第5話 「白い追っ手」
夜明け前、わたしたちは洞窟を出た。
空はまだ藍色で、星が、いくつか、まだ消え残っていた。シズは、わたしの手を引くでもなく、すこし前を、すたすたと歩く。背中の黒髪が、薄い闇に揺れた。
「足元、気をつけろ」
「うんっ」
「……『うん』だけでは、つけられんだろう」
「あはは、ごめん」
わたしは、急いで足元を見た。岩。岩。木の根。あ、ぬかるみ。シズの言うとおり、見てなかったら、転んでた。シズは振り返らないけど、ちゃんと、わたしのことを見てくれてる。
半日歩いて、シズは沢のそばで足を止めた。
「水を汲む。火は、ここでは焚かん。煙が立つ」
「立つと、見つかっちゃう?」
「鼻のいい者には、煙より前に、人の匂いが届く。だが、煙は遠くからでも見える。両方を消したい」
淡々と説明しながら、シズは皮袋に水を満たして、わたしに干し肉を半分くれた。狩りも、地理も、野営の手際も、ぜんぶ、息をするみたいに自然だった。
わたしは、ぼうっと、シズの手を見ていた。細くて、しなやかな、女の子の手だ。なのに、その手は、こうやってひとりで生き延びる手順を、ぜんぶ知ってる。
「シズ、すごいね」
「狩人なら、誰でもやる」
「でも、わたし、なんにもできないもん。シズがいなかったら、わたし、ぬかるみで転んで終わってたよ」
「……まだ、なにも始まっていないだろう」
ぼそりと言って、シズは前を向いた。
でも、よく見ると、その尻尾が、ぱた、と一回だけ、地面を軽く叩いた。本人は気づいてないんだろうけど。わたしは、知らんふりで、もうひとくち、干し肉をかじった。おいしい。たぶん、いつもより、ずっと、おいしい。
ふと、気になって、訊いてみた。
「ねえシズ、いくつ?」
「13だ」
わたしは、口に干し肉をくわえたまま、固まった。
「……え」
「13、と言った」
「……ええっ? ええーっ!?」
二段階で、声が裏返った。シズが、ちらりと、こっちを見る。
「うそ、ほんとに? 13って、わたしより、年下? ぜんっぜん、見えないんだけど!」
「白狼族は、早く育つ。父の話では、人族の倍くらい速いと聞いた」
「えーー、じゃあ、見た目は18くらいで、ほんとは13? ……シズ、ちっちゃい妹みたいに、見えてきた」
「……妹では、ない」
シズが、すこしだけ、不本意そうに、眉根を寄せた。わたしは、こらえきれずに、笑ってしまった。だって、ずるい。年下なのに、こんなに格好いいんだもん。なのに、「妹ではない」って、わざわざ口に出して、ちゃんと否定してくる。
「シズー、頭撫でていい?」
「断る」
「ええっ、ケチ!」
シズは、ぷいっと前を向いた。
その尻尾が、ぱた、と、地面を一回、打った気がした。本人、ぜったい、気づいてない。わたしは、知らんふりで、干し肉の続きを、もぐもぐと食べた。
昼すぎ、ひらけた斜面で、シズが立ち止まった。
「……無理は、するな」
「え?」
「おまえの灯——胸の奥のあれは、まだ、十分には戻っていない。歩く速さも、わたしの半分しかない。気づいていないのか」
「ええっ、そうなの?」
たしかに、言われてみれば、息が、ちょっと上がってる気もする。胸の奥の、あったかい灯。あの嵐のあと、まだ、とろとろと小さいまま。シズは、それを、ちゃんと見ていた。
「……今日は、もう、ここまでだ。日のあるうちに、寝床を作る」
「うん。ありがとう、シズ。——年下なのに、ちゃんと見ててくれて」
「……『年下』を、いちいち言うな」
「あはは、ごめんごめん」
シズが、ふいっと顔をそむけた。耳の付け根が、すこし、赤い気がした。
「礼はいらん。死なれると、困る」
前に聞いたのと、同じセリフ。ぶっきらぼうで、不器用で、優しい。わたしは、また、ふふっと笑ってしまった。
夜が来た。
火は焚かない。岩陰に、毛布を一枚、二人で広げた。
星が、すごい。
空いっぱい、こぼれそうなくらいの星。わたしの元いた世界には、こんな空は、たぶん、なかった気がする。気がするだけで、なにも、思い出せないけど。
「シズ、あの一番明るいの、なんの星?」
