第14話 消さない名前
朝は、まだ青かった。
銀華亭の扉の前で、わたしは石の段に座っていた。
通りには、誰もいなかった。
空の低いところだけが、うっすら白かった。
……起きてる。
わたしは、心の中で、そう言った。
言う相手が、まだ来ていなかった。
*
通りの向こうから、足音がした。
ぱた、ぱた、ぱた。
だんだん、速くなった。
リーンちゃんが、角を曲がってきた。
髪が、片方だけ結んであった。
もう片方は、まだ、ほどけていた。
「ハルカちゃん!」
「遅い」
「……起こしに、来ました」
「起きてる」
「起きてますね」
「ずっと、起きてた」
「……わたしが、寝てました」
リーンちゃんが、そう言って、自分で噴き出した。
「起こす人が、寝てました」
*
扉から、女将さんが顔を出した。
布の包みを、2つ、押しつけてきた。
「腰、いいの?」
「あんたらの薬が効いた」
「うちの薬です」
リーンちゃんが、すかさず言った。
「ちゃっかり、してる」
「商人ですので」
*
北の門まで、3人で歩いた。
石畳が、朝の水を吸って、色が濃かった。
門の脇の柱に、鳥が1羽とまっていた。
……ここまでだ。
わたしにも、それは、分かった。
「あ、そうだ」
リーンちゃんが、腰の袋から、布の包みを出した。
開くと、小さな紙の袋が、いくつも入っていた。
「これが腹です」
「お腹」
「これが熱。これが傷。これが眠れないとき」
「これが、眠れすぎるとき」
「眠れすぎる?」
「ありますよ。旅では」
「これが虫刺され。これが、腹をこわしたとき」
「お腹、さっきもあったよ」
「さっきのは、痛いほう。こっちは、こわしたほう」
「ちがうの?」
「ちがいます」
「多い」
「多いです」
リーンちゃんが、けろっと言った。
*
「あと、これが喉です。喉は乾いた風で、すぐやられるので。北は乾いてるので。峠は、もっと乾いてるので。あと水は、朝いちばんに汲んだのがいちばん——」
「リーンちゃん」
「はい」
「早い」
「……早いですか」
「早い」
リーンちゃんが、口を閉じた。
息を、ひとつ、吸った。
吸って、しばらく、吐かなかった。
それから、ふつうの速さで、吐いた。
「……すみません」
「うん」
「早かったです」
*
リーンちゃんが、袋の底から、折った紙を出した。
開いて、こちらへ向けた。
字が、2つ、並んでいた。
わたしには、読めなかった。
「読めない」
「ハルカちゃんと、シズさんです」
「書いたの?」
「書きました。うちの帳面の写しです」
「帳面」
「うちは、名前を書くんです。取り引きした相手の」
リーンちゃんが、その紙を、わたしの手に押し込んだ。
「うちの帳面はですね」
「うん」
「いちど書いた名前は、消さないんです」
「なんで」
リーンちゃんが、そこで、はじめて、ふざけなかった。
「……また、来るからです」
声が、変わっていた。
まっすぐな声だった。
わたしは、その声を、3度目に聞いた。
1度目と、2度目を、わたしは覚えている。
それから、リーンちゃんが、ぱん、と手を打った。
「あ、薬草代は、いただきますからね」
「取るの?」
「取ります。商売ですので」
「けち」
「けちです」
*
シズちゃんが、半歩、前に出た。
手を、差し出した。
リーンちゃんの目が、まん丸になった。
差し出されるとは、思っていない顔だった。
「……あ、はい」
リーンちゃんが、その手を握った。
シズちゃんの手のほうが、大きかった。
「リーン」
「はい」
「5度目も、あります」
リーンちゃんが、止まった。
まばたきを、しなかった。
それから、うつむいた。
うつむいたまま、うなずいた。
2回、うなずいた。
2回目のほうが、深かった。
「……はい」
*
わたしは、リーンちゃんの手を取った。
指のあいだに、指を、1本ずつ入れた。
ゆうべ、教わったとおりに。
「……あ」
「あったかいの、出る」
「……出ますね」
「誰でも、出る」
「……誰でも、出ます」
リーンちゃんの掌の付け根に、赤いあとが、まだ残っていた。
少し、薄くなっていた。
*
「じゃあ」
わたしは、言いかけて、止まった。
……あした、じゃない。
あしたは、ここに、いない。
わたしは、その言葉を、口の中で、いちど、ころがした。
それから、言った。
「またあした」
リーンちゃんが、目を見開いた。
