第4話 幕間「シズ」
わたしの髪は、黒い。
一族の、誰とも違う色。雪原の群れに、ひとりだけ落ちた、影のような色。
物心ついたときから、わたしは、その意味を知らない。
誰も、わたしをいじめなかった。石を投げられたことも、罵られたことも、ない。父は統領で、わたしは、その娘だから。
ただ——目が、逸れるのだ。
わたしが井戸端に立つと、笑い声が、すこしだけ低くなる。輪のなかに入ると、輪が、すこしだけ広がる。誰の悪意でもない。たぶん、本人たちも気づいていない。それくらい、かすかな距離。
かすかだから、訴えようがない。訴えようがないから、ずっと、ひとりだった。
父は、わたしに甘い。武術も、狩りも、読み書きも、なんでも与えてくれた。だが、わたしの髪のことを訊くと、父は、黙る。岩のように、黙る。
母のことは、ひとつしか知らない。
わたしが三つのとき、掟を破った罪で、処刑された。それだけだ。何の掟を、なぜ破ったのか。誰も教えてくれない。訊いてはいけないのだと、幼いわたしは、早々に学んだ。
母の顔は、覚えていない。
ただ、ときどき、夢をみる。低くて、やわらかい、歌。言葉は聞き取れない。目が覚めると消えている。残るのは、胸の奥の、なつかしいような、ひりつくような、へんな痛みだけだ。
……ルナだけが、違った。
「シズの髪、夜みたいできれいじゃん。あたし、夜、好きなんだよね」
あいつは、出会った最初の日に、そう言って笑った。それから十年、あいつだけが、わたしとのあいだに距離を作らなかった。わたしが黙っていても勝手に喋り、わたしが断っても勝手に隣に座った。
うっとうしい、と何度も言った。
いなくなって、わかった。あれは、わたしの世界の半分だった。
——あの夜、わたしは見ていたのだ。
月のない夜。谷向こうの斜面。ルナの悲鳴。駆けつけたわたしの目に映ったのは、ルナを担いで闇に消える、細い人影。
人間族の、女。それしか、わからなかった。
わたしは、人間族を、ほとんど見たことがない。父は、わたしを囲いの内で育てた。過保護なほどに。だから、人間の顔の見分けがつかない。髪の色さえ、闇に溶けて、わからなかった。
追った。追いつけなかった。風のように、消えた。
「人間族の、女でした」
父にそう告げたときの、自分の声を、何度も思い出す。あんな曖昧な言葉ひとつで、軍が動いた。一族の憎しみに、火がついた。
守れなかった。そのうえ、わたしの言葉が、刃の向かう先を決めてしまった。
だから、わたしは、ひとりで探すと決めた。父には言わずに。囲いを、初めて、自分の意志で越えた。
——そして三日後、あの戦場を見た。
風の刃の檻のなかに、青い髪の少女が、膝をついていた。
体じゅう、礫に裂かれて。治っては、裂かれて。それでも、誰ひとり殺さずに。倒した戦士には、とどめも刺さずに。
風が、匂いを運んできた。
——違う。
あの夜の女の匂いと、違う。わたしたちの鼻は、ごまかせない。
この子は、犯人じゃない。
なのに、父の風は止まらない。わたしが今、飛び出して叫んでも、誰が信じる。証拠は、わたしの鼻だけ。憎しみに火のついた軍の前で、それは、あまりに細い糸だ。
迷った。迷っているあいだにも、あの子は、削られていく。
ルナを守れなかった、この手で。今度も、ただ見ているのか。
——そのとき、白うさぎが走った。
あとのことは、よく覚えていない。父がのけぞり、風がほどけた、その一瞬。気づけばわたしは、戦場のまんなかで、あの子を抱き上げて、駆けていた。
考えるより先に、体が動いていた。それだけだ。
森の奥で、あの白うさぎが、待っていた。
木の根方に横たわった小さな体は、もう、半分透けていた。なのに、その声は、不思議なほど静かで、あたたかかった。
『……ありがとう。心優しき、白狼の娘』
「おまえは——何者だ」
