第1話 「森の目覚め」
はじめまして、白川雫です。
連載は週2回(月・木)21時頃の更新を予定しています。
お読みいただけたら嬉しいです。
目が覚めたら、空が緑色だった。
——ちがう。葉っぱだ。見たこともないくらい大きな葉っぱが、空をぜんぶ隠すみたいに、何枚も何枚も重なってる。
ここ、どこ? ……ううん、それより前に。わたし、だれ?
頭の中を探ってみる。名前。家。家族。昨日の晩ごはん。なんでもいいから思い出そうとするのに、霧の中に手を突っ込んだみたいに、なんにもつかめない。
つかめないのに——ふしぎと、怖くなかった。
だって体が、ぽかぽかする。指の先まで、あったかい何かが通ってる。土のにおいがする。鳥の声がする。寝転がったまま深呼吸したら、森の空気が胸の奥まで届いて、それだけで笑っちゃった。
「……ふふっ。なにこれ」
起き上がる。かるい。体が、びっくりするくらいかるい。
両手をにぎって、ひらいて。その場でジャンプしてみる。ぽーん、と思ったより高く跳べて、着地でちょっとよろけて、それもおかしくて笑った。
……あれ? いまの、跳びすぎじゃない? 屋根とか、越えられそうだったんだけど。
こんなに高く跳べるの、ぜったい、現実じゃない。
——あ。そっか。わかっちゃった。
わたし、いま、夢を見てるんだ。すっごく、すっごく、たのしい夢を。たぶん。きっと。
わたし、だれだか分かんないけど。夢のなかのこの体、すっごく元気だ。
(名前……名前、名前……)
目をつぶって、もう一回だけ探す。霧の奥の、そのまた奥。
——声が、聞こえた気がした。
だれかがわたしを呼ぶ声。やさしくて、あったかくて、ちょっとだけ泣きそうな声。
はるか。
「……はるか」
口に出したら、すとん、と胸の真ん中に収まった。
そうだ。わたし、遥香。たぶん、きっと、ぜったい、そう。だれがそう呼んでくれてたのかは、思い出せないけど。
「よし! わたしは遥香! 決定!」
森に向かって宣言したら、鳥がばさばさっと飛び立った。あはは、びっくりさせてごめんね。
それで——遥香さんは、どうしてこんな森のどまんなかで寝てたんでしょうか。
……わかんない。ぜんっぜん、わかんない。
でも、なんでだろう。不思議と、焦らなかった。だって、ね。名前しか思い出せなくて、体がこんなにかるくて、こんなにあったかい朝なんて——やっぱり、とびきりいい夢のなかに、決まってるんだから。
夢なら、さめちゃうまえに、いっぱいあそばなきゃ。それより。
「……走って、みたい」
気がついたら、つぶやいてた。
走りたい。むしょうに。どうしようもなく。理由なんてない。ただ、この足で、いますぐ、どこまでも。
走った。
最初の一歩で、世界が変わった。
風が頬を撫でて、すぐに、びゅうっという唸りに変わる。地面を蹴るたび、体が前へ前へ飛んでいく。木々が後ろへ流れていく。息が弾む。心臓がとくとく鳴って、その音まで、ぜんぶたのしい。
「あはははっ! なにこれ、なにこれぇ!」
倒木をジャンプで飛び越えた。小川を飛び石で渡った——というか、二歩で渡れちゃった。長い坂を一気に駆け上がって、てっぺんで両手をいっぱいに広げたら、汗を風がさらっていって、気持ちよくて空に叫んだ。
走れる。わたし、走れる。
ただそれだけのことが、どうしてこんなに、泣きたいくらいうれしいんだろう。
……ほんとに。なんで、だろうね?
夢のなかでまで、走れるだけで泣きそうになっちゃうなんて。わたしって、ちょっと、へんなのかも。
ふと顔を上げたら、坂のてっぺんは、森がすとんと途切れた崖になっていた。
目の前に——世界が、どーんと広がってた。
見渡すかぎりの、緑の海。その向こうに、白くひかる大きな川。もっともっと向こうには、頂に雪をのせた、青い山脈。山と山のあいだから、けむりみたいなものが、ほそく立ちのぼってる。あれって、もしかして、だれかが住んでるってこと?
