第16話 灯りのない窓
目が覚めたら、空が白かった。
わたしは、村の道の端で、毛布にくるまっていた。
焚き火は、もう灰になっていた。
シズちゃんは、その灰の前にしゃがんでいた。
背中が、まっすぐだった。
……寝てない。
*
体を起こして、家々を見た。
昨日の夜、わたしが数えた窓。
道の両側に、10。
朝の光の中で、それは、ただの暗い窓に戻っていた。
板の壁に、四角い穴が開いているだけの、なんでもない窓。
……戻ってる。
昼のあいだは、こうなんだ。
名前がついたのは、夜のあいだだけだった。
*
でも。
わたしは、もう知っていた。
夕方になっても、あの窓は明るくならない。
1つも、ならない。
知る前と知った後で、窓の形は、なにも変わっていなかった。
変わったのは、わたしのほうだった。
もう、ただの暗い窓には見えなかった。
*
「起きた?」
「うん」
「食べたら、ガランさんのところへ行こう」
「尾根の下だって、言ってた」
「うん」
「道に迷わない?」
「匂いをたどればいい」
シズちゃんが、そう言って、少し黙った。
「昨日、通った匂いが残っている」
「わたしの、も?」
「ハルカの匂いは、いつでも分かる」
わたしは、なんて返せばいいのか分からなくなった。
*
村の門を出て、東へ折れた。
道はなくて、草の倒れたところを辿った。
息が、すぐに上がった。
シズちゃんの歩く速さが、また少しだけ遅くなった。
……ばれてないと、思ってる。
*
斜面の途中で振り返ると、下に村があった。
すり鉢の底に、板の屋根が10。
どの屋根からも、なにも上がっていなかった。
*
木立を抜けたところで、わたしは足を止めた。
「あ」
小屋があった。
石を積んだ土台の上に、木を組んだだけの低い小屋。
その屋根の、真ん中あたりから。
「シズちゃん」
「うん」
「煙」
「うん」
「……出てる」
細い煙が、1本。
まっすぐ上がって、途中で風にほどけて、消えていた。
わたしは、その1本をしばらく見ていた。
下の村には、1本もなかったものだった。
*
小屋の前の平らなところに、子どもがいた。
しゃがんで、地面をいじっていた。
わたしたちに気づいて、顔を上げた。
頭の両側に、灰色の耳があった。
小さくて、まるくて、先だけが濃かった。
……小さい、灰色の耳。
子どもは立ち上がって、動かなくなった。
*
シズちゃんが、先に黒い耳をうしろへ倒した。
ゆっくり倒して、ゆっくり戻した。
子どもは、それを見ていた。
それから、思いきり両方の耳を倒した。
勢いがよすぎて、体まで前に傾いた。
あわてて戻した耳が、ぴん、と立ちすぎていた。
シズちゃんの口の端が、ほんの少しだけ持ち上がった。
*
小屋の戸が開いて、おばあさんが出てきた。
灰色の耳は、白いものが多くて、ほとんど白に近かった。
わたしたちを見て。
おばあさんは、すぐに耳を倒した。
シズちゃんより、先だった。
*
……はやい。
昨日、ガランさんは下げなかった。
シズちゃんが先に下げて、それから遅れて下げた。
このおばあさんは、待たなかった。
「入りなさい」
おばあさんは、それだけ言って中へ戻った。
*
小屋の中は、暗くてあたたかかった。
真ん中に、石で囲った火があって、黒い鍋が下がっていた。
煙が出ていたのは、これだった。
奥に、ガランさんが、壁に背中を預けて座っていた。
鍬は、戸のすぐ横に立てかけてあった。
「来たか」
「はい」
*
おばあさんが、椀を並べて、汁を注いだ。
わたしは、両手で持った。
椀は、熱かった。
……わたしのほうが、熱い。
持っている掌のほうが、椀より熱かった。
まだ、へらない。
*
汁は、しょっぱくて、少しだけ苦かった。
