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転生少女と黒狼姫 〜女神に選ばれた少女と、掟破りの狼族戦士〜  作者: 白川雫


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15/43

第15話 北へ還る匂い

 朝の空気が、鼻の奥で、つんと冷たかった。


 稜の灯の扉の前に、宿主のおじさんが立っていた。


 わたしは、荷袋の紐を握り直した。


 掌が、あたたかかった。


 昨日の朝から、ずっとだった。


 ……まだ、へらない。


   *


「行くのか」


「はい」


 シズちゃんが答えた。


「峠までは、なだらかだ。越えたら少し下って、林になる」


「林を抜けたら、くぼ地がひとつある。盆地だ」


「ぼんち」


「ぐるりと山に囲まれて、真ん中だけ低いところだよ」


 シズちゃんが、小さく教えてくれた。


 わたしは、両手で、そのかたちを作ってみた。


「半日で着く」


   *


 おじさんが、腕をほどいた。


「北の山にはな」


「灰狼族の一族が、おった」


「かいろうぞく」


「灰色の狼の獣人だ。毛皮と、山の薬草を持って、年に何度か下りてきた」


 わたしは、シズちゃんの黒い耳を見上げた。


 灰色の耳、というのが、うまく浮かばなかった。


「族長を、ガランという」


「がらん」


「大きな男だ。わしの倍は肩がある」


 おじさんが、そこで、いちど言葉を切った。


「……あれも、下りてこん」


 シズちゃんが、深く頭を下げた。


 おじさんは、それを見ないで、中へ入っていった。


   *


 扉が、閉まりかけて、止まった。


 もう1度、開いた。


「……戻ってきたら、湯を沸かしとく」


 それだけ言って、こんどこそ閉まった。


 ……もどってきたら。


 わたしは、その言葉を、口の中に置いた。


   *


 村を出ると、道は、すぐに登りになった。


 麦の畑が、だんだん下のほうへ遠ざかっていった。


 土の色が、黒から、細かい石の混じった薄い茶色に変わった。


「はっ……」


 息が、上がった。


 シズちゃんの黒い耳が、こちらへ、ぴくっ、と向いた。


「ハルカ」


「平気」


「うん」


 シズちゃんは、それだけ言って、また前を向いた。


 歩く速さが、ほんの少しだけ、遅くなった。


 ……ばれてないと、思ってる。


   *


 峠のてっぺんで、わたしは足を止めた。


「わ……」


 振り返ると、南だった。


 麦の畑と、寄り集まった屋根と、ゆるく曲がる街道。


 前を向くと、北だった。


 針葉樹の林が、山の斜面を、下までびっしり埋めていた。


 ノルドの林の緑より、ずっと暗い緑だった。


 ……北って、色がちがうんだ。


 いままで背中を押していた風が、いま、顔に当たっていた。


   *


 林に入ると、光が変わった。


 頭の上の青が針の葉に隠れて、道の上にまだらの影が落ちた。


 苔と、木の皮の匂いが、鼻の奥に来た。


 しばらく歩いて、わたしは気づいた。


 ……音が、ない。


 鳥の声も、虫の音も、しなかった。


 わたしの足音と、シズちゃんの足音。


 その2つだけが、林の中に、順番に置かれていった。


「シズちゃん」


「うん」


「鳥、いないね」


 シズちゃんの黒い耳が、ゆっくり左へ向いて、ゆっくり右へ向いた。


 聞こうとしているものが、どこにも見つからない動きだった。


「……鳥だけじゃ、ない」


「え」


「獣の匂いが、しない」


「鹿も、猪も、狐も、匂わない」


   *


 わたしは、少し待った。


 誰も、なにも続けなかった。


 ……リーンちゃんが、いたら。


 こわいときほど、あの子は、よくしゃべった。


 わたしは、その考えを、途中でやめた。


 こんなに静かなのが、よく分かる日は、はじめてだった。


   *


「あ」


 林が、切れた。


 すり鉢みたいなくぼ地が、ぽっかりと下にあった。


 まわりを、ぐるりと針葉樹が囲んでいた。


 その真ん中に。


 村が、あった。


 板を斜めに重ねた屋根が、10戸ほど。


 細い道が、1本、南北に走っていた。


 北の端に、他より少しだけ大きい家が、1つ。


 それが、ぜんぶだった。


