第6話 「神隠しの村」
集落に着いたのは夕方だった。
日は山の向こうに沈みかけて、空はまだ淡く青い。だけど街道から見下ろした集落の屋根には、もう灯がほとんど点いていなかった。
「……ひと、いるのかな」
わたしがそう言うと、シズはフードを目深にかぶり直しただけで、なにも返さなかった。耳と尻尾を外套の下にしっかり隠している。一見、ただの細身の少年にしか見えない。
街道から村のなかへ下りていくと、井戸端にぽつぽつと人がいた。
女のひとがふたり、桶を抱えて立ち話をしている。そのすぐ脇を、痩せた牛を引いたおじさんがゆっくり通り過ぎていく。子どもの姿はなかった。
いちばん奇妙だったのは、誰もこちらを見ようとしなかったことだ。
よそ者がふたり、街道から下りてきたのに。ふつうの村なら、ちらりとでも顔を上げる。あのひとたちは桶の縁を見て、おじさんは牛の首筋ばかり見ている。
「シズ……みんな、こっち見ないね」
「ああ」
シズは短く答えた。それからわたしにだけ聞こえる声でつけ足した。
「気配が、薄い」
その意味を訊き返す前に、井戸端のおばさんがひとり、こちらに気づいた顔をした。怯えたというのとは違う。なんだか、思い出すのに時間がかかったというような、ゆっくりした目だった。
「……旅のひと?」
「あ、はい。一晩、泊めてもらえる場所、ありませんか」
「宿はないよ。けど空き家ならある。村の外れの納屋の隣の」
おばさんはそう言ってから、ぽつりと続けた。
「気をつけて。昔から、ここは変わった土地でね……気が遠くなるような場所がある」
わたしが意味を訊き返そうとした、ちょうどそのとき。村のずっと奥のほうから、悲鳴が上がった。
女のひとの悲鳴だった。
「うちの子が——うちの子がいない! 消えたんだよ、ほんの目を離した隙にっ」
悲鳴は井戸端まで届いていた。届いていたのに、おばさんはほんのすこし眉をひそめただけで、また桶の縁に目を落とした。誰も走り出さない。誰もそちらを見ない。
シズが井戸端から離れて、声のしたほうへ歩き出した。わたしも慌ててついていく。
悲鳴のもとには、ひとりの女のひとがいた。地面に膝をついて、自分の襟元をぎゅっと掴んでいる。土埃で汚れた前掛けに、握ったままの干し草が一本ぶら下がっていた。
「お子さんはどこで?」
シズがフードを目深にしたまま訊いた。低い、おさえた声だった。
「家の前の井戸のとこで……ほんの一瞬、目を離しただけで、それで——」
「最後に、なにを見ましたか」
「なにも……なにも見てない。ただ、ふっといなくなって。ほんとにふっと——神隠しみたいに、消えちまった」
女のひとは地面に手をつき、また掠れた悲鳴のような声を上げた。シズはその家の前まで歩いて、井戸の脇にしゃがみこんだ。
わたしも隣に屈む。
井戸のまわりの土は、踏み均された地面のはずなのに、よく見ると半円のうっすらした跡がいくつも残っていた。同じ大きさの、同じ深さの円。誰かがそこに何かを置いて、そっと運び去ったような跡。
「シズ、これ……」
「ああ。これは神隠しじゃない」
シズの声がふだんよりずっと低かった。
シズは井戸のへりに手のひらを置いて、すこしのあいだ目を閉じた。それから、低くひとりごとのようにつぶやいた。
「……ここは、なにか、ある」
わたしは訊き返さなかった。シズの横顔がこちらを見るなと言っていた。
シズの鼻がすうっと夜気を吸う。耳が外套の下でわずかにぴくりと動いた。
「匂いがある。三人ぶん。子供と、おとなふたり」
「追える?」
「追える。だが——」
シズがはじめてわたしのほうを向いた。
「危険だ。おまえはここで待っていい」
「やだ」
即答してしまった。シズがすこし目を細める。
「……足手まといにはなるなよ」
「ならない。ぜったいならないから」
シズはなにも言わずに井戸の脇を立ち、半円の跡が示すほうへ歩き出した。
集落のなかから外れへ。母親の悲鳴はまだ遠くから聞こえていた。だけど、それを止めに行く村人はいない。
わたしたちは薄暗い細い道を歩いた。家と家のあいだの、人ひとり通るのがやっとの道。匂いはどんどん街道から離れて、村の外れの倉庫が並ぶ通りへと続いていく。
道のわきの家から、ちらりと窓の灯が見えた。窓の内側で桶を抱えた主婦がこちらをちらと見て、すぐに目をそらした。なにかを察したような、けれどなかったことにしたいという目だった。
わたしの足音が、自分でも嫌になるほど響いた。
空はもうほとんど暗い。星がふたつみっつ出はじめている。シズはいちども振り返らずに、ただまっすぐ匂いを追っていった。