「……知らん」
「ええっ、シズの一族って、星の名前とか、いっぱい知ってそうなのに」
「父は、知っていたかもしれん。わたしは、教わる前に、囲いの外へ出てしまった」
「ふうん。じゃ、今日は、わたしが、教えてあげる」
「……おまえ、知っているのか」
「ううん、ぜんぜん。でも、年下のシズに、先輩風」
「……うるさい」
毛布の下で、シズの尻尾が、ぱた、ぱた、と、二回、動いた気がした。気のせいかもしれない。気のせいじゃないかもしれない。
すこし、間があった。
囲いの外。シズは、生まれてから一度も、自分の意志で、お父さんの森を出たことがなかった。それを、ルナちゃんを取り戻すために、一人で越えた。わたしを助けたことで、もう、戻れない。
わたしのせいじゃない、とシズは言ってくれる。だけど、わたしが、一緒にいるせいで——という気持ちは、たぶん、ずっと、消えない。
「シズ」
「なんだ」
「帰ったら、いちばんに、なにする?」
「……帰れる気が、しているのか」
「うん。ぜったい帰る。決定したもん」
しん、と、夜の音だけが聞こえた。
しばらくして、シズは、ぽつりと言った。
「……ルナと、走る。あいつ、足は遅いが、よく笑う」
「うん」
「父に、勝手に出たことを謝る。……たぶん、げんこつ一個では、足りん」
「あはは、シズのお父さん、こわそうだもんね」
「こわい。だが、——優しい。たぶん、わたしが思っているより、ずっと」
その「たぶん」が、なぜか、胸の奥に、ちりっと残った。
わたしは、毛布のはじっこをつまんで、シズの肩のほうへ、すこし寄せた。
「シズ、もう一口、干し肉、どう?」
「いらん」
「えー、年下なのに、遠慮しちゃって」
「年下、ではない」
短く、ちゃんと、否定してきた。
わたしは、こらえきれずに、毛布の中で、ふふっと笑った。シズの尻尾が、毛布の下で、ぱた、と一回、動いた気がした。
異変は、夜半に来た。
シズの耳が、ぴくり、と立つのを、半分眠っていたわたしは、肌で感じた。
次の瞬間、毛布の上から、口を強くふさがれた。
「——伏せろ」
囁きより小さな、息だけの声。
わたしの体は、岩陰のいちばん奥へ、シズの腕で引きこまれていた。シズが、片膝を立てて、刀の柄に手をかけ、息を殺す。わたしも、息を殺す。
遠く、谷の向こうから、足音が聞こえた。
ひとつじゃない。複数。それも、訓練された、揃った足音。
月のない夜だった。だけど、岩のあいだから見える尾根の上を、白いものが、いくつも、いくつも、移動していくのが、見えた。
白い髪。革と金属の鎧。手に手に槍と剣。
ああ、と、わたしは、心のなかで、小さく息を吐いてしまった。
あの夜、わたしが見た「白い影」。
『きれいだな、ゆきみたいだな、と思った』——あのとき、ぼんやりとした頭で、そう思った。
いま、おなじ白が、月のない夜の尾根の上を、音もなく流れていく。きれいだ。ほんとうに、きれいだ。
なのに、こんなにも、こわい。
シズが、わたしの口から、ゆっくり、手を離した。
「……斥候の本隊だ。十、いや、十二」
「シズの、一族……」
「父の手の者ではない。だが、父の名で動いている。——おまえを大罪人として追い、わたしを連れ戻すために、夜通し動いている」
わかってる。わかってる、けど。
あの白いひとたちは、悪い人たちじゃない。あのひとたちにとって、ルナちゃんは、取り戻すべき仲間で、わたしは、その仲間を奪った、ゆるせない女で。それで、夜も寝ないで、追ってきている。
あのひとたちは、あのひとたちの正義で、動いている。
それが、わかるから、よけいに、こわい。
風が、ふいに、こっちへ向きを変えた。
シズの耳が、ひくっと動いた。同時に、シズの鼻が、すうっと、夜気を吸う。
「——だめだ。風が、変わった。匂いが、向こうへ流れる」
「におい?」
「わたしたちの、匂いだ。鼻の利く者が一人でもいれば、あと数えるほどで、見つかる」
わたしの背筋が、ぞくりと冷たくなった。
夢じゃない。これは、夢じゃない。あの嵐の中で、痛いほど思い知ったはず。なのに、こうしてまた、命の刃が、すぐそこまで来ている。