 空は青くて、光は、ちゃんとあった。


 ……煙が、ない。


 どの屋根からも、なにも上がっていなかった。


「……着いた」


 シズちゃんが、それだけ言った。


「うん」


 わたしも、それだけを返した。


   *


 斜面を下りきると、木の門があった。


 柱が2本立って、その上に横木が1本渡してあるだけの門だった。


 壊れていなかった。


 閉じても、いなかった。


 ただ、開いたまま、そこにあった。


 横木には、なにも書いてなかった。


 わたしたちは、くぐった。


   *


 道の土は、やわらかかった。


 わたしの足が沈んで、靴の形が、くっきり残った。


 ……残るんだ。


 わたしは、振り返った。


 門から、ここまで。


 わたしの足跡と、シズちゃんの足跡。


 2本、まっすぐに続いていた。


 2本、だけだった。


 ……3本には、ならないんだ。


 こんなにやわらかい土なのに、ほかには、なにもなかった。


 水を汲みに行った跡も。


 畑に出た跡も。


 子どもが走った跡も。


 1本も、なかった。


   *


 いちばん手前の家の戸が、開いていた。


 押した形じゃなかった。


 もともと、開いていた。


 シズちゃんが先に入って、わたしが続いた。


 中は、暗かった。


 目が慣れると、机の上に、椀が出ていた。


 わたしは、覗き込んだ。


 底に、茶色いものが、薄くへばりついていた。


 乾いて、板みたいになって、椀のかたちに固まっていた。


 ……お粥だ。


 宿のおじさんは、言っていた。


 ――中に粥が入っとった。まだ、形があった。


 これには、形が、なかった。


   *


 ……あれ。


 おじさんが行ったのは、北へ2日の集落だ。


 ここは、峠を越えて、半日だ。


 ここは、おじさんの見た村じゃない。


 なのに。


 ……おなじだ。


 村が、4つ。


 ギルドのおじさんは、そう言っていた。


 4つとも、こうなのかと、はじめて思った。


   *


 奥に、寝床があった。


 毛布が、めくってあった。


 人が起き上がった、その形のままだった。


 上に、薄く埃が積もっていた。


 わたしは、指で、そっと押してみた。


 毛布は、へこまなかった。


 ……ここ、朝だったんだ。


 起きて、粥を食べて、それから、出ていく朝。


 その、つづきだけが、なかった。


   *


 壁に、木の柄の道具が、掛かっていた。


「あ」


「うん」


「鍬だ」


 シズちゃんの黒い耳が、こちらへ向いた。


「……うん」


「シズちゃんが、教えてくれた」


「畑を、打つ道具だよ」


「持つ、って言ってた」


 わたしは、宿のおじさんの声を、思い出していた。


 ――山の者はな、逃げるときは、まず鍬を持つ。


 ――あれを置いて出る者は、おらん。


 鍬は、壁に掛かったままだった。


   *


 外に出ると、家の裏に、竿が渡してあった。


 白い布と、子どもの小さな麻の服が、留めたままになっていた。


 わたしは、袖に触ってみた。


 乾いている、というより、かたかった。


 1日や2日の乾き方じゃなかった。


 朝の露と、昼の光と、夜の湿り気を、何度も何度もくり返して。


 それでも、取り込む人が、いなかった乾き方だった。


   *


 シズちゃんが、家々のあいだの小屋を覗き込んだ。


「……家畜も、いない」


 わたしも、覗いた。


 藁が敷いてあった。


 真ん中のあたりだけ、まるくへこんでいた。


 なにかが、そこで丸くなって寝ていた形だった。


 壁ぎわに、木をくり抜いた餌桶があった。


 底に、餌が少しだけ残って、固まって、桶の底の形になっていた。


 囲いの戸は、内側へ開いていた。


 掛け金が、外れていた。


 でも、壊れてはいなかった。


 誰かが、手で、外した。


   *


 道の真ん中に、石を丸く積んだ井戸があった。


 覗き込むと、深い底で、水が、小さく丸く光っていた。


 ロープと桶は、井戸の内側の縁に、きちんと巻いてしまってあった。


 巻き方が、ていねいだった。


 ロープの端が、輪の内側に押し込んであった。


 ほどけないように。


 ……ちゃんと、かたづけて、ある。


 荒れているほうが、まだ、よかった気がした。


