第2話 「白狼族との遭遇とクライマックス」
目がさめたら、まだ、森だった。
……あ。覚めて、ない。
覚めてないんだ、この夢。やった。やったぁ! ゆうべのわたし、ちょっと心配して損したね。なんて、おとくな夢なんだろう。
ふふん、と鼻歌まじりにのびをしかけた、そのとき——気づいた。
地面が、かすかに震えている。
どっ、どっ、どっ——遠くのほうから、たくさんの足音が、ぴったり揃って近づいてくる。
昨日の獣……じゃない。これはたぶん、もっとずっと、まずいやつだ。
木の根のベッドから跳ね起きて、わたしは、固まった。
朝霧の向こう。木々のあいだに、白いものが、いくつも、いくつも見えた。
ひと——に、見える。けど、ちがう。頭の上に、ぴんと立った獣の耳。腰の後ろで揺れる、ふさふさの尻尾。みんな雪みたいに白い髪をしていて、革と金属の鎧をまとって、手に手に槍や剣を握ってる。
その数、見えるだけで、何十。
狼の、獣人さんたち……?
見とれている場合じゃなかった。先頭のひとりがこっちを指さして、鋭く吠えた。
「いたぞ! 斥候の報告どおりだ——人間族の女だ!」
えっ。わたし!?
あっという間だった。白い戦士たちが扇みたいに広がって、逃げ道を順番にふさいでいく。動きに無駄がなくて、声ひとつで全員が連動する。最初から、わたしがここにいるって、わかってたみたいに。これ、ほんものの軍隊だ。
そして、隊列がふたつに割れて——そのひとが、出てきた。
大きい。他の戦士より、頭ひとつぶん大きい。灰色の長い髪。右目には古い傷がひと筋走っていて、閉じたまま。残った左目だけで、岩でも射抜けそうだった。
そのひとが口を開くと、朝の空気が、びりっと震えた。
「人間族の女。貴様に問う」
低い、低い声。
「三日前の夜、我が森から、娘をさらったな。——どこへ、やった」
「……え? さらっ……?」
さらったって、なに? ひとさらいの、こと? わたしが?
「この数月、森のあちこちで、人の子も、獣人の子も、消えている。そして三日前——ついに、我が一族の娘が、消えた」
ひとつひとつの言葉が、石みたいに重い。
「名は、ルナ」
そこで、ほんのすこしだけ、声が変わった。岩みたいな声の、いちばん奥が、震えたみたいだった。
「……我が娘の、ただひとりの友だ」
「る、ルナ、ちゃん……?」
「目撃した者がいる。連れ去ったのは——人間族の、女だと」
ざわり、と。戦士たちの殺気が、いっせいにふくらんだ。何十もの視線が、ぜんぶ、わたしに突き刺さる。
「ま、待って! わたしじゃないよ!」
必死で首を振った。
「わたし、昨日この森で目が覚めたばっかりで、ルナって子のことも知らなくて、ええと、そもそも自分のこともよくわかってなくて……!」
「ならば問う。名は。生まれは。この森に、何の用だ」
「な、名前は遥香! 生まれは……えっと……わかんない、けど……」
……うん。自分で言ってて、わかる。怪しさ満点だ。
隻眼のひとは、長いあいだ、黙ってわたしを見ていた。それから、静かに——ほんとうに静かに、言った。
「連れていけ。話は、ゆっくり聞き出す」
その「ゆっくり」の冷たさに、背すじが凍った。
……あれ? 夢なのに。夢のなかなのに、どうして、こんなに、いやな汗が出るんだろう。
わたしの足は、考えるより先に、地面を蹴っていた。
包囲のいちばん薄いところへ、まっすぐ。驚いた戦士の槍の下をくぐって、かがんだ背中を踏み台に、ジャンプ——抜けた!
「逃すな!」
逃げる、逃げる、逃げる! 森の中を全速力。昨日あんなに楽しかった「走る」が、今日は命がけだった。
だいじょうぶ。どうせ夢だし。捕まったって、夢だし!
……夢の、はずなのに。心臓のばくばくが、ちっとも「夢」って言ってくれない。
でも——相手は、森の狩人だった。
右から白い影。かわす。左から槍の穂先。かがむ。回りこまれて、前にふたり。もう、ぶつかるしかない!
