第13話 神隠しの村
あと、2つ。
目が覚めて、いちばん先に、そう思った。
宿の天井の木目を、しばらく見ていた。
昨日、わたしは指を3本立てた。
夜がきて、1本、折れた。
……あと、2つ。
寝台から下りると、シズちゃんは、もう起きていた。
窓のところに立って、外を見ていた。
「シズちゃん」
「うん」
「ねてた?」
「……寝たよ」
「うそ」
「……少し」
黒い耳が、ぴく、と動いた。
*
朝の通りは、水を撒いたあとの匂いがした。
治療師さんの家の門が、見えてきた。
扉が、内側から開いた。
開ききる前に、中から、飛び出してきた。
「ハルカちゃん!」
リーンちゃんだった。
両手を、ぶんぶん振っていた。
「あの、あのですね」
「うん」
「明け方なんです」
「うん」
「まだ暗くて、灯りをつけようとして、油をこぼして」
「こぼしたの?」
「こぼしました。それで、拭いてたら、うしろで、音がして」
「音?」
「……声、でした」
リーンちゃんが、そこで、息を吸った。
「リーン、って」
わたしは、目をまん丸にした。
「お父さん?」
「はい」
「起きたの!?」
「はい!」
リーンちゃんが、両手で、わたしの両手を掴んだ。
そのまま、2回、上下に振った。
*
おじいさんは、奥の間で、寝台の脇に座っていた。
リーンちゃんのお父さんは、目を閉じていた。
でも、胸の上がり下がりが、昨日より、はっきりしていた。
吸って、吐いて、そのあいだが、短かった。
「峠は、越えた」
おじいさんが、そう言った。
「……はい」
「血の寄りが、散りはじめておる」
「が、まだ、起き上がれはせん」
おじいさんが、指を2本立てた。
「あと2日、静かにしておれ」
「はい」
リーンちゃんの返事が、早かった。
早すぎて、少し裏返っていた。
*
「ハルカちゃん、あの、明け方なんですけど」
「うん」
「灯りをつけようとしたら、油をこぼして」
「うん」
「拭いてたら、うしろで、声が」
「リーンちゃん」
「はい」
「それ、2回目だよ」
リーンちゃんの口が、そこで止まった。
「……え」
「おなじ話、2回、聞いた」
「……あ」
リーンちゃんが、両手で、顔を押さえた。
指のあいだから、耳のふちが赤くなっているのが見えた。
「わたし、いま、2回、言いました?」
「言った」
「……すみません」
「うれしいから、でしょう」
シズちゃんが、扉のそばから、そう言った。
リーンちゃんが、顔を上げた。
それから、こくん、とうなずいた。
「……はい」
*
わたしは、そのとき気がついた。
「リーンちゃん」
「はい」
「目、赤いよ」
「泣いてません」
「寝てないでしょ」
「……寝ました」
「うそ」
「……ちょっとだけ」
「どのくらい」
リーンちゃんが、指を2本、少しだけ開いた。
その隙間が、ほんとうに、少しだった。
「それ、寝てないよ」
「寝てます」
リーンちゃんが、笑った。
笑って、それから、両手を、うしろに回した。
わたしは、その動きを、ちょっとだけ、へんだと思った。
でも、そのときは、それだけだった。
*
土間の火のところに、鍋がかかっていた。
湯気の上に、麦を焼く匂いが乗っていた。
リーンちゃんは、寝ていない人の動き方をしていなかった。
湯を注いで、パンを割って、皿を3つ並べた。
3つとも、同じ向きに置いてあった。
「先生の分は」
「わしは食うた」
おじいさんは、そう言って、腰に草の袋を提げた。
「薬草を採りに出る」
「戻るのは、夕方だ」
「はい」
「娘。父の額は、2刻に1度、拭け」
「はい」
扉が閉まった。
パンは、あたたかかった。
*
「シズちゃん」
「うん」
「ギルド」
「うん」
昨日、団長さんが言っていた。
北の話は、冒険者ギルドで訊け、と。
今日は、受付が開いている。
「わたしも、行きます」
リーンちゃんが、そう言って、もう前掛けをほどいていた。
「リーン」
シズちゃんが、名前を呼んだ。
「父上は」
「先生が、2刻に1度って言いました」
リーンちゃんが、指を1本立てた。
「1刻あれば、戻れます」
*
冒険者ギルドは、市の広場の北の角にあった。
扉が、重かった。
シズちゃんが押して、わたしが中に入って——止まった。
……壁が、紙だ。
正面の壁が、まるごと、紙だった。
