第12話 灯らない手
喉のおくが、まだ、ひりひりしていた。
昼の光が、通りの石畳を、白く返していた。
治療師さんの家の前に、馬車は、止まったままだった。
リーンちゃんは、その脇に、朝と同じ姿で座っていた。
わたしたちの足音に気づいて、ぱっと立ち上がった。
「おかえりなさ——」
明るい声だった。
その明るさが、途中で切れた。
「……あの」
リーンちゃんが、荷台のほうを振り返った。
「さっきから、息が」
シズちゃんが、馬車の縁に手をかけた。
黒い耳が、ぴく、と動いた。動いて、そのまま、荷台のほうを向いた。
「……浅い」
わたしも、荷台を覗き込んだ。
リーンちゃんのお父さんは、朝と同じ格好で横になっていた。
でも、胸の上がり下がりが、朝より小さかった。
吸って、吐いて、そのあいだが、長かった。
次の息が来るまでに、わたしの心臓が、2回鳴った。
リーンちゃんの顔から、色が引いた。
「先生」
声が、裏返った。
「先生っ」
*
扉が、内側から開いた。
ぎい、と木が鳴った。
白い髭を伸ばしたおじいさんが立っていた。背は高くなかった。でも、背筋が、まっすぐだった。
目のふちに、深いしわがあった。
おじいさんは、挨拶を待たなかった。
「入れ」
それだけ、言った。
シズちゃんが、荷台のお父さんを、片手で抱え上げた。
リーンちゃんが、小さく息を呑んだ。
……シズちゃん、力持ち。
言おうとして、やめた。
いま言うことじゃ、なかった。
*
家の中は、外の通りより、ずっと濃い匂いがした。
乾いた草の匂いと、その下に、苦い匂いが1枚あった。
壁の棚に、薬瓶が並んでいた。大きいのから小さいのへ、きちんと背の順だった。
奥の間に、白い布を敷いた寝台が、ひとつ。
シズちゃんが、そこへ、そっと下ろした。
おじいさんが、寝台の脇に膝をついた。
指を、額の傷へ、そっと当てた。
わたしは、その指を見ていた。
節が、太かった。爪は、みじかく切りそろえてあった。指の腹の皮が、厚そうだった。
なのに、触れ方は、羽根を置くみたいだった。
傷の縁を、ひと撫でした。それから、まぶたを、片方だけ持ち上げた。
「あかりを」
「はい」
リーンちゃんが、窓の板を横へずらした。
光の帯が、寝台の上に、まっすぐ落ちた。
おじいさんは、その光の中で、まぶたの奥を覗き込んだ。
「……ふむ」
指が、額から、耳のうしろへ回った。
うしろ髪の中を、ゆっくり探っていった。
途中で、止まった。
「ここだ」
指の下に、なにがあるのか、わたしには見えなかった。
「割れては、おらん」
「中で、血が寄っておる」
「血が、寄ってる」
わたしは、その音を、そのまま繰り返した。
意味は、半分しか分からなかった。
でも、半分でも、それが良くないことだというのは、分かった。
「湯を」
「はい」
リーンちゃんが、土間の火のところへ走った。
水が鍋に落ちる音がした。それから、火をおこす音。かちり、かちり。
しばらくして、湯気が上がった。
湯気は、光の帯を横切るところだけ、白くなった。
*
おじいさんが、掌を、お父さんの額の上に、そっとかざした。
目を、閉じた。
部屋の音が、すっと引いた。
軒の草の鳴る音が、遠くなった。湯の音も、遠くなった。
光の帯の中に、細かい粉のようなものが浮いていた。
その粉が、ゆっくり、下へ沈んでいった。
おじいさんが、古い言葉を、短くつぶやいた。
低い、喉のおくから出てくる音だった。同じところが、2度、繰り返された。
――。
掌の下に、白い光が、うっすら灯った。
小さかった。掌の下に、ちょうど収まるくらいの、小さな光だった。
輪郭が、なかった。
灯った、というより、掌の下の暗がりに白いものが滲んで、そのまま止まっている、という感じだった。
音は、しなかった。
なのに、わたしの耳のおくだけが、しん、と鳴っていた。
部屋の匂いが、変わった。
あんなに濃かった草の匂いが、ふっと後ろへ下がった。かわりに、雨の上がった朝の匂いが、寝台のまわりにだけ立った。
わたしの前髪の先が、ふわ、と持ち上がって、また下りた。
風は、吹いていなかった。
……この感じ。
どこかで、知っている。
どこで、とは、思い出せなかった。
わたしは、瞬きを忘れていた。目のふちが、乾いていった。
やがて、光が、ふっ、と消えた。
消えた、というより、おじいさんの掌の中へ、しゅう、と吸い込まれていくみたいだった。
部屋の音が、いっせいに戻ってきた。軒の草が、さらさら、と鳴った。
わたしは、そこでやっと、息を止めていたことに気がついた。
*
おじいさんが、目を開けた。
膝に手をついて、ゆっくり立ち上がった。
その動きが、座ったときより、重かった。
「命は、ある」
リーンちゃんが、大きく息を吐いた。