……この苦いの、なんの草だろう。
リーンちゃんなら、すぐ名前を言った。
「おいしい」
おばあさんは、なにも言わなかった。
でも、鍋の蓋を開けて、わたしの椀にもう1杯注いだ。
「シズちゃんも、食べる?」
「わたしのぶんも、ある」
「あ」
シズちゃんの前にも、ちゃんとあった。
「うん、わたし、ぜんぜん見てなかった」
シズちゃんの黒い耳が、こちらへぴくっと向いた。
「……ハルカは、そういうところがある」
「どういうところ」
「……いい、ところだ」
言い直した。
黒い尻尾が、ふわり、と揺れた。
*
子どもは、わたしの正面で、椀を両手で抱えていた。
目が合うと、椀に顔を隠した。
でも、耳はこっちを向いたままだった。
……耳は、隠れてない。
「名前、なんていうの」
子どもが、椀のふちから目だけ出した。
「……ラン」
「らん」
……ガランと、ラン。
「似てる」
「なにが」
「おじいさんと、名前」
ガランさんが、こちらを見た。
「……孫だ」
それだけだった。
でも、ランの耳が、ぴん、と立った。
うれしいときの耳だ、とわたしは思った。
*
わたしは、シズちゃんの黒い耳と、ランの灰色の耳を見比べた。
小さいのと、大きいの。
どっちも、聞いているほうへ勝手に動く。
「シズちゃん」
「うん」
「耳、かして」
「え」
「ちょっと、触りたい」
「……だめだ」
「なんで」
「……くすぐったい」
黒い耳が、ぱたん、と伏せた。
ランの灰色の耳が、それを見て跳ね上がった。
わたしは、両方を見比べて、なんだかうれしくなった。
*
「ランは、ここに、ずっといるの」
「うん」
「お母さんは」
*
鍋をかき混ぜていたおばあさんの手が、止まった。
止まったまま、動かなかった。
ランは、戸のほうを見た。
なにも言わなかった。
火が、ぱち、と鳴った。
*
「ラン」
ガランさんの声だった。
「水を汲んでこい」
ランが椀を置いて、壁の桶を取って、外へ出ていった。
わたしは、自分の膝を見ていた。
……聞いちゃ、だめなことだった。
顔が、熱くなった。
わたしは、立ち上がった。
「わたしも、行く」
誰も、止めなかった。
*
小屋の裏に、細くて浅い沢があった。
ランは、桶を置いてしゃがんでいた。
水は、汲んでいなかった。
石を、いじっていた。
「なにしてるの」
「……ならべてる」
わたしも、しゃがんだ。
*
平たい大きな石の上に、小さい石が並んでいた。
全部、白かった。
沢の石は、灰色や、茶色や、黒だった。
その中から、白いのだけを拾って並べていた。
1つ、2つ、3つ、4つ。
ランが水の中に手を入れて、また1つ拾った。
白かった。
並べた。
5つになった。
*
並びは、まっすぐでも、丸でもなかった。
ただ、隣に置いていっているだけだった。
ランは、しばらく水の中を探して、また1つ拾った。
それを、並べなかった。
わたしのほうへ、突き出した。
「……やる」
*
わたしは、両手で受け取った。
白い石だった。
親指の先くらいの大きさで、平たかった。
角がなくて、すべすべしていた。
持ってみると、見た目より少しだけ重かった。
「これ、なに」
ランは、もう水のほうを向いていた。
次の石を、探していた。
答えは、返ってこなかった。
*
わたしは、もう1回、石を見た。
白い。
それだけだった。
「ありがとう」
ランの灰色の耳が、こちらへぴくっと向いた。
それだけだった。
わたしは荷袋の口を開けて、石を入れた。
紐を、結び直した。
*
ランが、桶を沢につけた。
持ち上げようとして、よろけた。
「半分、持つ」
2人で、坂を登った。
水がこぼれて、わたしの靴にかかった。
*