板の壁に、紙が、貼って、貼って、貼り重ねてあった。
新しいのが上に来て、古いのが下から端だけ出ていた。
剥がした跡が、四角い影になって、いくつも残っていた。
「壁じゅう、紙だ」
「依頼です」
リーンちゃんが言った。
「これ、ぜんぶ?」
「ぜんぶ、誰かの困りごとです」
わたしは、背伸びをした。
いちばん下の段の紙が、読めた。読めたというか、絵がついていた。
4本足で、丸くて、ひげがあった。
「猫だ」
「猫です。3日前から帰ってきません、って」
「猫を探すのも、冒険者なの?」
「ですよ。銅貨5枚です」
「安い」
「安いです」
リーンちゃんが、けろっと言った。
「でも、飼ってる人にとっては、猫1匹です」
*
受付には、白いものの混じった髪の男の人が座っていた。
眼鏡はしていなかった。かわりに、紙を、目からうんと遠くに離して読んでいた。
「ヨナスさん」
「おう、リーンか」
顔を上げた。
「親父さんは」
「峠、越えました」
「そうか」
それだけ言って、目を、紙に戻した。
でも、紙は、さっきから1行も進んでいなかった。
「この人、うちの薬草の買い取りの相手なんです」
リーンちゃんが、こちらへ小声で言った。
「うちの帳面、わたしがつけてるので」
「字、書けるの?」
「書けますよ」
「すごい」
「でも、自分の財布の中身は、いつも合いません」
「……合わないの」
「合わないんです。減ってるんです、いつも」
*
「北の話を、伺いたいのです」
シズちゃんが、そう言った。
ヨナスさんの手が、止まった。
紙を、机に置いた。
「……北な」
それから、うしろの棚を、親指で示した。
棚には、革の表紙の帳面が、ぎっしり並んでいた。背に、数字が焼き込んであった。
その中の1冊だけが、棚に戻されずに、机の上に出したままになっていた。
角が、丸くすり切れていた。
「これだ」
「何度も、引くんでな」
ヨナスさんが、その帳面を開いた。
「2年前だ」
「2年」
わたしは、その数を、口の中に置いた。
「2年前の秋に、最初の届けが出た。北の山向こうの、村ひとつ」
「村ごとだ」
「人が、いなくなった」
「届けを出したのは、隣の村の者だ。売り物を届けに行って、誰もおらんかったと」
*
「それから、どのくらいですか」
シズちゃんが訊いた。
ヨナスさんが、帳面を、ぱらぱらとめくった。
紙の端が、指のところだけ、黒くなっていた。
「届けが出とるのは、4つだ」
「4つ」
「村が、4つ」
「人の数は」
「合わせて、67」
「67人」
わたしは、繰り返した。
67人が、どのくらいの数なのか、わたしには分からなかった。
でも、さっき通ってきた市の広場を思い出した。
あそこにいた人を、ぜんぶ集めても、たぶん、足りない。
「もっともな」
ヨナスさんが、指で紙をとんと叩いた。
「これは、届けが出とる分だ」
「届けを出す者がおらん村は、ここには載らん」
*
「なんて、呼ばれてるんですか」
リーンちゃんが訊いた。
訊き方が、静かだった。
「神隠し、と言う者がおる」
「かみ、かくし」
わたしは、その音を、そのまま繰り返した。
むずかしい言葉だった。
でも、なんとなく、こわい音だった。
「調べに、入った者は」
「3度、依頼を出した」
ヨナスさんが、指を3本立てた。
「1度目は、誰も受けなんだ」
「2度目は、受けた者が、行って、戻って、なにも見つからんかったと言った」
「3度目は」
そこで、指を1本、折った。
「受けた者が、戻らなんだ」
部屋の中が、静かになった。
壁の紙が、風もないのに、いちばん端だけ、ぱさ、と鳴った。
「それきり、依頼は出とらん」
「北の紙だけ、白いのは、それでですか」
リーンちゃんが、壁を見た。
わたしも、見た。
紙の層のいちばん上のほうに、1枚だけ、色の抜けた紙があった。
まわりの紙が新しくて、その1枚だけが、日に焼けて、白かった。
「誰も、剥がさんからな」
*
「ひとつ、伺いたいのですが」
シズちゃんが、半歩、前に出た。
声が、低くなった。
……あ。この声だ。
「北の村に、獣人は」
ヨナスさんが、シズちゃんの黒い耳を見た。
見て、目を逸らさなかった。
「おったよ」
シズちゃんの尻尾が、外套の下で、止まった。