肩が、すとん、と下りた。
「よかっ——」
「……だが」
おじいさんが、そこで、遮った。
言いにくいことを、先に置いてしまう人の言い方だった。
「3日、目を覚まさなんだら、もう、覚めん」
部屋が、しん、とした。
湯の鍋だけが、ことこと、鳴っていた。
「3日」
わたしは、その数を、口の中に置いた。
「3日、ですか」
リーンちゃんの声が、細くなっていた。
「頭の中で、血が寄っておる」
「散れば、目を覚ます」
「散らんかったら」
おじいさんは、その先を、言わなかった。
「わしの手は、そこまでは、届かん」
……さっきの、白い光。
あんなに、綺麗だったのに。
届かないところが、あるんだ。
リーンちゃんは、寝台の脇に膝をついたまま、動かなかった。
膝の上の指が、握られていた。関節のところが、白くなっていた。
泣かなかった。
わたしは、そばへ寄って、その背中に、そっと手を置いた。
背中は、あたたかかった。
少しだけ、震えていた。
「リーン」
シズちゃんが、名前を呼んだ。
「……要るものが、あれば、言ってください」
いつもの、あの丁寧な声だった。
ただ、語尾のところが、いつもより、短かった。
「はい」
リーンちゃんが、息をひとつ吸った。
顔を上げたとき、もう、いつもの顔に戻っていた。
「……3日、あるんですね」
「ある」
「じゃあ」
リーンちゃんが、立ち上がった。
「3日ぶん、やることが、あります」
立ち上がるのが、早かった。
それから棚に手を伸ばして、草の束を、下ろした。
ひとつ。ふたつ。みっつ。
卓の上に、3つ、並べた。
*
それから、リーンちゃんは、よく動いた。
湯を運んできて、布を浸して、絞った。
ぽたり、と1滴、桶に落ちた。
お父さんの額を、指の腹で、慎重に拭いていった。
拭いてから、窓を少しだけ開けた。開けてから、少しだけ閉めた。
「風が、通りすぎると、冷えるので」
誰にも聞かれていないのに、そう言った。
それから、卓の草の束をほどいて、葉を選んで、すり鉢に入れた。
ごり。ごり、ごり。
部屋の匂いが、また変わった。青くて、苦い匂いだった。
「リーンちゃん」
「はい」
「それ、なにしてるの」
「煎じるんです」
「せんじる?」
「煮出して、汁にします」
リーンちゃんが、すり鉢を、こちらへ向けた。
「嗅いでみます?」
わたしは、鼻を近づけた。
……苦い。
鼻のおくが、つん、とした。目のふちに、水が浮いた。
「苦い」
「苦いです」
「なんで、匂いが苦いの」
「わたしにも、分かりません」
リーンちゃんが、けろっと言った。
「でも、これ、飲むと、もっと苦いです」
「飲んだの?」
「間違えて」
「……1回?」
「3回です」
わたしは、噴き出した。
リーンちゃんも、笑った。
笑ってから、両手で口を押さえた。
「……あ。ここ、静かにしないと」
「うん」
シズちゃんは、扉のそばに立っていた。
わたしたちのほうを、見ていた。
黒い耳が、こちらへ向いていた。
……なんだろう。
シズちゃんは、笑っていなかった。困った顔でも、なかった。
いま話していたことの、どこが可笑しかったのかを、あとから探している顔だった。
黒い尻尾が、外套の下で、1度だけ、ゆっくり動いた。
*
おじいさんが、すり鉢の中を、指の先に取った。
傷の縁に、そっと乗せていった。
それから、手を止めた。
「娘」
「はい」
「手を、置いてごらん」
リーンちゃんが、顔を上げた。
「……わたし、草の名前しか、分かりません」
「置くだけで、いい」
リーンちゃんが、膝をついた。
両手を、お父さんの額の上に、そっとかざした。
少し迷ってから、目を閉じた。
息を、ひとつ、吐いた。
――。
合わせた指のあいだが、うっすら、明るくなった。
……あ。
わたしは、身を乗り出した。
でも。
すぐに、消えた。
消えて、また、滲んだ。滲んで、また、薄くなった。
3度目には、なにも起きなかった。
リーンちゃんの肩が、上がっていた。眉のあいだに、しわが寄っていた。
こめかみに、うっすら、汗が浮いていた。
やがて、大きく息を吸った。
「……息、止めてました」
掌を、下ろした。
指の先が、細かく震えていた。
「……灯らない、です」
おじいさんは、しばらく、その手を見ていた。
「置き方は、悪くない」
「……はい」
リーンちゃんが、笑った。
「わたし、草の名前だけですから」
明るい声だった。
いつもの声と、同じ大きさだった。
言い終わると、すぐに立ち上がって、桶のところへ行った。
布を、また、絞りはじめた。
ぽたり。
背中は、こちらを向いていなかった。
……リーンちゃん。
シズちゃんの黒い耳が、その背中のほうへ、ひとつ、傾いた。
*
わたしは、さっきの指を、思い出していた。