『わたくしは、月の女神。セレネと、申します』
月の、女神。
御伽噺のなかの存在が、白うさぎの姿で、目の前で消えかけている。笑う気にも、疑う気にも、なれなかった。その声には、嘘の入りこむ隙間がなかった。
『その子は……ハルカ。遠い、遠い、別の世界から来た子です』
女神は、途切れ途切れに、語った。
あの子が、生まれた世界で、生まれてからずっと、寝台の上にいたこと。歩くことも、走ることも、外で遊ぶことも、ひとつも叶わないまま——幼くして、命を落としたこと。
『あの子は、願ったのです。元気な体で……思いきり、動き回りたいと。……わたくしは、その願いを、どうしても、叶えたかった』
「……それで、転生を」
『ですが……転生の最中に、重大な障りが、起きました。……そのせいで、あの子は記憶を失い……あろうことか、降り立つ場所まで、こんなにも危険な地に……。わたくしの、罪です』
障り。それが何なのか、女神は言わなかった。言えない、というふうに、見えた。
『どうか……ハルカを、守ってください』
「わたしは、一族を裏切った身だ。守れる保証など——」
『あなたは、迷いながら、それでも飛び出した。……それが、できる人は、とても、すくないのです』
……ずるい、と思った。そんなふうに言われたら、断れない。
『ふたつ、お願いが、あります。……ハルカに、前の世界の記憶のことは、伝えないでください。寝たきりだった日々のことも、幼くして亡くなったことも。……あまりに、つらい真実だから。あの子には、この世界を、ただ明るく走っていてほしいのです』
「……わかった」
『もうひとつ。……どうか、あの子と、ともに旅をしてください。そして——』
女神の輪郭が、月光の粒になって、ほどけはじめた。
『最後の力を、あなたに、託します』
光が、流れこんできた。
冷たくて、静かで、月の夜みたいな力が、胸の奥に、すうっと満ちた。——その瞬間、世界が、わずかに、ゆっくりになった気がした。梢から舞い落ちる木の葉が、空中で、ほんの一拍、ためらうように止まって見えた。
……気のせい、だろうか。
『いつか、あなたが、ほんとうに守りたいものの前に立つとき……その力の、ほんとうの意味が、わかります』
「待て。意味とは——」
『ああ……それと……』
女神は、最後に、ふ、と笑った気配がした。そして、消えゆく声で、こう言ったのだ。
『あなたの髪……その、美しい黒に……いつか——』
——いつか。なに。
言葉は、月光の粒といっしょに、夜にほどけて、消えた。
あとには、静かな森と、腕のなかの寝顔だけが、残った。
*
焚き火の向こうで、ハルカが眠っている。
二日眠りつづけて、うなされて、それでも、ときどき、ふにゃりと笑う。へんなやつだ。記憶もないくせに。指名手配されているくせに。わたしの一族に殺されかけたくせに——わたしに、ありがとうと言って、泣いた。
……あの距離のない感じは、すこし、ルナに似ている。
わたしは、自分の髪をひと房、指にすくった。焚き火のあかりに透かしても、黒は、黒のままだ。
あなたの髪に、いつか。
女神は、何を言いかけたのだろう。この黒い髪に、いつか、何かが宿るとでも、いうのだろうか。……根拠もないのに、なぜだか、そんな気がした。胸の奥で、あの夢の歌が、ひとふし、遠く鳴った気がした。
わからないことだらけだ。だが、決めたことが、ふたつある。
ルナは、取り戻す。
ハルカは、死なせない。
ふたつとも、だ。どちらも、あきらめない。
夜が明けたら、出発だ。……それにしても、あいつ、よく食べて、よく眠る。明日からの食料の心配を、わたしはすこしだけ、本気で、はじめている。
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次回更新は6/16(月)21時頃を予定しています。