「山向こうは、街の掟が届かん。人も、獣人も、混じって住んどる」
「毛皮と、薬草と、木の実を持って、年に何度か、下りてきた」
「わしは、その買い取りの帳面もつけとった」
ヨナスさんが、帳面を、うしろのほうへめくった。
めくって、ある行のところで、指を止めた。
「2年前の、春だ」
「これが、最後だ」
「それから、北の者は、ひとりも下りてきとらん」
シズちゃんが、なにも言わなかった。
黒い耳が、ゆっくり、前を向いた。
……北。
この街は、ルナちゃんを残さない街だった。
でも、北は。
北には、獣人がいた。
わたしは、指を1本、そっと立てた。
……ひとつ、できた。
昨日、折るところがなくなった指が、1本だけ、戻ってきた。
*
「行くのか」
ヨナスさんが、そう訊いた。
「はい」
「……そうか」
止めなかった。
かわりに、帳面を閉じて、両手を上に置いた。
「言っておくがな」
「わしが知っとるのは、ここに書いてあることだけだ」
「わしは、北へ行ったことがない」
「紙は、行った者が書いたもんだ」
「書かれんかったことは、載っとらん」
シズちゃんが、深く頭を下げた。
*
外に出ると、市の音が、いっぺんに戻ってきた。
人の声と、荷車の音と、どこかで鳴っている笛。
さっきまでの静かさが、嘘みたいだった。
「67人ですって」
「うん」
「うちの村より、多いです」
「リーンちゃん、村があるの?」
「実家は街ですけど。母の里が、村なんです」
リーンちゃんが、指を折りはじめた。
「えっと、おばあちゃんと、おじさんが2人と、いとこが……あれ」
「あれ?」
「……いとこ、何人だったかな」
「忘れたの」
「毎年、増えるので」
「増えるの?」
「増えるんです。行くたびに、増えてます」
わたしは、噴き出した。
リーンちゃんも、笑った。
3歩ぶん、黙って歩いた。
「……あの猫は」
シズちゃんが、そう言った。
わたしとリーンちゃんが、同時に振り返った。
「まだ、見つかっていないのだろうか」
わたしは、噴き出した。
リーンちゃんが、口を押さえて、肩を震わせた。
シズちゃんは、真顔だった。
「シズちゃん、それ、いま?」
「……いま、では、なかったか」
「もっと、前」
「そうか」
シズちゃんの黒い耳が、ぴん、と立った。
立って、そのまま、下りてこなかった。
「シズちゃん」
「うん」
「いまの、わざと?」
シズちゃんが、少し黙った。
「……わざと、だった」
声が、小さかった。
「うまく、いったか」
「うん」
「……そうか」
黒い尻尾が、外套の下で、1度だけ、ゆっくり動いた。
リーンちゃんは、こちらを見ていた。
なにも言わなかった。
ただ、口の端が、うれしそうに上がっていた。
*
昼を過ぎて、治療師さんの家は、静かだった。
おじいさんは、まだ戻っていなかった。
リーンちゃんが、湯を運んできて、布を浸して、絞った。
ぽたり、と1滴、桶に落ちた。
お父さんの額を、指の腹で、そっと拭いていった。
わたしは、その手を、見ていた。
「リーンちゃん」
「はい」
「おじいさんの、あれ」
「あれ?」
「光るやつ」
リーンちゃんの手が、1拍だけ、止まった。
それから、また動いた。
「……わたし、灯りませんよ」
明るい声だった。
いつもの声と、同じ大きさだった。
でも。
布を桶に戻して、両手を、お父さんの額の上に、そっとかざした。
言っていることと、していることが、ちがった。
*
目を、閉じた。
息を、吐いた。
――なにも、起きなかった。
もう1度。
――なにも、起きなかった。
3度目。
――なにも、起きなかった。
リーンちゃんの肩が、だんだん上がっていった。
こめかみに、うっすら汗が浮いた。
やがて、掌を下ろした。
「……はい、おしまい」
わざと明るく言って、その手を、うしろに回そうとした。
わたしは、その手を、掴んだ。
「あ」
掌を、上に向けさせた。
……あ。
掌の付け根のところに、赤いあとが、4つ、並んでいた。
爪のあとだった。
新しいのじゃなかった。何度も、同じところに、つけたあとだった。
「リーンちゃん」
「……あの」
「これ」
「……これは、その」
「夜も、やったの」
リーンちゃんが、目を伏せた。
「……ちょっとだけ」
「何回」
「……」
