第15話 北へ還る匂い
朝の空気が、鼻の奥で、つんと冷たかった。
稜の灯の扉の前に、宿主のおじさんが立っていた。
わたしは、荷袋の紐を握り直した。
掌が、あたたかかった。
昨日の朝から、ずっとだった。
……まだ、へらない。
*
「行くのか」
「はい」
シズちゃんが答えた。
「峠までは、なだらかだ。越えたら少し下って、林になる」
「林を抜けたら、くぼ地がひとつある。盆地だ」
「ぼんち」
「ぐるりと山に囲まれて、真ん中だけ低いところだよ」
シズちゃんが、小さく教えてくれた。
わたしは、両手で、そのかたちを作ってみた。
「半日で着く」
*
おじさんが、腕をほどいた。
「北の山にはな」
「灰狼族の一族が、おった」
「かいろうぞく」
「灰色の狼の獣人だ。毛皮と、山の薬草を持って、年に何度か下りてきた」
わたしは、シズちゃんの黒い耳を見上げた。
灰色の耳、というのが、うまく浮かばなかった。
「族長を、ガランという」
「がらん」
「大きな男だ。わしの倍は肩がある」
おじさんが、そこで、いちど言葉を切った。
「……あれも、下りてこん」
シズちゃんが、深く頭を下げた。
おじさんは、それを見ないで、中へ入っていった。
*
扉が、閉まりかけて、止まった。
もう1度、開いた。
「……戻ってきたら、湯を沸かしとく」
それだけ言って、こんどこそ閉まった。
……もどってきたら。
わたしは、その言葉を、口の中に置いた。
*
村を出ると、道は、すぐに登りになった。
麦の畑が、だんだん下のほうへ遠ざかっていった。
土の色が、黒から、細かい石の混じった薄い茶色に変わった。
「はっ……」
息が、上がった。
シズちゃんの黒い耳が、こちらへ、ぴくっ、と向いた。
「ハルカ」
「平気」
「うん」
シズちゃんは、それだけ言って、また前を向いた。
歩く速さが、ほんの少しだけ、遅くなった。
……ばれてないと、思ってる。
*
峠のてっぺんで、わたしは足を止めた。
「わ……」
振り返ると、南だった。
麦の畑と、寄り集まった屋根と、ゆるく曲がる街道。
前を向くと、北だった。
針葉樹の林が、山の斜面を、下までびっしり埋めていた。
ノルドの林の緑より、ずっと暗い緑だった。
……北って、色がちがうんだ。
いままで背中を押していた風が、いま、顔に当たっていた。
*
林に入ると、光が変わった。
頭の上の青が針の葉に隠れて、道の上にまだらの影が落ちた。
苔と、木の皮の匂いが、鼻の奥に来た。
しばらく歩いて、わたしは気づいた。
……音が、ない。
鳥の声も、虫の音も、しなかった。
わたしの足音と、シズちゃんの足音。
その2つだけが、林の中に、順番に置かれていった。
「シズちゃん」
「うん」
「鳥、いないね」
シズちゃんの黒い耳が、ゆっくり左へ向いて、ゆっくり右へ向いた。
聞こうとしているものが、どこにも見つからない動きだった。
「……鳥だけじゃ、ない」
「え」
「獣の匂いが、しない」
「鹿も、猪も、狐も、匂わない」
*
わたしは、少し待った。
誰も、なにも続けなかった。
……リーンちゃんが、いたら。
こわいときほど、あの子は、よくしゃべった。
わたしは、その考えを、途中でやめた。
こんなに静かなのが、よく分かる日は、はじめてだった。
*
「あ」
林が、切れた。
すり鉢みたいなくぼ地が、ぽっかりと下にあった。
まわりを、ぐるりと針葉樹が囲んでいた。
その真ん中に。
村が、あった。
板を斜めに重ねた屋根が、10戸ほど。
細い道が、1本、南北に走っていた。
北の端に、他より少しだけ大きい家が、1つ。
それが、ぜんぶだった。
空は青くて、光は、ちゃんとあった。
……煙が、ない。
どの屋根からも、なにも上がっていなかった。
「……着いた」
