第3話 「指名手配と旅立ち」
ぱち、ぱち、と火の爆ぜる音がする。
重たいまぶたを持ち上げると、知らない天井——じゃなくて、岩。どうやら、洞窟の中みたいだ。
そして、焚き火の向こうに、まっくろな髪の女の子が、ひとり、座っていた。
長い、長い黒髪。焚き火のあかりに照らされて、夜そのものを束ねたみたいに艶やかに光ってる。頭の上には、白い戦士たちと同じ、ぴんと立った獣の耳。ただし、その耳の毛も、ふちだけ黒い。腰には、ゆるく反った細身の剣。見たことのない仕立ての、黒い帯でとめた服。
きれいなひとだ、と、ぼんやりした頭で思った。きれいで——どこか、ひとりぼっちの色をしてる。
「……起きたか」
女の子が、ちらりとこっちを見た。
「は、はいっ」
跳ね起きようとして、体がぎしっと軋んだ。痛みは、ない。見れば、あれだけ礫に刻まれた腕も足も、傷ひとつなく治ってる。ただ、体の芯が、鉛みたいに重い。胸の奥の灯も、まだ、とろとろと小さい。治るのと引きかえに、なにかを、たくさん使っちゃったみたいな感じ。
「二日、眠っていた」
「ふつか!?」
「傷は治っていた。おまえの体が、勝手に治した。……だが、ずっとうなされていた」
女の子は、それだけ言うと、焚き火に枝を足した。それから、串に刺して炙ってあった肉を、ぶっきらぼうに、ずいっと差し出してきた。
「食え」
「え……いいの?」
「死なれると、困る」
受け取って、ひとくち。……おいしい。おいしいって思ったとたん、お腹がぐうううっと盛大に鳴って、わたしはもう、夢中でかぶりついた。食べるほどに、胸の奥の灯が、すこしずつ、ふくらんでいく気がした。
女の子は、なにも言わずに、わたしが食べ終わるのを待っていた。
「あの……助けてくれたの、あなた、だよね。あのとき、黒い髪が見えた」
「…………」
「ありがとう。あなたがいなかったら、わたし、死んでた」
まっすぐ言ったら、女の子は、なぜか、ちょっと困ったみたいに目をそらした。
「……礼は、いらない。ハルカ」
「っ!? な、なんで名前——」
「神さまから、聞いた」
「か……かみさま?」
「おまえを助けに来て、力尽きた、小さな神さまだ」
女の子は、焚き火を見つめたまま、ぽつり、ぽつりと話してくれた。
あの大きな白うさぎは、ほんとうは女神さまだったこと。わたしを、どこか遠い世界から、この世界へ連れてきてくれたのが、その女神さまだったこと。危ないところを助けるために、あの姿で飛び出してきてくれたこと。蹴り飛ばされて、もう力が残っていなかったこと。最後の力で、この子に頼みごとをして、姿を消したこと。
「『ハルカを、守ってほしい』。……そう、頼まれた」
「わたしを……」
じゃあ、あのとき呼んだ声は、届いてたんだ。
……そっか。やっぱり、夢じゃなかったんだ。
あの戦いのなかで、いやってほど思い知ったもん。痛くて、こわくて、ぜんぶ本物だった。
わたしは、ほんとうに、別の世界から、ここへ来たんだ。
名前も知らない女神さま。会ったのは、たぶん、あの白うさぎの姿の一瞬だけ。なのに、目の奥がじわっと熱くなった。わたし、この世界に、ちゃんと「連れてきてもらった」んだ。ひとりぼっちで、ぽんと放り出されたわけじゃ、なかったんだ。
「……そっか。そっかぁ……」
ぐすっと洟をすすったら、女の子が、ぎょっとしたように半分だけこっちを向いた。
「な、なぜ泣く」
「だって、うれしくて」
「意味がわからん」
「あはは……ごめん。——ねえ、あなたの名前は?」
女の子は、一瞬ためらってから、言った。
「シズ」
「シズちゃん」
「……『ちゃん』は、つけるな」
「シズ。あなた、あの白い狼さんたちの仲間、なんだよね? ガロウさんの……」
「——娘だ」
えっ、と固まった。むすめ。娘って言った? あの、山みたいな統領さんの?