路地の角を曲がると、急に視界がひらけた。
倉庫の裏手の空き地だった。低い物干しと積み上げられた薪と、薄暗がりのなかに、ひとつ、明かりのない裏戸が口を開けていた。
その裏戸の前に、ふたり、人影があった。
男だ。覆面で口元を覆って、革の手袋をはめている。ふたりとも無駄のない動きで、足元の小さな塊を麻袋に詰めていた。
塊の片端から、子供の細い足が見えていた。
シズが片手でわたしの口を押さえた。
声が出かけたのを、ぎりぎりで止められた。
シズがわたしの耳元で、息だけの声で言った。
「動くな」
男たちは麻袋の口をきゅっと締めた。それから小さな塊の関節を、ぐっと内側へ折りたたんだ。なれた手つきだった。子供の腕を、痛がる手前まで折りたたんで、暴れさせないように固める手つき。兵としての訓練された動きだった。
ひとりがもうひとりに、舌打ちで合図をした。声は出さない。目線で運ぶ方角を示した。
もうひとりが低く、ひとことだけ言った。
「……この土地は、上の方々のお気に入りでなあ」
その声は笑ってはいなかった。むしろ退屈そうですらあった。
シズがわたしの背を軽く押した。後ろの薪の陰へ。それから自分の腰の短刀の柄に、すうっと手をかけた。
わたしは薪の陰から首だけ出した。
遠くの井戸端の方向。離れた塀のうえに、老女がひとりこちらをじっと見ているのが見えた気がした。月明かりの薄い夕方の暗さで、はっきりとは見えない。ただ立っているという、それだけだった。
声が出てしまった。わたしの口からではない。喉から。
「離してください」
男たちがぴたりと止まった。
覆面の上の目がこちらを見た。
ふたつ。退屈そうな目だった。ぞっとするほど、なんでもない目だった。
「離してください。その子を置いて、立ち去ってください」
わたしの声は震えていた。震えていたけれど、止まらなかった。
男のひとりがふっと笑った気配だけがあった。それからもうひとりに、目で合図をした。
次の瞬間、男のひとりがわたしのほうへ、すっと足を踏み出した。
短い刀が抜かれていた。月明かりに刃の腹が白く光った。
その刃がわたしの肩へ振り下ろされる、と、わたしの目がはっきり見た——
その瞬間。
世界の音がすうっと遠くなった。
あの夜の谷の上の音と同じだった。
刃が空中で、ほんの一拍、ためらった。
ほんとうにほんの一拍。瞬きよりずっと短い。なのに、その一拍のあいだに、薪の陰から黒い影がするりと出た。シズだ。
時間が元に戻った。
夜気がざあっと耳に戻ってきたとき、男の刀はシズの短刀に下から弾き上げられていた。男の喉元を、シズの拳の腹が下から短く突き上げた。声を出す間もなく、男はその場に膝を折った。
もうひとりが麻袋を地面に置いて、こちらへ向き直った。革手袋が腰の短刀の柄に伸びる。
無言だった。
怒鳴り声も捨て台詞もなかった。ただ刃と刃がぶつかる音だけが、薄暗がりに二度響いた。
シズが男の懐に踏み込んで、肘を相手のあごの下に当てた。男の体が後ろの薪に背中から倒れた。薪ががらりと崩れた音だけが、やけに大きく聞こえた。
そこまで、たぶん、十数えるよりも短かった。
シズが麻袋に屈んで、結び目を解いた。なかから小さな男の子が出てきた。目は開いていたけれど、焦点が合っていなかった。シズがそっと子供の頬に手を当てた。
「無事だ」
わたしはようやく息を吐いた。
倒れていた男のうち、ひとりがふっと身を起こした。喉を突かれたほうの男だった。覆面の下から、押し殺した声が漏れた。
「……ちっ、獣人か。獣人が、なぜ——」
そのとき、シズのフードが、薪の崩れた拍子にずれていた。長い、黒い、耳がほんのすこし出ていた。
男はそれを見るなり、もうひとりの体をずるずると引きずって、薄暗がりの先へ後退りはじめた。
シズは追わなかった。
シズが追わなかったのは、男たちが懐からぱさりと、なにかを地面に落としたからだ。落としたまま、男たちは闇のなかへ消えていった。森のほうへ向かう細い道へ。
夜気のなかに足音だけがしばらく残った。それから、それも消えた。
シズが地面に屈んだ。
落ちていたのは、二枚。
一枚は折りたたまれた書類だった。広げると地名と日付の表が並んでいた。月明かりすら入らない薄暗がりでは字は読みにくかったけれど、いちばん上の行に「黒い荷馬車」という文字だけが、はっきり書いてあった。
もう一枚は紙の切れ端だった。折り目が薄く一本だけ走っている。誰かが誰かに渡そうとしたものらしかった。