シズちゃんが、それだけ言った。
「うん」
わたしも、それだけを返した。
*
斜面を下りきると、木の門があった。
柱が2本立って、その上に横木が1本渡してあるだけの門だった。
壊れていなかった。
閉じても、いなかった。
ただ、開いたまま、そこにあった。
横木には、なにも書いてなかった。
わたしたちは、くぐった。
*
道の土は、やわらかかった。
わたしの足が沈んで、靴の形が、くっきり残った。
……残るんだ。
わたしは、振り返った。
門から、ここまで。
わたしの足跡と、シズちゃんの足跡。
2本、まっすぐに続いていた。
2本、だけだった。
……3本には、ならないんだ。
こんなにやわらかい土なのに、ほかには、なにもなかった。
水を汲みに行った跡も。
畑に出た跡も。
子どもが走った跡も。
1本も、なかった。
*
いちばん手前の家の戸が、開いていた。
押した形じゃなかった。
もともと、開いていた。
シズちゃんが先に入って、わたしが続いた。
中は、暗かった。
目が慣れると、机の上に、椀が出ていた。
わたしは、覗き込んだ。
底に、茶色いものが、薄くへばりついていた。
乾いて、板みたいになって、椀のかたちに固まっていた。
……お粥だ。
宿のおじさんは、言っていた。
――中に粥が入っとった。まだ、形があった。
これには、形が、なかった。
*
……あれ。
おじさんが行ったのは、北へ2日の集落だ。
ここは、峠を越えて、半日だ。
ここは、おじさんの見た村じゃない。
なのに。
……おなじだ。
村が、4つ。
ギルドのおじさんは、そう言っていた。
4つとも、こうなのかと、はじめて思った。
*
奥に、寝床があった。
毛布が、めくってあった。
人が起き上がった、その形のままだった。
上に、薄く埃が積もっていた。
わたしは、指で、そっと押してみた。
毛布は、へこまなかった。
……ここ、朝だったんだ。
起きて、粥を食べて、それから、出ていく朝。
その、つづきだけが、なかった。
*
壁に、木の柄の道具が、掛かっていた。
「あ」
「うん」
「鍬だ」
シズちゃんの黒い耳が、こちらへ向いた。
「……うん」
「シズちゃんが、教えてくれた」
「畑を、打つ道具だよ」
「持つ、って言ってた」
わたしは、宿のおじさんの声を、思い出していた。
――山の者はな、逃げるときは、まず鍬を持つ。
――あれを置いて出る者は、おらん。
鍬は、壁に掛かったままだった。
*
外に出ると、家の裏に、竿が渡してあった。
白い布と、子どもの小さな麻の服が、留めたままになっていた。
わたしは、袖に触ってみた。
乾いている、というより、かたかった。
1日や2日の乾き方じゃなかった。
朝の露と、昼の光と、夜の湿り気を、何度も何度もくり返して。
それでも、取り込む人が、いなかった乾き方だった。
*
シズちゃんが、家々のあいだの小屋を覗き込んだ。
「……家畜も、いない」
わたしも、覗いた。
藁が敷いてあった。
真ん中のあたりだけ、まるくへこんでいた。
なにかが、そこで丸くなって寝ていた形だった。
壁ぎわに、木をくり抜いた餌桶があった。
底に、餌が少しだけ残って、固まって、桶の底の形になっていた。
囲いの戸は、内側へ開いていた。
掛け金が、外れていた。
でも、壊れてはいなかった。
誰かが、手で、外した。
*
道の真ん中に、石を丸く積んだ井戸があった。
覗き込むと、深い底で、水が、小さく丸く光っていた。
ロープと桶は、井戸の内側の縁に、きちんと巻いてしまってあった。
巻き方が、ていねいだった。
ロープの端が、輪の内側に押し込んであった。
ほどけないように。
……ちゃんと、かたづけて、ある。
荒れているほうが、まだ、よかった気がした。
かたづいているのが、いちばん、こわかった。