「ごめんなさいっ!」
すれちがいざまに、ひとりの腕をとって投げた。自分でもびっくりするくらい、きれいに投げ飛ばせた。もうひとりの剣を——怖かったけど——手の甲で払って、お腹に掌底。戦士は吹っ飛んで、木の幹にぶつかって、ずるずると崩れた。
倒したくないのに。こんな、ひとの顔をしたひとたちと、戦いたくなんか、ないのに。たとえ夢でも、だれかを傷つけるのは、やなのに。でも捕まったら、たぶん、すごくまずい。
どのくらい、そうしていただろう。
気がつけば、わたしのまわりには、うずくまる戦士が何人も転がっていて——そして、わたしも、無事じゃなかった。
肩。脇腹。太もも。かすり傷と切り傷だらけ。なのに。
「……傷が」
だれかが、かすれた声でつぶやいた。
「傷が、ふさがっていく……!」
ほんとうだった。脇腹の切り傷が、見ているそばから閉じていく。胸の奥の、あのあったかい灯が、傷のひとつひとつへ流れていくのが、自分でもわかった。
「化け物か……」
戦士たちが、じり、と半歩下がる。
ちがう。化け物じゃない。わたしはただ——そう言いかけた、そのとき。
「下がれ」
あの低い声が、戦場を、まっぷたつに割った。
戦士たちが波みたいに引いていく。そのまんなかを、隻眼のひとが、ゆっくりと歩み出てきた。
「名乗っておこう。俺はガロウ。白狼族が統領、ガロウ・ザンだ」
統領。つまり、いちばん偉いひと。いちばん偉いひとが、自分で出てくるくらい——ルナって子は、大切にされてるんだ。
「貴様がルナの居場所を吐かぬのなら」
ガロウさんは、左目でわたしをまっすぐに射抜いた。
「力ずくで、吐かせるまでだ」
右手が、すっと天にかざされた。
——風が、変わった。
ごう、と音を立てて、ガロウさんの頭上で風が渦を巻きはじめる。渦はみるみる育って、ねじれて、太く立ち上がって——竜巻に、なった。まわりの木々がしなる。ちぎれた葉っぱが、らせんを描いて呑まれていく。
「——螺旋風刃」
竜巻が、わたしめがけて、倒れてきた。
「きゃあああっ!?」
とっさに両腕で顔をかばう。風の壁に呑みこまれて、体が浮きそうになる。痛い——けど、耐えられる。風だけなら、傷も浅い。足を踏んばって、歯を食いしばって、耐える。耐えられる!
そうだよ。夢だもん。夢のなかのわたしは、つよくて、すぐ治って、無敵なんだから!
「ほう」
風の唸りの向こうで、ガロウさんの声がした。
「竜巻に呑まれて、なお立つか」
ちょっとだけ、感心したみたいな声。でも、次のひとことは、氷みたいに冷たかった。
「ならば——これで、どうだ」
ガロウさんが、左手で、足元の地面を撫でるように払った。
小石が。何百、何千の小石が、ふわりと浮き上がって、竜巻に吸いこまれていった。
風の壁が、一瞬で、刃の嵐に変わった。
「っ——あ」
最初のひと粒は、頬だった。次は肩。腕。背中。膝。
小石が、礫が、風の速さで、体じゅうに叩きつけられる。ひとつひとつは、小さな傷。でも、止まらない。同時に、何十も。何百も。
「あ、ぐ……っ、う……!」
胸の奥の灯が、かっと熱くなった。治そうと、してくれてる。頬へ、肩へ、背中へ、いっぺんに流れようとして——足りない。ぜんぜん、追いつかない。治りかけた傷の上に、新しい傷が重なっていく。
痛い。痛い、痛い、痛い。
……あれ? へんだ。
夢なのに。夢のなかなのに。どうして、こんなに、痛いの。
いつもなら、すぐ治るのに。すぐ、痛くなくなるのに。
治らない。追いつかない。痛みが、消えて、くれない。
夢のなかなら、痛くないし、すぐ治るんじゃ、なかったの——?
膝が、落ちた。嵐の中で、もう、立っていられない。
(治って……おねがい、はやく、治ってよ……!)