 かたづいているのが、いちばん、こわかった。


   *


 気がつくと、わたしは、さっきから下ばかり見ていた。


 土の上。


 床の上。


 戸の前。


 井戸のまわり。


 ……わたし、なにを探してるんだろう。


 考えて、分かって、手が止まった。


 ……血の、跡。


 なかった。


 どこにも、なかった。


 1滴も、なかった。


 わたしは、その場に、しゃがみ込みたくなった。


 しゃがまなかった。


 しゃがんだら、もっと、よく見えてしまうからだ。


   *


 村に入ってから、シズちゃんの歩き方が、変わっていた。


 3歩、歩いて、止まって、鼻先を上げる。


 また、3歩。


「シズちゃん」


「うん」


「匂い?」


「……うん」


「わたしは、分かんない」


「人の鼻では、たぶん」


 シズちゃんが、しゃがんだ。


 土に、鼻先を寄せた。


 鼻の穴が、大きくひらいて、閉じて、また、ひらいた。


   *


「雨のあとの、金物みたいな匂いがする」


「金物」


「うん。……その下に、もうひとつ、ある」


「下?」


「匂いは、重なるんだ」


「うすい紙を、何枚も置いたみたいに」


「上の1枚を、めくると、下がある」


「めくれるの?」


「……鼻で、めくる」


 わたしは、思わず、自分の鼻をつまんでみた。


 なにも、めくれなかった。


「下のは、なんの匂い」


 シズちゃんが、答えなかった。


 黒い耳が、真上に、ぴん、と立った。


 ……また、この角度だ。


 わたしが、ひとつだけ、知らない角度。


 黒い尻尾が、低く垂れた。


 揺れなかった。


   *


 わたしは、道を歩いた。


 鼻から、思いきり息を吸った。


 土。木。乾いた草。


 もう1度、吸った。


 ふっ、と、鼻の奥に、ひっかかった。


 わたしは、足を止めた。


「シズちゃん」


「うん」


「……わたしも、した」


 シズちゃんが、振り返った。


「ここ、匂う」


 シズちゃんが、走ってきた。


 しゃがんで、鼻先を土に落とした。


「……ここが、いちばん、濃い」


 わたしは、まわりを見た。


 家でも、井戸でも、小屋でも、なかった。


 ただの、道の、真ん中だった。


 なにも、なかった。


 ……なにもないところが、いちばん濃い。


   *


 シズちゃんが、立ち上がった。


 鼻先が、少し下を向いていた。


 道を、まっすぐ北へ。


 村の北の端を過ぎて、門を出て、林の際まで。


 そこで、止まった。


「……ここから、上だ」


「上?」


「北へ、続いている」


 暗いだけの林だった。


「もどってきたのは」


「……ない」


「え」


「来た匂いが、ない」


「行った匂いだけが、ある」


   *


 わたしは、うまく飲み込めなかった。


 来ないで、行く。


「シズちゃん、それって」


 シズちゃんは、しばらく、林のほうを見ていた。


「……これは、還っていく匂いだ」


「かえる」


「北へ、還っている」


「かえるって」


「うん」


「……家に帰る、の、かえる?」


 シズちゃんが、こちらを見た。


 しばらく、答えなかった。


「……うん」


 わたしは、なにも言えなくなった。


   *


 と。


 林の際で、音がした。


 しゃ。


 しゃ。


 土を削る音だった。


 ノルドの鋸の音に、少しだけ似ていた。


 シズちゃんが、わたしの半歩前に出た。


   *


 木立の切れ目の向こうに、畑があった。


 その真ん中に、人がいた。


 大きな背中だった。


 肩が、シズちゃんの倍あった。


 白いものの混じった、灰色の耳が、頭の両側にあった。


 鍬を、振り下ろしていた。


 ……鍬だ。


 壁に、掛かっていたやつだ。


   *


 その人が、こちらを向いた。


 右目のふちに、古い、細い傷があった。


 灰色の耳は、下がらなかった。


 シズちゃんの黒い耳が、うしろへ、ゆっくり倒れた。


 それから、戻った。


 灰色の耳は、しばらく、そのままだった。


 やがて、ゆっくり、うしろへ倒れた。


 戻るのが、遅かった。


   *


「……北の者か」


「南から、参りました」


「そうか」


 男の人が、鍬を土に立てた。