*
気がつくと、わたしは、さっきから下ばかり見ていた。
土の上。
床の上。
戸の前。
井戸のまわり。
……わたし、なにを探してるんだろう。
考えて、分かって、手が止まった。
……血の、跡。
なかった。
どこにも、なかった。
1滴も、なかった。
わたしは、その場に、しゃがみ込みたくなった。
しゃがまなかった。
しゃがんだら、もっと、よく見えてしまうからだ。
*
村に入ってから、シズちゃんの歩き方が、変わっていた。
3歩、歩いて、止まって、鼻先を上げる。
また、3歩。
「シズちゃん」
「うん」
「匂い?」
「……うん」
「わたしは、分かんない」
「人の鼻では、たぶん」
シズちゃんが、しゃがんだ。
土に、鼻先を寄せた。
鼻の穴が、大きくひらいて、閉じて、また、ひらいた。
*
「雨のあとの、金物みたいな匂いがする」
「金物」
「うん。……その下に、もうひとつ、ある」
「下?」
「匂いは、重なるんだ」
「うすい紙を、何枚も置いたみたいに」
「上の1枚を、めくると、下がある」
「めくれるの?」
「……鼻で、めくる」
わたしは、思わず、自分の鼻をつまんでみた。
なにも、めくれなかった。
「下のは、なんの匂い」
シズちゃんが、答えなかった。
黒い耳が、真上に、ぴん、と立った。
……また、この角度だ。
わたしが、ひとつだけ、知らない角度。
黒い尻尾が、低く垂れた。
揺れなかった。
*
わたしは、道を歩いた。
鼻から、思いきり息を吸った。
土。木。乾いた草。
もう1度、吸った。
ふっ、と、鼻の奥に、ひっかかった。
わたしは、足を止めた。
「シズちゃん」
「うん」
「……わたしも、した」
シズちゃんが、振り返った。
「ここ、匂う」
シズちゃんが、走ってきた。
しゃがんで、鼻先を土に落とした。
「……ここが、いちばん、濃い」
わたしは、まわりを見た。
家でも、井戸でも、小屋でも、なかった。
ただの、道の、真ん中だった。
なにも、なかった。
……なにもないところが、いちばん濃い。
*
シズちゃんが、立ち上がった。
鼻先が、少し下を向いていた。
道を、まっすぐ北へ。
村の北の端を過ぎて、門を出て、林の際まで。
そこで、止まった。
「……ここから、上だ」
「上?」
「北へ、続いている」
暗いだけの林だった。
「もどってきたのは」
「……ない」
「え」
「来た匂いが、ない」
「行った匂いだけが、ある」
*
わたしは、うまく飲み込めなかった。
来ないで、行く。
「シズちゃん、それって」
シズちゃんは、しばらく、林のほうを見ていた。
「……これは、還っていく匂いだ」
「かえる」
「北へ、還っている」
「かえるって」
「うん」
「……家に帰る、の、かえる?」
シズちゃんが、こちらを見た。
しばらく、答えなかった。
「……うん」
わたしは、なにも言えなくなった。
*
と。
林の際で、音がした。
しゃ。
しゃ。
土を削る音だった。
ノルドの鋸の音に、少しだけ似ていた。
シズちゃんが、わたしの半歩前に出た。
*
木立の切れ目の向こうに、畑があった。
その真ん中に、人がいた。
大きな背中だった。
肩が、シズちゃんの倍あった。
白いものの混じった、灰色の耳が、頭の両側にあった。
鍬を、振り下ろしていた。
……鍬だ。
壁に、掛かっていたやつだ。
*
その人が、こちらを向いた。
右目のふちに、古い、細い傷があった。
灰色の耳は、下がらなかった。
シズちゃんの黒い耳が、うしろへ、ゆっくり倒れた。
それから、戻った。
灰色の耳は、しばらく、そのままだった。
やがて、ゆっくり、うしろへ倒れた。
戻るのが、遅かった。
*
「……北の者か」
「南から、参りました」
「そうか」
男の人が、鍬を土に立てた。