「正確には、拾われた娘だと、言われている。一族で黒い髪は、わたしひとりだ」
シズの声は、平坦だった。平坦すぎて、そのぶんだけ、なにかを押し殺してるのがわかった。
「父は、おまえを『ルナをさらった犯人』だと思っている。——ルナがさらわれるところを、見たのは、わたしだ」
「えっ……」
「あの夜、悲鳴を聞いて、駆けつけた。ルナを担いで、闇に消えていく人影が見えた。暗くて、遠くて、顔も、髪の色も、わからなかった。わかったのは、『人間族の女』ということだけ。……追った。追いつけなかった。目の前で、さらわれたのに」
焚き火が、ぱち、と爆ぜた。シズの声は、平坦なままだった。平坦なまま、膝の上の拳だけが、白くなっていた。
「わたしは、それを、父に伝えた。わたしの言葉ひとつで、軍が動いた。一族の憎しみに、火がついた。——そして、無関係のおまえが追われた」
シズは、そこで初めて、わたしの目をまっすぐに見た。
「ぜんぶ、わたしの、せいだ。だから、父には言わずに、ひとりで探しに出た。囲いの外へ出たのは、生まれて初めてだった」
「シズのせいじゃないよ。見たままを言っただけでしょ?」
「だが」
「それに、わたしが犯人じゃないって、シズはわかってくれたんだよね。だから助けてくれたんでしょ? ……暗くて、顔もわからなかったのに、どうして?」
「…………匂いだ」
「におい?」
「わたしたちの鼻は、ごまかせない。あの夜の女の匂いは——この鼻が、覚えている。忘れるものか。おまえの匂いは、違った。……それに」
シズは、すこしだけ言いよどんで、続けた。
「おまえは、誰も殺していなかった。あれだけやられて、誰ひとり。……犯人なら、ああはならない」
見てて、くれたんだ。あの嵐みたいな戦いのなかで、ちゃんと。
「——だが、まずいことになった」
シズの耳が、ぴくりと動いた。
「わたしが黙って消えたせいで、一族は『人間族の女が、ルナに続いてシズもさらった』と思っているはずだ。今ごろ、おまえは——二人さらいの大罪人だ」
「ええええっ!? さ、さらわれてないよ!? むしろ助けられたほうだよ!?」
「わたしとおまえが、ふたりで歩いているのを見られれば、問答無用で殺される。人間族は今、わたしたちの一族にとって、ただの敵だからだ。……ここは、もう、白狼族の領域の奥深くだ。出る。夜明けと同時に」
そのときだった。シズの耳が、ぴんっと立った。
「——伏せろ」
囁くより早く、シズはわたしを岩陰に押しこんで、焚き火に砂をかけた。暗闇。息の音さえ大きく聞こえる。
やがて、わたしの耳にも届いた。岩を踏む、複数の足音。洞窟の外、すぐそこ。
「……このあたりの匂いが濃い。手分けして探せ」
若い男のひとの声。シズの一族の、斥候だ。
隣で、シズが、すうっと刀の柄に手をかけた。月明かりに、抜き身の覚悟が見えた。やる気だ。見つかる前に、先に。
わたしは——考えるより先に、その手を、両手でぎゅっと包んでいた。
シズが、目を見開いて、わたしを見る。
(だめ)
声は出さずに、口だけ動かした。
(だって、シズの、家族でしょ)
シズの目が、大きく揺れた。刀の柄にかかった指から、ゆっくり、力が抜けていく。
わたしたちは、岩陰で、息を殺して、ただ抱きあうみたいに縮こまった。足音は、近づいて、遠ざかって、また近づいて——やがて、ほんとうに、消えた。
長い長い沈黙のあと、シズが、ぽつりと言った。
「……なぜ、止めた」
「んー……うまく言えないけど」
わたしは、暗闇のなかで、正直に答えた。
「シズがあの人たちを斬ったら、シズが、いちばん痛い顔をすると思ったから」
「…………」
シズは、なにも言わなかった。ただ、暗くてよく見えなかったけど——その尻尾が、所在なさげに、ぱた、ぱた、と二回だけ揺れた気がした。
夜明け前に、わたしたちは洞窟を出た。
尾根をいくつも越えて、太陽が高くなるころ、シズは足を止めた。振り返ると、歩いてきた森が、海みたいに広がっていた。あの森のどこかに、シズの家があって、お父さんがいて、仲間がいる。
「ねえ、シズ。ほんとに、いいの? 戻って、ぜんぶ説明すれば……」
「——証拠がない」
シズは、森を見つめたまま言った。
「今戻って、『この人間は犯人と違う』と言っても、誰も信じない。証拠は、わたしの鼻だけだ。憎しみに火のついた一族の前で、それは、あまりに細い糸だ。父も、聞かない。わたしはおまえを庇った裏切り者として裁かれて、おまえは殺される。それだけだ」
「…………」
「戻るなら、証拠がいる。本物の犯人を、捕まえるしかない」
そう言ったシズの横顔は、刃物みたいに凛としてて——でも、その尻尾は、力なく垂れてた。ほんとうは帰りたいんだ。当たり前だ。家族なんだから。わたしのせい、じゃないとしても、わたしと一緒にいるせいで、この子は帰れない。
だから、わたしは決めた。
「シズ! ルナちゃんって子、わたしもいっしょに探す!」
「……は?」
「ほんとの犯人を捕まえて、ルナちゃんを助けて、シズの濡れ衣も、わたしの濡れ衣も、ぜーんぶまとめて晴らす! そしたらシズは家に帰れるし、わたしは……えへへ、わたしも、この世界をいっぱい走り回れる! 決定!」
シズは、ぽかんと、わたしを見ていた。
「……おまえは、自分の立場をわかっているのか。指名手配だぞ」
「わかってない! 記憶もない! でも、足の速さには自信があります!」
「…………っ」
シズが、ふいっと前を向いた。一瞬、口元がゆるんだのを、わたしは見逃さなかった。そして尻尾が、今度こそはっきり、ぶんっと一回、大きく揺れたのも。
「……勝手にしろ」
「うんっ! 勝手にする!」
わたしたちは、歩き出した。
——ただ、ひとつだけ、気がかりなことがあった。昨日の夜、シズが地図代わりの板きれを見ながら、こう言ったのだ。
『ルナの前にも、消えた者がいる。隣の谷の集落で、ふたり。人間の村でも、姿を消した者が出ていると聞いた。……人間も、獣人も、両方だ』
人間の女の人さらい、なんかじゃ、ないのかもしれない。もっと別の、もっと大きな、なにかの影。
その正体を、このときのわたしたちは、まだ、なんにも知らなかった。
知らないまま——わたしと黒狼姫の、長い長い旅が、はじまった。