「……あしたじゃ、ないですよ」
「またあした」
「……ちがいますよ」
「またあした」
言ってから、わたしは、口を閉じた。
……リーンちゃんは、ちゃんと言ってるのに。
……わたしだけ、ずるい。
わたしは、息を吸った。
「……あしたじゃ、ない」
リーンちゃんの目が、丸くなった。
「でも」
わたしは、リーンちゃんの手を、両手でつかんだ。
「また、ぜったい、あおうね!!」
リーンちゃんが、笑った。
顔を、くしゃっとさせて、笑った。
「……はい」
「……帳面に、書いておきます」
「またあした」
*
門を出て、しばらく歩いてから、わたしは振り返った。
リーンちゃんが、まだ、そこにいた。
両手を、ぶんぶん振っていた。
いつもの、振り方だった。
わたしも、両手を振った。
シズちゃんは、片手を、静かに上げた。
*
街道の土は、朝露で湿っていた。
足の裏に、その冷たさが、じんわり来た。
左右に、麦の畑が広がっていた。
風が吹くと、穂が、いっせいに同じほうへ倒れた。
ざ、ざあ。
……麦って、みんなで動くんだ。
木の梢で、喉の白い小鳥が鳴いた。
「シズちゃん」
「うん」
「鳥」
「うん」
……。
わたしは、少し、待った。
風が、もう1度、麦を倒した。
小鳥が、飛んでいった。
「……行こう」
「うん」
わたしたちは、歩いた。
道は、まっすぐだった。
わたしの右側に、誰も、いなかった。
*
「静かだね」
「うん」
「リーンちゃんが、いないと」
「……うん」
「少ししか、一緒にいなかったのに」
「……すてきな女の子だったね!」
シズちゃんの足が、いちど、止まりかけた。
前を見たまま、シズちゃんは言った。
「わたしにも、話しやすいように、話してくれた」
「獣人だからと、いう目を、いちどもしなかった」
「相手によって、話し方を、変えていた」
「でも、それは……」
シズちゃんは、そこで言葉を探した。
「……1人ずつ、ちゃんと見ていたからだ」
*
「……すごい人だ」
*
「ひとつだけ、気になった」
「なに」
「自分のことを、低く言う」
それきりだった。
*
わたしは、掌を、そっと開いた。
……あったかい。
朝、握ったところが、まだ、あったかかった。
道端の石を、ひとつ拾ってみた。
石は、冷たかった。
しばらく握っていたら、石のほうが、あったかくなった。
でも、わたしの掌は、そのままだった。
……減らないの、変だ。
わたしは、石を、そっと道端に戻した。
*
昼を過ぎたころ、前から荷馬車が来た。
がら、がら、と車輪が鳴った。
3人組だった。
御者台に、髭の濃い男の人。
脇に、若い男の子。
そのうしろに、腰に短剣を差した人が、ひとり。
うしろの人は、獣人だった。
斑の耳が、頭の両側に、ぴん、と立っていた。
……シズちゃんのと、形がちがう。
シズちゃんの耳は、先が丸い。
この人の耳は、先が、とがっていた。
髭の男の人が、荷馬車を止めた。
「あんたら、旅かい」
「北へ、向かっています」
「北、な」
男の人の笑いが、少しだけ薄くなった。
「行商仲間で、帰らんやつが、おる」
「荷を置いたまま、村ごと静かになっとる場所が、あるらしいわ」
「らしい、って?」
わたしは、そっと訊いた。
「わしが見たわけやない」
「誰から、聞いたの」
「……人から聞いたやつから、聞いた」
男の人が、頭を、がしがし掻いた。
「まあ、そういう話や」
……聞いたやつから、聞いた。
わたしは、その言い方を、覚えておくことにした。
*
と。
うしろの、斑の耳の人が、はじめてこちらを見た。
目が、シズちゃんの黒い耳のところで、止まった。
シズちゃんも、その耳を見返した。
2人とも、なにも言わなかった。
斑の耳が、いちど、うしろへ倒れた。
それから、また戻った。
シズちゃんの黒い耳も、同じように、うしろへ倒れた。
それから、戻った。
それだけだった。
でも、なにか、言った。
言葉じゃないもので、たしかに、なにか言った。
斑の耳の人が、深く頭を下げた。
シズちゃんも、返した。
シズちゃんのほうが、少しだけ長かった。
荷馬車が、動きだした。
「気ぃつけな。北の風が、変わっとる」
車輪の音が、南のほうへ遠くなっていった。
*
「シズちゃん」
「うん」
「いまの人と、しゃべってた?」
「……しゃべって、いないよ」
「しゃべってた」
「なにも、言って、いない」