額の上にかざされていた、細い指。
昨日の夕方、お父さんの手をずっと握っていた指。
夜のあいだ、御者台で手綱の縁を握って、朝まで起きていた指。
あの指が、1度だけ、明るくなった。
……手の、置きかた。
その言葉が、耳のおくに、引っかかった。
昨日の夕方だった。
街道の脇の、草の匂いのする場所だった。リーンちゃんのお父さんが、地面に横たわっていた。額から流れたものが、こめかみのところで、もう乾きかけていた。
わたしは、そこに、手を置いた。
どうして置いたのか、自分でも分からなかった。ただ、置きたかった。
指の下の皮膚は、冷たかった。
でも――そのとき。
わたしの掌の、真ん中が。
ふわ、っと、あたたかくなった。
焚火のそばにいたから、だと思っていた。火の熱の名残が、指に残っていたんだ、って。
昨日は、それで済ませた。
……ほんとうに、そうだったのかな。
わたしは両手を、そっと前に出した。
掌を、上に向けた。
じっと、見た。
指を、ゆっくり握った。
ゆっくり、開いた。
……
なにも、灯らなかった。
もう1度、握って、開いた。
やっぱり、なにも灯らなかった。掌の下の影は、影のままだった。
でも。
掌の真ん中に、なにかが、ある。
熱、っていうほどのものじゃなかった。もっと薄くて、静かなものだった。
朝の日なたに置いておいた石を、あとから拾い上げたときの、あの感じに近かった。
わたしは右の掌の真ん中を、左の指で、そっと押してみた。
押しても、なにも起きなかった。
……
喉のところまで、言葉が上がってきていた。
言っていいのか、分からなかった。言ったら、なんだか、嘘になりそうだった。
それでも。
「わたしにも、できるかも、しれない」
声が、思ったよりも小さく出た。
自分の声が、少し遠くから聞こえた。
部屋の中の音が、いっせいに止まった。
*
シズちゃんが、こちらを見た。
振り向くのが、早かった。音を立てない人が、うっかり音を立ててしまったみたいな、そういう振り向き方だった。
息が、ふっ、と止まった。
黒い耳が、ぴん、と立った。それから、ゆっくり、ゆっくり伏せられた。
シズちゃんは、わたしの顔を見なかった。
わたしの掌を、見ていた。
開いたままの、なにも灯っていない、わたしの掌を。
その目が、動かなかった。
口が、少しだけ開いた。
なにか言おうとした形だった。
……でも、閉じた。
半歩、こちらへ踏み出しかけた足も、そこで止まった。
黒い尻尾が、外套の下で、1度だけ、大きく揺れた。それきり動かなくなった。
シズちゃんが、目を伏せた。
……シズちゃん。
いまの、なんだったんだろう。
「なにが」って、聞かれなかった。「できないよ」とも、言われなかった。
シズちゃんは、驚かなかった。
驚いた顔ではなかった。もっと別の――ずっと前から棚の奥にしまってあったものを、急に目の前に出されたときの、顔だった。
わたしは、それ以上、なにも聞かなかった。
聞いたら、シズちゃんが困る。
*
おじいさんの手も、止まっていた。
寝台の脇で、布を持ち上げたままの形で、止まっていた。
白い髭の下から、その目がこちらへ向いた。
目のふちの、深いしわの奥で。
光が、ほんの一瞬、深くなった。
……見られてる。
でも、じろじろ見る目じゃなかった。井戸の底を覗くみたいな、静かな目だった。
おじいさんの唇が、白い髭の下で、わずかに動いた。
言葉の形になりかけて――ならなかった。
おじいさんは、ゆっくりとうなずいた。
それだけだった。
それから、なにごともなかったみたいに、額の布を直した。指の腹で、端をきちんと折り込んだ。
なにも、言わなかった。
……聞かれなかった。
わたしは、少しだけ、ほっとした。
同じくらい、少しだけ、さびしかった。
リーンちゃんも、こちらを見ていた。
目を、ぱち、と瞬かせた。それから、もう1度。
絞りかけの布を持った手が、そのまま、桶の上で止まっていた。
……いま、自分の掌、見た。
*
わたしは、掌をそっと閉じた。
指を1本ずつ、ゆっくり折った。
掌の中の、あの薄いあたたかさが、逃げていかないように。
……いつか、灯るかな。
いつのまにか、シズちゃんが、わたしの脇に立っていた。
黒い耳の先だけが、こちらへ、ほんの少し傾いていた。
シズちゃんはなにも言わなかった。
「どうしたの」も、「なんでもないよ」も、言わなかった。
ただ、そこに立っていた。
わたしの肩のすぐ横に、外套の布の感触があった。
寝台の上で、リーンちゃんのお父さんが、息をしていた。
吸って、吐いて、そのあいだが、長かった。
わたしたちは、その息を、聞いていた。
窓の外で、軒の草が、さらさら、と鳴った。
……あと、3日。