「灰の狼の、ガランだ」


「がらん」


「族長だった」


「……だった?」


 だった、と言った。


 いま、じゃなくて。


 ガランさんは、答えなかった。


「この村の方ですか」


「ちがう」


「北に、わしらの集落があった」


「……あった、と」


「うん」


 それだけだった。


   *


「おじいさん」


「なんだ」


「畑、打ってるの?」


「打っとる」


「なんで」


 訊いてから、わたしは、まずかったかもしれない、と思った。


 人が、いないのに。


「畑はな」


「ほっとくと、死ぬ」


「死ぬ?」


「土が固まる。草が根を張る。1年で、もう戻らん」


 わたしは、足元を見た。


 打ってあるところだけ、黒くて、やわらかかった。


 その外側は、白っぽくて、細い草が立っていた。


 毎日、同じところまで打っている人の、境目だった。


「もどってきたときにな」


 ガランさんが、そう言った。


「食うもんが、要る」


 わたしは、なにも言えなかった。


   *


「……匂いが、します」


「村から、北へ、抜けています」


 ガランさんが、ゆっくりうなずいた。


「そうか」


「……分かられますか」


 ガランさんは、自分の鼻を、指の背で、いちどこすった。


「わしの鼻は、もう、利かん」


「10年、前からな」


 狼の耳を持っている人が。


 匂いが、分からない。


「だから、ここにおる」


「匂いが分からんもんは、目で見るしかない」


「毎日、来とるんですか」


「畑があるうちはな」


   *


「あんた、白狼か」


「……はい」


「遠いところから、来たな」


 シズちゃんは、答えなかった。


 ガランさんも、それ以上、訊かなかった。


 鍬を、また持ち上げた。


 しゃ。


 その音だけが、しばらく続いた。


   *


 やがて、ガランさんが手を止めて、空を見た。


 日が、山のかたちのすぐ上まで来ていた。


「日が暮れる」


「今夜は、村の外に出るな」


「なんで、ですか」


「……林は、暗い」


 ガランさんが、鍬を肩に担いだ。


「わしの小屋は、あの尾根の下だ」


「明日、来い」


 大きな背中が、木立の中へ入っていった。


 枝が、いちど揺れて、それきり、動かなかった。


   *


 わたしたちは、村の道の真ん中まで戻った。


「シズちゃん」


「うん」


「あの人、はじめ、耳を下げなかった」


「……うん」


「シズちゃんが、先に下げた」


「うん」


「あれ、なに?」


 シズちゃんが、少し、黙った。


「刃を抜かないとは」


「うん」


「……まだ、言えないんだ」


 わたしは、その言葉を、飲み込むのに、時間がかかった。


   *


 日が、落ちた。


 空が、青くなって、それから、黒くなっていった。


 わたしは、道の真ん中に立って、家々を見ていた。


 昼のあいだ、窓は、ただ、暗かった。


 中が見えないだけだと思っていた。


 わたしは、待った。


 夕飯の時間になれば、どこかが、明るくなるはずだった。


   *


 ならなかった。


 1つも、ならなかった。


 わたしは、道の端から端まで、数えた。


 1、2、3、4、5。


 6、7、8、9、10。


 道の両側に、10。


 どれにも、灯りが、なかった。


 ……灯りの、ない、窓。


 昼は、ただの暗い窓だった。


 夜になって、はじめて、名前がついた。


   *


 星が出た。


 村には、音がなかった。


「シズちゃん」


「うん」


「あの人たち」


「うん」


「……帰って、くるかな」


 シズちゃんは、答えなかった。


 黒い耳が、まっすぐ、北を向いていた。


 真上でも、いつもの角度でもなかった。


 北だけを、向いていた。


   *


 わたしは、掌を開いた。


 あたたかかった。


 村の空気は、冷たかった。


 あたたかいのは、ここだけだった。


 わたしは、その手を、握った。


 ……あした。


 心の中で、そう言った。


 あしたの来る場所だと、いい。


 わたしは、灯りのない窓を、もう1度だけ数えた。


 やっぱり、10あった。

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