小屋に戻ると、シズちゃんとガランさんは、なにも話していなかった。
火が、鳴っているだけだった。
*
「もう行くか」
「はい」
おばあさんが、布に包んだものをシズちゃんに押しつけた。
シズちゃんが、断ろうとした。
おばあさんは、もう背中を向けていた。
*
外に出ると、日が高かった。
ガランさんが、戸口まで出てきた。
「北の林には、入るな」
「……なぜですか」
「道がない」
「入れば、出られん」
わたしは、北を見た。
尾根の向こうに、暗い緑が続いていた。
*
ランが、小屋の陰からこっちを見ていた。
わたしは、手を振った。
ランは、振り返さなかった。
でも、灰色の耳がうしろへ、ゆっくり倒れた。
勢いは、さっきよりずっと弱かった。
ちゃんと、できていた。
*
坂を下るあいだ、荷袋の中で、こつん、と音がした。
1歩ごとに、こつん。
わたしは、そのまま歩いた。
*
村の門をくぐった、そのときだった。
シズちゃんが、上げた足を下ろさないまま止まった。
「シズちゃん?」
答えなかった。
鼻先が、上がっていた。
鼻の穴が大きくひらいて、閉じて、また、ひらいた。
*
「……昨日と、ちがう」
「匂い?」
「うん」
「どう、ちがうの」
シズちゃんが、ゆっくり足を下ろした。
「濃い」
*
わたしは、鼻から思いきり吸ってみた。
土。木。乾いた草。
もう1回、吸った。
ふっ、と、鼻の奥にひっかかった。
「……わたしも、する」
「うん」
「ここでも、匂う」
*
昨日、わたしに分かったのは、道の真ん中だけだった。
門のところでは、なにも分からなかった。
今日は、分かる。
同じ鼻で、同じ場所で。
「広がってるの?」
シズちゃんが、少し黙った。
「……ちがう」
「濃く、なっている」
*
匂いが濃くなるということは。
増えた、ということだ。
「……夜のあいだに?」
シズちゃんは、答えなかった。
黒い耳が、真上に、ぴん、と立った。
*
わたしたちは、道を歩いた。
昨日、いちばん濃かったところ。
家でも、井戸でも、小屋でもない。
ただの、道の真ん中。
シズちゃんが、そこでしゃがんだ。
わたしも、隣にしゃがんだ。
*
シズちゃんが、鼻先を土に落とした。
昨日より、ずっと長かった。
「1枚目は、昨日と同じだ」
「金物」
「うん」
「雨のあとの、金物の匂い」
「……その下も、まだある」
*
シズちゃんが、右手を土についた。
指を3本、揃えた。
そのまま、手前へ掻いた。
土が、浅く割れた。
乾いた表面の下から、黒くて湿った土が出てきた。
*
その瞬間。
匂いが、ふわ、と上がってきた。
わたしは、思わずうしろへ手をついた。
喉の奥が、勝手に閉じた。
息が、途中で止まった。
「ハルカ」
「……だいじょうぶ」
*
大丈夫じゃなかった。
わたしにも、はっきり分かった。
その匂いは、冷たかった。
匂いに温度があるなんて、思ったこともなかったのに。
冷たかった。
*
わたしは、その匂いをなにかに例えようとした。
……古い、水。
井戸の、いちばん底の水。
ずっと蓋をしていたところを、開けたときの。
いちばん近いのは、それだった。
でも、ぴったりではなかった。
*
「シズちゃん」
「うん」
「これ、なに」
シズちゃんは、掻いた土に鼻先を寄せたままだった。
「……この村の匂いじゃない」
「え」
「人の匂いでも、獣の匂いでもない」
「じゃあ」
「もっと、ふるい」
*
「古い」
「うん」
「どのくらい」
シズちゃんが、顔を上げた。
わたしのほうは見ないで、村の家々のほうを見ていた。
「この村より、ふるい」
*
村より古い匂いが、村の道の下にある。
人が来て、木を切って、家を建てて、井戸を掘った。