シズが、わたしの手を、ぐっと握った。
「走れ。沢沿いに、下流へ。匂いは、水で消える。沢の合流点で、待て」
「シズは?」
「気を、引く」
「だめ!」
声が、出てしまった。シズが、目を見開く。
「だめだよ、シズ、置いていかないで」
「おまえを連れて、振り切れる足ではない。今は」
「でも——」
「死なれると、困る、と言っただろう」
言いかけて、わたしは、自分の言葉を、飲み込んだ。
シズの目が、わたしを、まっすぐに見ている。怒っているんじゃない。なだめているんでもない。ただ——「これは、決めたことだ」という、静かな、決定の目だった。
シズは、ふっと、ほんのすこしだけ、口の端を上げた。それから、岩陰を、するり、と出ていった。
次の瞬間、上の尾根から、低い誰何の声が、夜気を裂いた。
「——黒い、影!」
「あそこだ、谷下手!」
弓を引きしぼる、ぎゅっ、という乾いた音。
矢が、放たれた。一本。二本。
わたしは、毛布のなかで、声にならない声で、シズの名を叫んだ。
——その瞬間。
世界の音が、ふっと、遠くなった。
矢が、空中で、ほんの一拍だけ、「ためらった」ように見えた。
ほんとうに、ほんの一拍。瞬きより、ずっと、短い。なのに、その一拍のあいだに、シズの体が、信じられない速さで、横に流れた。
ぴゅ、と、矢が、さっきまでシズがいた場所の、空気を、二本、切り裂いた。岩に、ぱきん、と、音を立てて、刺さった。
時間が、元に、戻った。
夜の音が、ざあっと、戻ってきた。
わたしは、岩陰のいちばん奥で、毛布を抱きしめて、震えていた。
なにが起きたのか、わからない。なにが起きたのか、わからないけど——シズは、無傷だった。それだけが、ぜんぶだった。
そのときだった。
上の尾根のほうから、ひとりの白狼族の戦士が、はっと息を呑む声が、聞こえた。
「——お、お待ちください!」
切迫した、若い男の声。
「あの黒髪は……シズ様! シズ様で、いらっしゃいます!」
ざわっ、と、空気が、揺れた。
矢を放った戦士が、慌てて、弓を下ろす音。
「——なん、と」
「シズ様」
「シズ様、ご無事ですか!」
夜気のなかに、戸惑いと、安堵と、罪悪感のまざった声が、いくつも、降ってきた。
白いひとたちが、いっせいに、岩棚を下りてくる。武器は、もう、構えていない。腰の鞘に戻したり、地に置いたりしている。
「シズ様、お戻りください」
「我々は、あなたを連れ戻すために——」
シズは、岩のあいだで、刀の柄から、ゆっくりと、手を離した。
一歩。
二歩。
月のない夜の、岩のあいだから、シズが、白狼族の戦士たちの前に、姿を、現した。
わたしは、岩陰の隙間から、その背中を、見ていた。背中だけで、こちらに、なにも言わなかった。だけど、その肩のあげさげが、わたしには、「動くな」と、はっきり、聞こえた。
シズは、ひとつ、息を吸った。それから、静かに、戦士たちに告げた。
「——犯人は、別にいる」
夜が、しん、と、息を止めた。
「ルナを攫ったのは、人間族の女だ。だが、わたしの後ろにいる娘では、ない。匂いが、違う。わたしの鼻は、ごまかせない」
「シ、シズ様、それは——」
「わたしは、この娘と一緒に、ルナを探す。父上に、そう、伝えてくれ」
戦士たちが、ざわめいた。
「シズ様、騙されておいでです!」
「敵の罠でございます!」
「お戻りを! お戻りを、シズ様!」
声が、いくつも、重なる。
だけど、戦士たちの後ろの方では、なにも言わずに、ただ、シズを、じっと見つめている者も、いた。剣を地に置いたまま、立ち尽くしている者も、いた。
一族は、二つに、割れていた。
シズの背中は、揺るがなかった。
「——そう思われても」
声が、夜気のなかで、ふるえなかった。
「仕方ない。だが、わたしは」
すこし、間があった。
シズが、ひとつ、息を吸って、吐いた。それから、はっきりと、戦士たちに、告げた。
「——確固たる証拠を持って、必ず、帰る」
月のない夜の、谷のあいだ。