「何回?」
「……数えて、ません」
小さい声だった。
「灯らなかったので」
「なんで、言わないの」
「言うことじゃ、ないので」
リーンちゃんが、その手を、そっと引いた。
「灯らなかったことを、言っても」
*
「リーン」
シズちゃんが、名前を呼んだ。
リーンちゃんが、顔を上げた。
シズちゃんは、扉のそばから、寝台の脇まで来ていた。
いつのまに来たのか、分からなかった。
この人は、いつも、音がしない。
「……もう1度、やってみては、どうですか」
「……灯りません」
「4度目は、まだです」
部屋が、しん、とした。
湯の鍋だけが、ことこと、鳴っていた。
リーンちゃんが、まばたきをした。
それから、ゆっくり、寝台のほうへ向き直った。
*
両手を、額の上に、かざした。
息を、吸った。
吸って、止めた。
目を、閉じた。
部屋の音が、遠くなった。
軒の草の音も、湯の鍋の音も、外の通りの音も、みんな、うしろへ下がった。
わたしは、その指を見ていた。
細い指だった。
爪が、みじかく切ってあった。
付け根のところが、まだ、赤かった。
長かった。
さっきの3度より、ずっと、長かった。
――。
合わせた指の、いちばん奥。
小さな、白いものが、ついた。
部屋は、明るくならなかった。
寝台の白い布も、壁の薬瓶も、なにも変わらなかった。
ただ、指のあいだの、その1点だけが、白かった。
豆粒くらいの、白い芯だった。
輪郭が、あった。
昨日のおじいさんの光は、滲んで広がっていた。
これは、ちがった。
小さくて、はっきりしていた。
消え、なかった。
*
リーンちゃんが、目を開けた。
自分の手を、見た。
止まった。
「……え」
いちばん驚いたのは、リーンちゃんだった。
目が、まん丸になっていた。
まばたきを、しなかった。
口が、半分開いたまま、動かなかった。
「……え、え」
「光ってる」
わたしは、叫びそうになって、両手で口を押さえた。
……ここ、静かにしないと。
シズちゃんが、半歩、前に出た。
黒い耳が、ぴん、と立った。
なにも、言わなかった。
白い芯は、そのまま灯っていた。
わたしは、心の中で数えた。
1つ。2つ。3つ。4つ。
5つ、まで数えたところで。
ふ、と消えた。
*
リーンちゃんは、手を下ろさなかった。
額の上に、かざしたままだった。
指の先が、細かく震えていた。
「……お父さん」
声が、変わっていた。
明るくなかった。
ふざけても、いなかった。
ただ、まっすぐな声だった。
わたしは、その声を、2度目に聞いた。
1度目は、昨日だった。人ちがいだったあとの、「もう1軒、行きます」。
寝台の上で、お父さんが、息をしていた。
吸って、吐いて、そのあいだが、短かった。
*
リーンちゃんが、手を下ろした。
下ろして、その手を、じっと見た。
それから、ぱっと開いて、閉じて、また開いた。
「……もう、出ません」
「豆粒」
「え」
「豆粒くらい」
わたしは、指で、その大きさを作った。
「光った」
「……豆粒」
「小さかった」
「……小さかったです」
リーンちゃんが、もう1度、手を開いて、閉じた。
「やっぱり、出ません」
「また、出るよ」
「……出ますかね」
「出る」
わたしは、言い切った。
根拠は、なにもなかった。
でも、言い切りたかった。
リーンちゃんが、笑った。
笑ってから、急に、まじめな顔になった。
「あの」
「うん」
「これ、先生には」
「言わないの?」
「……言わないでください」
「なんで」
「……なんでも、ないので」
リーンちゃんは、そう言って、桶のところへ行った。
布を、また、絞りはじめた。
ぽたり。
背中は、こちらを向いていなかった。
でも、耳のふちが、赤かった。
*
わたしは、自分の掌を、そっと見た。
やってみようかな、と思った。
昨日、この手は灯らなかった。
今日なら、どうだろう。
……でも、やめた。
いまは、リーンちゃんの番だ。
わたしは、手を膝の上に戻した。
シズちゃんが、こちらを見ていた。
黒い耳が、ほんの少し、こちらへ傾いていた。
なにも、言わなかった。
*
夕方、おじいさんが戻ってきた。
草の袋が、朝より膨らんでいた。
リーンちゃんは、なにも言わなかった。
