って帰っていた。


「リーンちゃん、お父さんは」


「父は、寝てます」


「先生の家の前で座っていても、父は治りません」


 リーンちゃんが、指を3本、立てた。


「でも、3時間あれば、7人には訊けます」


「7人」


「7人です」


「もっと、聞きたい」


「じゃあ、10人にします」


 リーンちゃんが、笑った。


「リーン」


 シズちゃんが、名前を呼んだ。


「……いいのか」


「はい」


 返事が、早かった。


 考えてから答えた早さじゃなかった。もう決めてあった人の早さだった。


   *


 最初の店は、軒下に草の束が並んで吊るされている店だった。


 シズちゃんが、店の主人らしいおじさんに声をかけた。


「すみません。1つ、伺いたいのですが」


 おじさんが、顔を上げた。


 シズちゃんの黒い耳を、見た。


 それから、目を、逸らした。


「……忙しいんだ」


「11の、獣人の女の子を——」


「知らねえよ」


 おじさんは、束を数える手を止めなかった。


 1度も、こちらを見なかった。


 シズちゃんは、それ以上、なにも言わなかった。


 静かに頭を下げて、馬車のほうへ戻ってきた。


 ……あ。


 シズちゃんの耳が、伏せていた。


 あの、弄られたときの、ぱたっ、じゃなかった。もっとゆっくり、たたむみたいな伏せ方だった。


「シズさん」


 リーンちゃんが、御者台から、ぴょん、と飛び降りた。


「わたしが、行きます」


「リーン」


「あの人、うちの仕入れ先です。バルクさん」


 リーンちゃんは、もう歩き出していた。


 早かった。


 おじさんの前に立って、いきなり喋り出さなかった。


 束を数えるおじさんの手が、ひと区切りつくまで、黙って、待っていた。


 両手を、体の前で組んでいた。背は、すこし低くしていた。


「バルクさん」


 名前を呼ばれて、おじさんが顔を上げた。


「腰、まだ痛みますか」


 おじさんの口が、開いた。


 それから、喋りはじめた。


 リーンちゃんは、うなずいていた。ずっと、うなずいていた。自分からは、ほとんど喋らなかった。


 おじさんの肩の力が、見ているあいだに、ゆっくり抜けていった。


 ……あ。


 いま、あの人、笑った。


 さっき、シズちゃんの顔を見なかったのと、同じ人だった。


 わたしは、シズちゃんを見上げた。


 シズちゃんは、まっすぐ前を見ていた。


 ただ、いつのまにか、わたしより半歩、うしろに立っていた。


   *


 リーンちゃんが、走って戻ってきた。


 息が、少し上がっていた。


「見た、そうです」


「なにを」


「白い髪の子を」


 わたしは、跳ねた。


「見たの!?」


「はい。西の井戸のあたりで。3日前だそうです」


 シズちゃんの尻尾が、外套の下で、ぴん、と立った。


 ……あ。


 しっぽ、うごいた。


 わたしは、指を1本、そっと戻した。


 ……ひとつ、ふえた。


   *


 西の井戸には、洗い物をしているおばさんが3人いた。


 リーンちゃんが、その真ん中の人に声をかけた。


 名前を呼んでいた。この人の名前も、知っていた。


 さっきとは、立ち方がちがった。


 両手を、うしろで組んでいた。胸を、すこし張って。おばさんの目を、まっすぐ見ていた。


 話の続きを、いますぐ聞きたい人の目だった。


   *


 ……草のことしか分からない、って言ってたのに。


   *


 ……いっぱい、できるじゃん。


   *


「3日前?」


 おばさんが、濡れた手を、前掛けで拭いた。


「見てないよ」


「白い髪って、あんた、粉屋んとこの子じゃないの」


「あそこの子、いつも真っ白だもの」


 リーンちゃんが、こちらを振り返った。


「……行ってみましょう」


   *


 粉屋は、通りの3つ先だった。


 店の前に、小さな後ろ姿があった。


 白い髪だった。


 肩のところに、赤いものが、ひとつ。


 わたしは、走った。


 考える前に、足が出ていた。


「ルナちゃん!」


 その子が、振り向いた。


 耳が、なかった。


 頭のてっぺんに、耳が、なかった。