灯は、まだ燃えてる。でも、さっきまでの「あったかい」じゃない。ろうそくの最後の火みたいに、ちら、ちら、と揺れてる。
指の先が、つめたい。感覚が、とおい。
自分の体のことなのに、あとどれだけ持つのか、わたしには、わからなかった。
風の向こうから、声が降ってくる。
「ルナは、どこだ」
「し……らない……ほんとうに……知らないの……」
「ならば、続けるまでだ」
——ああ。
ぼやけていく頭の隅っこで、わたしは、へんなことに気づいてしまった。
このひと、楽しんでない。怒ってさえ、いないのかもしれない。ただ、本気で、ほんとうに本気で、ルナって子を取り返したいだけなんだ。そのためなら、なんでもするだけなんだ。
だから、止まらない。
わたしが、ほんとうのことしか言えないかぎり——ずっと。
どっちも、嘘をついてないのに。どうして、こんなことになるんだろう。
……目の前が、白くなってきた。痛みが、すこしずつ、とおくなる。それはきっと、すごく、よくないしるしで。
——こわい。
こわい。心の底から、こわい。
「夢だから、死んでも目が覚めるだけ」。そう思ってた。昨日から、ずっと、そう思ってた。
でも、いま、わかってしまった。
目が覚める気が、しないんだ。このまま目をつぶったら、覚めるんじゃなくて——終わる。体のいちばん奥が、そう言ってる。
ちがう。ちがった。これは。
(——夢じゃ、ない)
その瞬間、世界が、ぐにゃりと、本物になった。
葉っぱのにおいも、頬を伝う血のぬるさも、礫の痛みも、ガロウさんの低い声も——ぜんぶ、ほんものだった。ううん。きっと、最初から、ずっと、ほんものだったんだ。
あの森も。あの崖から見た、どこまでも広い世界も。走るたびに頬を撫でていった、あの風も。
わたしは、夢を見てたんじゃない。
わたしは——ほんとうに、ここに、いる。
そして、ほんとうに、死のうとしている。
(わたし、ここで、死ぬんだ)
昨日、生まれたばっかりみたいな気持ちだったのに。
やっと、走れたのに。
あれが、ぜんぶ、ほんものだったのに。夢じゃなくて、一回きりの、二度と戻らない、ほんものの時間だったのに。
あんなに、たのしかったのに。まだ、ぜんぜん——走り足りないのに……!
どうして体のいちばん奥から「まだ走り足りない」なんて言葉があふれてくるのか、自分でもわからなかった。ただ、涙がひとすじ、礫だらけの頬を伝って落ちた。
だれか。
声にならない声で、呼んだ。名前も顔も思い出せない、あの、やさしい声のひとを。
夢なんかじゃない、ほんものの世界で——生まれて初めて、ほんとうの本気で、「助けて」って、願った。
——そのとき、だった。
「ぬうっ!?」
風が、ふっと、ゆるんだ。
かすむ目に映ったのは、信じられない光景だった。一匹の、犬くらいもある大きな白うさぎが、地を矢みたいに駆けて、ガロウさんの足元めがけて突進したのだ。
まっしろだった。汚れひとつない、降りたての雪みたいな白。ぼやけていく視界のなかで、そこだけが、ぽうっと光って見えた。
ガロウさんがのけぞり、竜巻が乱れて——ほどけて、消えた。
「おのれ、何だ!?」
ガロウさんの蹴りが、白うさぎを払った。小さな体が、木の幹に、嫌な音を立ててぶつかって、落ちた。
「……なんだ、兎か」
ガロウさんは、それきり、見向きもしなかった。あんなに、きれいな白だったのに。
ひとつ息を吐いて、こちらへ向き直る——
その、ほんの一瞬の、できごとだった。
ふわり、と。わたしの体が、宙に浮いた。
だれかの腕が、わたしを抱き上げていた。世界がぐるんと回って、風になった。木々が、ものすごい速さで後ろへ流れていく。
さらさらした、黒いものが、頬に触れた。
……黒い、髪?
あの白い髪の戦士たちのなかで、そこだけ、夜を切り取ったみたいに——黒い。
「——死なせない」
短くて、低くて、すこしだけ震えた、女の子の声がした。
それを最後に、わたしの意識は、ぷつりと途切れた。
*
風の止んだ戦場で、ガロウ・ザンは振り返り——わずかに、目を見開いた。
いない。
あれほど追いつめた人間族の女が、跡形もなく、消えている。
「探せ。深手を負っている。遠くへは行けんはずだ」
戦士たちが散った。だがガロウの胸の奥には、べつのざわめきが残っていた。先ほどの一瞬、視界の端をかすめた、影。まさか。いや、まさか——。
やがて、追跡に出たひとりの戦士が駆け戻ってきた。その顔は、白い毛並みよりも、なお白かった。
「ご報告いたします。……女の匂いは、谷川で途切れました。ですが、その逃げた跡に……」
「申せ」
「……シズ様の匂いが……姫様の匂いが、混じって……おりました」
ガロウの左目が、見開かれた。
シズ。三日前の夜から姿を消した、ただひとりの娘。どうせルナを探しに飛び出したのだろうと、捜索の手まで割いていた——その娘の匂いが、なぜ、この女の逃げた跡に重なる。
ルナに、続いて。
よりにもよって、あの人間の女が消えた、まさにこの朝に。
「……人間族の女が」
絞り出した声は、地鳴りのように低く、震えていた。
「ルナに続いて——シズまで、さらったというのか……!」
統領の咆哮が、森を、震わせた。
その誤解が解ける日は、まだ遠い。