わたしもシズの肩越しに、その切れ端を覗いた。
女の筆跡だった。
「——次の運搬の手配、頼みます。あの方のお言葉です」
それだけ。
名前はなかった。
シズの指が切れ端の端を、すっと撫でた。
わたしにはシズの顔は見えなかった。フードの下に隠れていたから。だけどシズの指の関節がほんのすこし白くなっていた。
わたしにしか見えない場所で、シズの手のひらが、ほんの、わずかに、震えていた。
シズは書類と切れ端を外套の内側にしまった。それから立ち上がって、麻袋から出した男の子を抱え直した。
「行くぞ。母親のところへ返す」
「うん」
わたしたちは来た道を戻った。
倉庫の通りから家と家のあいだの細い道へ出ると、村のなかはもうすっかり夜になっていた。
わたしたちが男の子を抱えて村のなかへ戻ったとき、井戸端に集まっていた村人たちが、ぴたりと話をやめた。
誰もなにも言わなかった。
お礼も安堵もなかった。ただ視線が、シズの外套の下に隠れた耳のあたりへ、ちらりと落ちて、すぐにそらされた。
母親だけがわたしたちのほうへ、よろよろと駆け寄ってきた。子供を渡すと母親は地面に膝をつき、息のあいだにぽろぽろと涙をこぼした。礼の言葉を、半分くらい声にして、半分は声にならなかった。
村人たちはそれを、ただ見ていた。
誰も近づいてこなかった。
シズはなにも言わなかった。背を向けて、井戸端のいちばん奥にいた、しわの深い老婆のほうへまっすぐ歩いていった。
老婆はシズが近づいても目をそらさなかった。井戸端のほかの村人のような、ゆっくりした目ではなかった。じいっとシズを見ていた。
「……宿は、ないと聞いた」
シズが低く言った。
「ああ。けどパンならある。焼いたばかりの。ふたつ持っていきな」
老婆はふところから、布に包んだ黒いパンをふたつ取り出した。それをシズの手のひらに、ぽとりと落とした。それから、しゃがれた声でぼそりと付け足した。
「あんたら、外から来た子だろう。よかったら村の外れの、川のそばで休みな。あすこなら誰も来ない」
「……すまない」
「いいんだよ。あの子を返してくれた礼だ」
老婆はそれだけ言うと、自分の家の戸を静かに閉めた。
わたしとシズは村の外れの、川のそばまで歩いた。
川は月のない夜のなかで、低く、ずっと低く流れていた。岸辺の岩に腰をおろすと、シズが黒いパンをひとつ、わたしに渡してくれた。
わたしはちぎって口に入れた。すこし酸っぱくて、噛むほど奥に甘さが残った。
シズも隣で、ゆっくり噛んでいた。
わたしはシズの横顔を見ないようにしながら訊いた。
「シズ」
「うん」
「あの男のひとたち、子供のこと、なんとも思ってなかった、ね」
「ああ。あれは慣れた手だった。あれだけ慣れるということは——」
シズはそこで、いちど言葉を切った。
川のせせらぎだけがしばらく聞こえていた。
「……ああいうことを、何回もしている」
わたしの心臓が内側からつままれたみたいに、痛くなった。
「ゆるさない」
言葉が口からぽろっと出た。
「ゆるさない、よ。ぜったいに」
シズはわたしのほうを見なかった。川の流れだけを見ていた。
シズの口がゆっくりひらいた。
「……ルナも」
シズの声は、わたしが今まで聞いたシズの声のなかで、いちばん低かった。
「ルナも、こうやって——攫われたのか」
わたしはなにも言えなかった。
パンのかけらが、わたしの指のあいだで、ぱらりと落ちた。
シズの目は川の水面を見ていた。けれど見ていたのはたぶん、そこではなかった。もっとずっと遠くの、いまはもうない、誰かの背中だった。
わたしはシズの肩のすぐ横に、自分の肩を、ことん、と置いた。それだけした。
シズはなにも言わなかった。だけどわたしの肩を押し返しもしなかった。
しばらくわたしたちは、そのまま川を見ていた。
月は出ていなかった。それでも星がふたつみっつ、川面に揺れていた。
シズがふっと立ち上がった。
「今夜、動く」
「うん」
「あの書類の地名をたどる。匂いを覚えた。森を抜けて、奥へ」
「うん」
わたしも立ち上がった。
シズは岸辺の岩の上で、自分の手のひらを、もう一度じっと見ていた。あの夜と、おなじ手のひらだった。あの矢が空中でためらった、あの夜の手のひら。
まだなにも言わない。
だけどわたしにはわかった。シズは自分の中の「なにか」を、いつか自分の意志で引き出そうとしている。あの夜のように偶然じゃなく、自分で選んで。
星が川面で揺れた。
わたしたちは夜の街道へ歩き出した。
集落の灯は後ろで、もう見えなくなっていた。
(つづく)