「でも、言ってた」
シズちゃんが、少し黙った。
「……耳を、下げるのはね」
「うん」
「刃を、抜かない、という意味なんだ」
「へえ」
「それだけ、だよ」
「……それだけ?」
「それだけ、だよ」
*
わたしは、歩きながら考えた。
耳が、しゃべる。
……あ。
わたしは、足を止めた。
「シズちゃん」
「うん」
「わたし、知ってる」
「なにを」
「耳の、言葉」
シズちゃんが、こちらを見た。
「うれしいときは、ふわ、ってなる」
「……」
「はずかしいときは、うしろに倒れる」
「……」
「音がしたときは、そっちを向く」
「……」
「怒られそうなときは、ちょっとだけ下がる」
シズちゃんの黒い耳が、うしろへ、ぱたん、と伏せた。
「ほら」
「……伏せて、いない」
「伏せてる」
「……伏せて、いない」
「いま、下がった」
シズちゃんが、両手で耳を押さえた。
押さえたまま、しばらく歩いた。
わたしは、笑った。
笑ってから、少しだけ、へんな気持ちになった。
……わたし、なんで知ってるんだろう。
ずっと、見ていたからだ。
ずっと、隣で、見ていたからだ。
*
日が傾きはじめたころ。
道が、ゆるい登りになった。
風が、丘の向こうから吹き下ろしていた。
と。
シズちゃんが、足を止めた。
鼻先が、風の奥へ向いた。
黒い耳が——真上に、ぴん、と立った。
……あんな向きは、はじめて見た。
いつもは、少し斜め前。
音がすると、そっちへ倒れる。
はずかしいときは、うしろへ伏せる。
でも、真上は、なかった。
わたしは、耳の言葉を、いくつも知っていた。
真上だけ、知らなかった。
「シズちゃん、どうしたの」
シズちゃんは、しばらく答えなかった。
「……匂う」
声が、いつもの声じゃなかった。
深いところから出ている声だった。
「覚えの、ある、匂い」
「……覚えの、ある」
「シズちゃん、それって——」
シズちゃんが、首を横に振った。
「……なんでも、ない」
真上に立っていた耳が、もとの角度に戻った。
でも。
黒い尻尾が、低く垂れていた。
揺れなかった。
*
わたしは、その尻尾を、じっと見た。
……あの尻尾は、いつも、こっちを向いていた。
うれしいときは、ふわり。
崖のふちに寄ったときは、わたしの腰に巻きついた。
夜は、わたしの背中の側に置いてあった。
ぜんぶ、こっち向きだった。
でも、垂れているのは、はじめてだった。
垂れた尻尾は、どこも向いていなかった。
わたしは、シズちゃんの手を取った。
指のあいだに、指を、1本ずつ入れた。
朝と、同じ入れかたで。
シズちゃんの手が、びくっ、と動いた。
それから、ゆっくり握り返してきた。
「シズちゃん」
「……うん」
「話したいときで、いいよ」
「……うん」
「いまじゃなくて、いい」
シズちゃんが、こちらを見た。
なにか言おうとして、口が少しだけ開いた。
でも、言葉にはならなかった。
わたしは、握った手に、ちょっとだけ力を入れた。
垂れた尻尾の先が、ほんの、すこしだけ動いた。
……うん。それで、いい。
*
日が落ちるころ、道の先に灯りが見えた。
「シズちゃん、灯りだ」
「村だね」
「着いた」
両脚が、じんわり重かった。
山のふもとに、家が、身を寄せ合うように並んでいた。
10戸ほどだった。
入口に、大きな木の看板が立っていた。
「なんて書いてあるの」
「ノルド、だよ」
「のるど」
わたしは、その音を、口の中に置いた。
*
村に入って、いちばん先に来たのは、匂いだった。
木の匂いだった。
切ったばかりの木の、青い匂い。
道の両脇に、丸太が積んであった。
わたしの背より、高かった。
切り口が、ぜんぶ、こっちを向いていた。
白くて、まるくて、真ん中から外へ、輪が広がっていた。
その輪の数が、丸太ごとに、ちがった。
……木って、中にこんなの持ってたんだ。
地面には、木の屑が積もっていた。
歩くと、ふか、と沈んだ。
子どもが2人、走っていった。
ふか、ふか、と音がした。
……この村、走ると変な音がする。
どこかで、鋸の音がしていた。
しゃっ。しゃっ。しゃっ。
もう夕暮れなのに、まだ切っていた。
その音が、しばらく続いた。
それから、ぴたりと止まった。
止まったとたん、村が、急に静かになった。
……あ。あの音、村の音だったんだ。
*
広場に、1軒だけ、大きな建物があった。