 白かったのは、髪じゃなかった。粉だった。麦の粉が、頭からかぶさっていた。


 赤かったのは、髪飾りじゃなかった。粉の袋の口を縛る、紐だった。


 女の子が、きょとん、とこちらを見た。


「……なに?」


「……ごめん」


 わたしは、そこで、止まった。


「……人ちがい、でした」


 女の子は、袋を抱え直して、店の中へ入っていった。


 わたしは、指を折り直した。


 ……ひとつ、へった。


 ……ふえたぶんも、へった。


 増える前より、少なくなっていた。


 ……ルナちゃん。


 ……どこに、いるの。


 シズちゃんの手が、わたしの頭の上に乗った。


 なにも、言わなかった。


 リーンちゃんも、なにも言わなかった。


 ふざけなかった。


 それから、息をひとつ吸って、言った。


「……もう1軒、行きます」


 声の調子が、変わっていた。


 わたしは、その声を、初めて聞いた。


   *


 3人目は、荷を担いだ若い人たちだった。2人いた。


「白い髪の、獣人の子です。ルナちゃん、っていう名前で」


 リーンちゃんが、そう言った。


「獣人の子?」


 片方が、荷を下ろした。


「ああ、聞いたぞ。半月前に、北から来た隊商が、荷に乗せてたって」


「北」


 シズちゃんの耳が、ぴく、と動いた。


「北じゃねえよ」


 もう片方が、横から言った。


「あの隊商は、東から来た。おれ、荷を降ろすの手伝ったもん」


「北だろ」


「東だ」


「乗せてたのは、子どもじゃねえ。子やぎだ」


「子やぎ?」


「子やぎだ。4本足の、白いの」


 2人が、言い合いになった。


 どっちも、ふざけていなかった。どっちも、本気で、そう思っていた。


 リーンちゃんが、丁寧に礼を言って、そっと離れた。


 わたしは、指を、3本立てた。


「3つ」


「うん」


「3つ、聞いた」


「うん」


「3つとも、ちがった」


 シズちゃんは、なにも言わなかった。


「シズちゃん」


「うん」


「聞く前より、分からなくなった」


 シズちゃんの黒い尻尾が、止まっていた。


   *


 わたしは、通りの真ん中で、息を大きく吸った。


「ルナちゃーん!」


 声が、通りの端まで飛んで、屋根と屋根のあいだで1度鳴った。


「白い髪の! 赤い髪飾りの、女の子!」


 もう1度、叫んだ。


「11歳! 小さくて! よく転ぶ!」


 通りが、静かになった。


 水を撒いていた人の手が、止まった。窓が、ひとつ開いた。


 誰かが、首を振った。その隣の人も、首を振った。


 窓が、そっと閉まった。


 ……声、大きすぎた。


 わたしは、そろそろと手を下ろした。顔が、熱かった。


 うん、わたし、ぜんぜんダメだ。


「ハルカ」


 叱られる、と思って、肩をすくめた。


 でも、シズちゃんの手が、わたしの頭に、そっと乗っただけだった。


「……ありがとう」


「……うん」


「わたしは、その声を、出せない」


 リーンちゃんが、目をまん丸にしていた。


「ハルカちゃん」


「うん」


「いまの、この街でいちばん、大きい声でした」


「……ごめん」


「褒めてます」


   *


「近道します!」


 リーンちゃんが、そう言って、細い路地へ入っていった。


 路地は、だんだん細くなって、行き止まりになった。


 目の前に、白い壁があった。


 リーンちゃんの足が、止まった。


「……ここ、去年まで、道でした」


「道?」


「道でした」


「いまは」


「壁です」


「壁だね」


「壁です」


 リーンちゃんが、壁を、ぺち、と叩いた。


「パン屋さんが、建てたので」


「パン屋さんが、道を食べたんだ」


「食べてないです」


「食べた」


「食べてません!」


「……壁だな」


 シズちゃんが、真顔で言った。


 わたしとリーンちゃんが、同時に噴き出した。


 路地に、笑い声が、2つ、跳ね返った。


 と——シズちゃんが、口もとに手をやった。


 やってから、その手を、じっと見た。


 ……あ。


 シズちゃん、自分で、びっくりしてる。


 わたしは、なにも言わなかった。


 言ったら、たぶん、この人は困る。


 かわりに、外套の裾を、ちょっとだけ引っぱった。