いつもどおり、湯を運んで、布を絞って、薬を刻んだ。
ごり。ごり、ごり。
ただ、すり鉢を持つ手が、1度だけ、止まった。
止まって、自分の掌を、ちらっと見た。
それから、また、ごり、と鳴らした。
*
薬を、女将さんのところへ届けることになった。
おじいさんが、そう言ったからだ。
銀華亭の女将さんは、腰を痛めているらしかった。
わたしとシズちゃんとリーンちゃんの3人で、通りへ出た。
日が、低くなっていた。
石畳が、朝より、赤かった。
と。
うしろで、音がした。
じゃり。
じゃり、じゃり。
わたしの背中が、ぞわ、とした。
……この音、知ってる。
昨日と、同じ音だった。
石畳の上を、こする音。
でも、昨日より。
近かった。
わたしは、振り返った。
誰も、いなかった。
通りには、赤い光と、長い影だけがあった。
じゃり、じゃり。
音が、近づいてきた。
昨日は、ここで、角を曲がった。
曲がって、消えた。
……こんどは。
じゃ、り。
音が、止まった。
曲がらなかった。
角の、手前で、止まった。
*
「……いまの」
リーンちゃんが、明るい声で言った。
明るすぎる声だった。
「猫ですよ」
「猫」
「猫です。ぜったい猫です。3日前から帰ってきてない、あの猫です」
「リーンちゃん」
「はい」
「声、震えてる」
「震えてません」
リーンちゃんの指が、わたしの外套の袖を、しっかり掴んでいた。
「シズちゃん」
「……うん」
「猫じゃ、ないよね」
「……人だ」
「ひえっ」
リーンちゃんが、わたしの腕に、しがみついた。
わたしは、シズちゃんの耳を見上げた。
黒い耳は、音のほうへ、まっすぐ向いていた。
伏せて、いなかった。
*
……昨日。
わたしは、通りの真ん中で、あの子の名前を叫んだ。
白い髪の。赤い髪飾りの、女の子。
11歳。小さくて。よく転ぶ。
この街でいちばん大きな声で、ルナちゃんの名前を言ったのは、わたしだ。
誰も、知らなかった。
誰も、知らないはずだった。
……でも。
知らない人しか、いない通りで。
ひとりだけ、聞いていた人が、いたとしたら。
わたしは、シズちゃんの手を、握った。
シズちゃんが、握り返した。
握る力が、昨日より、少しだけ、強かった。
角の向こうから、もう、音はしなかった。
*
薬を届けて、女将さんに3回お礼を言われて、わたしたちは治療師さんの家まで戻った。
空は、もう、青くなっていた。
門の前で、シズちゃんが立ち止まった。
「リーン」
「はい」
「明日の朝、北へ発ちます」
「北」
わたしは、その音を、繰り返した。
「うん」
シズちゃんが、わたしを見た。
「ルナが、いるかもしれない」
その言い方が、いつもより、少しだけ強かった。
かもしれない、の「かも」が、短かった。
「じゃあ」
リーンちゃんが、ぱん、と手を打った。
「朝ですね」
誰も、それ以上、なにも言わなかった。
言わなくても、いいことだった。
「ハルカちゃん」
「うん」
「起きられます?」
「起きられる」
「ほんとうに?」
「起きられる」
「わたし、起こしに行きますよ」
「もう起きてる」
「絶対、寝てます」
「起きてる!」
リーンちゃんが、笑った。
*
「あ、そうだ」
リーンちゃんが、急に、わたしの手を取った。
「これ、やってみてください」
「なに」
「手です」
リーンちゃんが、わたしの指のあいだに、自分の指を、1本ずつ入れた。
入れて、きゅ、と握った。
「ほら」
「……あったかい」
「でしょう」
リーンちゃんが、得意そうな顔をした。
「灯りませんけど」
「うん」
「あったかいのは、出ます」
「うん」
「これは、誰でも、出ます」
わたしは、その手を、握り返した。
リーンちゃんの掌の付け根には、まだ、4つの赤いあとがあった。
その上から、握った。
*
「じゃあ、また、あした」
「うん。またあした」
リーンちゃんが、指をほどいた。
ほどいた指を、ひらひら振った。
「シズさん。また、あした」
「……はい」
扉が、閉まった。
わたしは、しばらく、その扉を見ていた。
掌に、まだ、あたたかさが残っていた。
握られていたところが、じんわり、していた。
……あした。
北へ行く。
リーンちゃんが起こしに来る。
……あした。
わたしは、その言葉が、すきだった。