看板に、山のかたちと、灯の絵が彫ってあった。
「稜の灯」
シズちゃんが、読んだ。
「りょうの、ひ」
彫りが、深かった。
わたしは、指を、その溝に入れてみた。
……この村の人が、彫ったんだ。
*
1階は、食堂だった。
木の長机が、3つ。
奥に、大きな男の人がいた。
無精髭で、額に、古い刀傷が1本走っていた。
……木を切る人の顔じゃ、ないな。
男の人が、シズちゃんの黒い耳に、いちど目を留めた。
それから、目を上げ直した。
「珍しいな」
それだけだった。
スープと、黒パンと、白いチーズが出てきた。
根菜が、たっぷり入っていた。
わたしは、パンをちぎって、スープに浸した。
パンが、スープの色に、じわっと染まった。
「……おいしい」
*
村の人たちが、1人、また1人と帰っていった。
最後の1人が扉を閉めると、残ったのは、わたしたちだけになった。
男の人が、カウンターから、少しだけ身を乗り出した。
「……北へ、行くのかい」
「はい」
男の人が、布巾を置いた。
置いた手が、しばらく動かなかった。
「北の集落でな。人が、幾人か、いなくなっとる」
「もう、半年ばかりだ」
「半年」
わたしは、その数を繰り返した。
……あれ。
ギルドのおじさんは、2年って言ってた。
この人は、半年って言う。
「わしも、いっぺん、見に行った」
……見に、行った。
わたしは、パンを持つ手を止めた。
「北へ2日の集落だ。知り合いが、おってな」
「行ったらな。誰も、おらん」
「戸が、開いとった。押したんじゃない。もともと、開いとった」
「中はな」
男の人が、そこで、いちど言葉を切った。
「そのまま、だ」
「机に椀が出とった。中に粥が入っとった。まだ、形があった」
「毛布が、めくってあった。人が起きた、その形の、まま」
「表に、洗い物が干したままになっとった」
「風にさらされて、板みたいに、かたくなっとった」
「壁に、鍬が掛かっとった」
「くわ?」
「畑を、打つ道具だよ」
シズちゃんが、小さく教えてくれた。
「山の者はな、逃げるときは、まず鍬を持つ」
「あれを置いて出る者は、おらん」
「……荒らされた跡は」
シズちゃんが、静かに訊いた。
「ない」
「割れた物も、倒れた椅子も、ない」
「血の跡も、ない」
男の人が、目を伏せた。
「1滴も、な」
*
……いってきます、のまま。
なんでか、そう思った。
朝ごはんを食べて、これから畑に行く人の家。
その、つづきだけが、なかった。
「わしは、その家の中に、しばらく突っ立っとった」
「音が、せんかった」
「鳥もな、おらんかった」
シズちゃんは、なにも言わなかった。
目のふちが、ほんの少し細くなった。
「ま、あんたらの旅は、あんたらのもんだ」
「ただ、気ぃつけな」
*
階段が、1段ごとに、ぎし、と鳴った。
「シズちゃん」
「うん」
「半年と、2年。ちがうね」
「……うん」
「どっちが、ほんとう?」
「……どちらも、本当なんだと思う」
シズちゃんが、静かに答えた。
「ギルドの人は、紙を見ている」
「宿の人は、自分の足で行った」
「見ている場所が、違うんだよ」
「……じゃあ、知らないところで、もっと前から?」
シズちゃんが、答えなかった。
答えないのが、答えだった。
*
窓の外は、もう青い夜だった。
北の山が、闇の中に、まだ見えていた。
昼より、黒かった。
でも、かたちだけは、はっきりしていた。
わたしは、寝台の上で、掌を開いた。
……まだ、あったかい。
朝から、ずっとだ。
リーンちゃんは、誰でも出る、と言った。
でも、朝から、いちども減らなかった。
……変だ。
わたしは、その掌を、胸の上に置いた。
シズちゃんには、まだ言わないでおいた。
*
灯りを消して、しばらくしてから。
「ハルカ」
「うん」
「……鳥は」
「え」
「昼の、鳥だ」
わたしは、暗い天井を見た。
それから、笑いそうになって、口を押さえた。
「……もう、寝てるよ」
「……そうか」
シズちゃんは、それきり黙った。
でも、わたしは、しばらく笑っていた。
……シズちゃん、ずっと考えてたんだ。
朝から、ずっと。
*
わたしは、掌を、そっと握った。
……またあした。
心の中で、そう言った。
あしたじゃ、ないけど。
いつか、あしたに、なる。
隣の寝台で、シズちゃんの黒い耳が、じっと、北を向いていた。