「シズちゃん」


「……なんだ」


「いまの、もう1回して」


「……できない」


「なんで」


「……分からん」


 シズちゃんは、ほんとうに、分からないという顔をしていた。


 困った顔でも、照れた顔でもなかった。


 初めて見る道具を、渡されたときの顔だった。


 黒い尻尾が、外套の下で、ふわり、と1度だけ揺れた。


 リーンちゃんは、こちらを見ていた。


 口が、半分、笑いかけていた。


 入ってこなかった。


 ただ、うれしそうにしていた。


   *


 治療師さんの家は、乾いた草の匂いのする通りの、いちばん奥にあった。


 その門の前で、リーンちゃんは馬車の脇に座った。


「先生が戻るまで、ここにいます」


「荷を、置いてきてください」


 シズちゃんが、うなずいた。


「昼に、戻る」


「はい」


 銀華亭は、街の西寄りにあった。小さいけれど、きれいな宿だった。


 女将さんは、40くらいの、ふくよかな人だった。


 声が、大きかった。


 でも、その大きさは、乱暴じゃなかった。


「2階の、いちばん奥。空いてるよ」


 女将さんが、大きな鍵を、こちらへ、ぽん、と放った。


 シズちゃんが、片手で受け止めた。


「朝晩の食事、つけようね」


 それから、女将さんは、片手を振った。


「獣人だからって、遠慮すること、ないよ。うちは、そういう店じゃないから」


 わたしは、こくり、と頭を下げた。


「……お世話に、なります」


「かわいい子だね」


 女将さんが、うれしそうに笑った。


「おかみさん」


「なんだい」


「白い髪の、獣人の子なんだけど」


 わたしは、両手を、頭のところに当てて、耳のかたちを作った。


「11歳で、ルナちゃんっていうの」


「知らない?」


 女将さんが、腕を組んだ。


「……うちには、泊まってないねえ」


 それから、少し、言い足した。


「でもね。獣人の子を連れた客なんて、この街の宿は、どこも取らないよ」


「……取らないの?」


「取らないね。断るんだよ、みんな」


 女将さんは、なんでもないことみたいに言った。


「うちは取るけど。だから、先生も団長も、うちに寄越すのさ」


 わたしは、しばらく、動けなかった。


 ……そっか。


 ルナちゃんが、もし、この街に来ていても。


 宿には、泊まれない。


 泊まれないから、帳面にも、残らない。


 誰の記憶にも、残らない。


 ……ルナちゃんが、いなかったんじゃなくて。


 ……この街が、ルナちゃんを、残さない街なんだ。


 指を折るところが、もう、なかった。


 シズちゃんが、鍵を、握り直した。


 握る音が、聞こえるくらいの強さだった。


   *


 荷を置いて、宿を出た。


 昼まで、まだ少しあった。


 と。


 うしろで、音がした。


 じゃり。


 じゃり、じゃり。


 石畳の上を、こする音だった。


 誰かが、歩いていた。


 わたしは、振り返った。


 誰も、いなかった。


 通りには、光と、薄い霧の名残だけがあった。


 じゃり、じゃり、じゃり。


 その音が、角を曲がって、消えた。


「シズちゃん」


「……うん」


「いまの、聞こえた?」


「うん」


 わたしは、シズちゃんの耳を見上げた。


 黒い耳は、音のほうへ、まっすぐ向いていた。


 伏せて、いなかった。


 シズちゃんが「だいじょうぶ」と言うとき、この耳は伏せる。


 伏せていなかった。


 シズちゃんは、なにも言わなかった。


 わたしの手を、そっと握った。


 握る力が、いつもより、少しだけ強かった。


   *


 ……さっき。


 わたしは、通りの真ん中で、あの子の名前を叫んだ。


 この街でいちばん大きな声でルナちゃんの名前を言ったのは、わたしだ。


 誰も、知らなかった。


 みっつ聞いて、みっつとも、ちがった。


 知らない人しか、いなかったのに。


 ……いま、うしろから、音がした。


 喉のおくが、ひりひりした。


 叫びすぎて、わたしの声は、少し、かすれていた。

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