「灰の狼の、ガランだ」
「がらん」
「族長だった」
「……だった?」
だった、と言った。
いま、じゃなくて。
ガランさんは、答えなかった。
「この村の方ですか」
「ちがう」
「北に、わしらの集落があった」
「……あった、と」
「うん」
それだけだった。
*
「おじいさん」
「なんだ」
「畑、打ってるの?」
「打っとる」
「なんで」
訊いてから、わたしは、まずかったかもしれない、と思った。
人が、いないのに。
「畑はな」
「ほっとくと、死ぬ」
「死ぬ?」
「土が固まる。草が根を張る。1年で、もう戻らん」
わたしは、足元を見た。
打ってあるところだけ、黒くて、やわらかかった。
その外側は、白っぽくて、細い草が立っていた。
毎日、同じところまで打っている人の、境目だった。
「もどってきたときにな」
ガランさんが、そう言った。
「食うもんが、要る」
わたしは、なにも言えなかった。
*
「……匂いが、します」
「村から、北へ、抜けています」
ガランさんが、ゆっくりうなずいた。
「そうか」
「……分かられますか」
ガランさんは、自分の鼻を、指の背で、いちどこすった。
「わしの鼻は、もう、利かん」
「10年、前からな」
狼の耳を持っている人が。
匂いが、分からない。
「だから、ここにおる」
「匂いが分からんもんは、目で見るしかない」
「毎日、来とるんですか」
「畑があるうちはな」
*
「あんた、白狼か」
「……はい」
「遠いところから、来たな」
シズちゃんは、答えなかった。
ガランさんも、それ以上、訊かなかった。
鍬を、また持ち上げた。
しゃ。
その音だけが、しばらく続いた。
*
やがて、ガランさんが手を止めて、空を見た。
日が、山のかたちのすぐ上まで来ていた。
「日が暮れる」
「今夜は、村の外に出るな」
「なんで、ですか」
「……林は、暗い」
ガランさんが、鍬を肩に担いだ。
「わしの小屋は、あの尾根の下だ」
「明日、来い」
大きな背中が、木立の中へ入っていった。
枝が、いちど揺れて、それきり、動かなかった。
*
わたしたちは、村の道の真ん中まで戻った。
「シズちゃん」
「うん」
「あの人、はじめ、耳を下げなかった」
「……うん」
「シズちゃんが、先に下げた」
「うん」
「あれ、なに?」
シズちゃんが、少し、黙った。
「刃を抜かないとは」
「うん」
「……まだ、言えないんだ」
わたしは、その言葉を、飲み込むのに、時間がかかった。
*
日が、落ちた。
空が、青くなって、それから、黒くなっていった。
わたしは、道の真ん中に立って、家々を見ていた。
昼のあいだ、窓は、ただ、暗かった。
中が見えないだけだと思っていた。
わたしは、待った。
夕飯の時間になれば、どこかが、明るくなるはずだった。
*
ならなかった。
1つも、ならなかった。
わたしは、道の端から端まで、数えた。
1、2、3、4、5。
6、7、8、9、10。
道の両側に、10。
どれにも、灯りが、なかった。
……灯りの、ない、窓。
昼は、ただの暗い窓だった。
夜になって、はじめて、名前がついた。
*
星が出た。
村には、音がなかった。
「シズちゃん」
「うん」
「あの人たち」
「うん」
「……帰って、くるかな」
シズちゃんは、答えなかった。
黒い耳が、まっすぐ、北を向いていた。
真上でも、いつもの角度でもなかった。
北だけを、向いていた。
*
わたしは、掌を開いた。
あたたかかった。
村の空気は、冷たかった。
あたたかいのは、ここだけだった。
わたしは、その手を、握った。
……あした。
心の中で、そう言った。
あしたの来る場所だと、いい。
わたしは、灯りのない窓を、もう1度だけ数えた。
やっぱり、10あった。