そのぜんぶより、前から。
ここに、あった。
*
「掘るの?」
シズちゃんは、答えなかった。
掻いた土を、しばらく見ていた。
それから、手を動かした。
*
掻き出した土を、手のひらで元のところへ戻していた。
押さえて、ならして、上から乾いた土をかけた。
ていねいだった。
昨日、井戸のロープを巻いた人の手つきに、少しだけ似ていた。
「……なんで」
「今日は、やめておく」
「なんで」
「……今日は」
それだけだった。
*
戻したところだけ、まわりより黒かった。
見ているうちに、その黒も乾いて、薄くなっていった。
匂いも、また遠くなった。
でも、1枚目の下に、ちゃんとあった。
わたしは、それを知ってしまった鼻を、もう元に戻せなかった。
*
シズちゃんが立ち上がって、北を向いた。
村の道が、まっすぐ北へ伸びて、門を出て、林の際まで続いていた。
昨日、匂いをたどった道だった。
「あれは」
「まだ、ある」
「消えてないの」
「うん」
*
「匂いって」
「うん」
「消えないの?」
「消える」
シズちゃんが、林の際を見たまま言った。
「1回だけ通った匂いは、日が経つと薄くなる」
「風が持っていく。雨が流す」
「……これは、薄くならない」
「なんで」
「1回じゃないからだ」
*
わたしは、息を止めた。
「……何度も?」
「うん」
「何度も、北へ行ってるの」
「うん」
「……戻ってくるのは」
「ない」
*
行くだけ。
何度も、行くだけ。
でも、行くものがいなくなったら、行けないはずだった。
村には、もう誰もいないのに。
誰が、何度も、北へ行くんだろう。
わたしは、そこまで考えて、考えるのをやめた。
*
それでも、もうひとつだけ、聞きたいことがあった。
聞いてしまえば、たぶん、答えが返ってくる。
「シズちゃん」
「うん」
「北へ行ってる、匂い」
「うん」
「あれと」
わたしは、足元を指さした。
「……下の、匂い」
「同じ?」
*
シズちゃんは、答えなかった。
黒い耳が、真上に立った。
それから、北を向いた。
それから、下を向いた。
わたしの、指さしたところへ。
そして、また北へ戻った。
*
「……うん」
それだけだった。
わたしは、その1音を飲み込むのに、時間がかかった。
シズちゃんも、わたしも、それ以上なにも言わなかった。
*
シズちゃんの黒い耳は、北を向いたままだった。
「シズちゃん」
返事が、なかった。
「シズちゃん」
やっぱり、なかった。
黒い尻尾が、低く垂れていた。
揺れなかった。
昨日と、同じだった。
*
わたしは、シズちゃんの袖を、指でつまんだ。
肩が、びくっ、と動いた。
黒い耳が、あわててこちらへ向いた。
「……ごめん」
わたしは、驚いた。
シズちゃんが、わたしに謝ることは、あまりなかった。
「なんで、謝るの」
「……聞いていなかった」
「いいよ」
「よくない」
*
シズちゃんが、しゃがんで、わたしと目の高さを合わせた。
「ハルカ」
「うん」
「今夜は、わたしの隣で寝て」
「いいけど」
「……近くで」
「うん」
シズちゃんは、それでやっと立ち上がった。
*
日が、傾きはじめていた。
尾根のかたちが、村の道の上に長い影を落としていた。
わたしたちは、道の真ん中に立っていた。
匂いが、いちばん濃いところに。
*
わたしは、掌を開いた。
あたたかかった。
村の空気は、昨日より冷たかった。
わたしは、その手を握った。
荷袋の中で、こつん、と音がした。
*
シズちゃんの黒い耳が、また北を向いていた。
村の、その先だった。
わたしは、家々を見た。
窓は、10あった。
まだ、明るくならない時間だった。
でも、わたしは、もう知っていた。