その声は、大きくは、なかった。それでも、夜のすみずみまで、届いた気がした。
「……シズ、様」
「あ……」
戦士たちが、息を呑んで、立ち尽くした。
シズは、それ以上、なにも言わなかった。背中を、戦士たちのほうへ向けて、ゆっくり、夜のなかへ、歩きだした。
「シ、シズ様!」
「お待ちを——」
声は、追いすがった。だけど、誰ひとり、シズの腕をつかむ者は、いなかった。
シズは、振り返らなかった。一度も。
その黒髪が、夜の闇に、すうっ、と、溶けこんで——消えた。
わたしは、岩陰のいちばん奥で、毛布を抱きしめたまま、息を、止めていた。
涙が、なぜか、頬を、つうっと、伝った。
わからない。なんで泣いてるのか、わからない。だけど——いま、わたしは、箱入りの13歳が、一族の前で、自分の言葉で、自分の道を、宣言した瞬間を、見た気がした。
戦士たちの背中が、「お父上に、まず報告だ」とざわめきを残して、いくつもの方向へ、散っていった。
わたしは、岩陰から、ゆっくり、抜け出した。膝が、まだ、震えていた。匂いを消すために、足首まで水に浸けて、沢沿いを走る。
沢の合流点で、シズは、ほんとうに、待っていた。
肩が、上下していた。額には、汗。だけど、傷は、ない。一筋も。
「……シズ」
「来たか」
「来た」
しばらくして、シズが、長く、息を吐いた。
「……すべて、聞いていたのか」
「うん」
「……そうか」
シズは、自分の手のひらを、じっと、見つめた。
「……いまの、なんだ」
「いまの?」
「矢が——空中で、止まって、見えた」
その声に、はじめて、シズらしくない揺らぎが、混じっていた。
月のない夜の、沢のせせらぎ。シズは、自分の手のひらを、しばらく、じっと見ていた。それから、なにも言わずに、握り直した。
「……行くぞ。境の谷を、夜明け前に、越える」
「うんっ」
わたしは、なにも訊かなかった。訊かなくても、いつかきっと、シズが、自分の言葉で話してくれる気がしたから。
歩きながら、わたしは、たまらなくなって、訊いてしまった。
「シズ」
「なんだ」
「『確固たる証拠を持って、必ず、帰る』って——本気で、言ったよね」
「……本気で、なくて、誰の前で、ああいうことを言う」
短く、ちゃんと、答えてきた。
わたしは、ふふっと、笑ってしまった。前を歩く、シズの背中の、その尻尾が、ぱた、と、一回、夜気のなかで、揺れた気がした。
境の谷を、越えた。
夜明けの薄明かりの中、振り返ると、白狼族の領域の森が、向こう側に、海みたいに広がっていた。あの森のどこかに、シズのお父さんがいて、シズが生まれ育った囲いがあって、ルナちゃんとの十年の記憶があって——
シズは、しばらく、振り返ったまま、動かなかった。
その尻尾が、力なく、垂れていた。
わたしは、なにも言わずに、シズの、すこし斜め後ろに、ただ、並んで立った。
言葉は、いらない気がした。たぶん、シズも、そう思ってる。
風が、こちらへ吹いた。森の匂いを、運んできた。シズが、目を閉じた。ひとつ、深く、息を吸って——吐いた。
それから、ようやく、前を向いた。
「……行くぞ」
「うん」
わたしたちは、谷の外の、ゆるい斜面を下りはじめた。
しばらく行くと、ぽつぽつと、人の通った跡が、地面に、見えはじめた。荷車の轍。馬の蹄の跡。
白狼族の領域の、外。人間族の街道だ。
最初の小さな集落の手前で、わたしたちは、フードを目深にかぶり直した。シズは、耳を隠して、尻尾を外套の下にしまった。
集落の入口近く、井戸端で、女の人たちが、何人か、ひそひそと話していた。わたしたちが通り過ぎる瞬間、その声の切れはしが、耳に、ひっかかった。
「——隣の村でも、また、人が、消えたって」
わたしと、シズの足が、同時に、止まった。
顔を、見合わせる。
あの夜、シズが、地図代わりの板きれを見ながら、つぶやいた言葉が、よみがえった。
『人間も、獣人も、両方だ』
白狼族の領域を出た、その最初の朝に。
わたしたちは、すぐに、知ってしまった。
森の向こうにも、闇は、つながっている、ということを。
(つづく)