「……ひろーい!」
叫んだら、やまびこが返ってきた。ひろーい、ひろーい、って。あはは、なにそれ。
よし、決めた。わたし、いつか、ぜんぶ走って回る。この森も、あの川も、あの山のてっぺんも。この世界のはじっこまで、ぜーんぶ。
どうせ夢だし! 夢のなかなら、どんなに遠くたって、走れちゃうもんね。
それに……だれかが住んでるなら。いつか、ともだちだって、できるかもしれないし。夢のともだちでも、ともだちは、ともだちだもん。
わかんないまま、また走った。お腹が鳴ったら、赤い実がたわわになった木を見つけて、ひとつかじる。甘酸っぱい果汁が、じゅわっ。ほっぺたが落ちそうになって、両手いっぱいにもいで、もぐもぐしながら歩いた。
喉が渇いて、さっきの小川に戻る。両手ですくって飲んだ水は、つめたくて、甘かった。
ふと、水面に、知らない女の子が映ってた。
青い髪。肩のあたりでさらさら揺れる、晴れた空を溶かしたみたいな青。瞳は、すみれの色。
「これが、わたしかぁ」
じーっと見つめてみる。うん。笑顔は、かわいいと思う。自分で言うのもなんだけど。
——そのときだった。
背中のほうで、茂みが、ばきばきっと鳴った。
振り向くと、いた。大きい。牛……じゃない。猪? でも、ふつうの猪は、あんなふうに目を赤く光らせたりしないと思う。口の横から、剣みたいな牙が二本、突き出してる。
「え、えーと……こんにちは?」
ごあいさつは、通じなかった。
獣は前足で地面をひと掻きして、まっすぐ突っ込んできた。
「わわっ!」
体が、勝手に動いた。横っ飛び。風圧がびゅんと髪を揺らして、獣はわたしがさっきまでいた場所の岩に激突した。
岩、割れたんだけど。あれ、当たってたら、わたしも割れてたんだけど!
怖い……はずなのに。あれ? へんだな。ぜんぜん、足が竦まない。
あ、そっか。夢だからだ。夢のなかで死んじゃっても、目が覚めるだけだもん。だったら——こわくない!
それどころか、あの子が次にどう動くか、なんとなく見える気がする。
獣がぐるんと反転して、もう一度突進してきた。今度は真上に跳んでかわして、すれ違いざま、太い首すじに、思いっきり踵を振り下ろした。
ごんっ! ……って、自分の足とは思えない音がした。
獣はつんのめって、二、三歩よろけて、どしーん、と横倒しになった。お腹がゆっくり上下してるから、気絶しただけみたい。よかった。
「…………」
しーん、と静まりかえった森で、わたしは自分の足を見下ろした。
「……わたし、つよい!?」
言ってみたら、じわじわうれしくなってきた。つよい! 走れて、跳べて、つよい! なにこの夢、さいこうじゃん!
……ただ、無傷ではなかった。最初の突進をかわしたとき、牙の先がかすったらしい。左腕に、みみずばれみたいな引っかき傷。ぷくっと血がにじんでる。
「いったた……。——あれ?」
見ているそばから、傷が、薄くなっていく。
血が止まって、ふさがって、赤みが引いて——ゆっくり十を数えるあいだに、つるんとした肌に戻っちゃった。痛みも、すうって消えた。
そのあいだ、胸の奥が、ほんのりあったかかった。
なんだろう。胸のまんなかに小さな灯がともっていて、そのあかりが、傷のところまでとろとろ流れていくみたいな。そんな感じ。
「……治っちゃった」
すごい。すごい——って、あれ? うん、そっか。そうだよね。
夢だもん。夢のなかなら、痛くないし、すぐ治るに決まってる。だってわたしの夢なんだから。
なーんだ。びっくりして損した。
わたしは、つるんと元どおりになった左腕を、ぶんぶん振り回してみた。痛くない。へっちゃら。
……これ、ひょっとして。なにしても、痛くないってこと?
むくむくと、いたずらな気持ちが湧いてくる。だって、夢だし。なにしたって、いいんだもん。
あ、でも。だれかを痛くするのは、なし。夢のなかでも、それだけは、なんか、やだ。
ためしに、近くの木の幹を、こんこん、と蹴ってみた。みしっと幹が鳴って、葉っぱがばらばらーっと降ってきて、頭のてっぺんに乗っかった。あはは、なにそれ。
……うん。夢って、さいこう。
日が傾いてきたから、寝床を探すことにした。大きな木の根っこのあいだに、ちょうど体がはまるくぼみを見つけて、やわらかい葉っぱを敷きつめたら、それなりのベッドができあがった。
夜の森は、昼間とは別の場所みたいだった。
暗い。ほんとうに、暗い。葉っぱのすきまから、知らない星がちかちか見えるだけ。風が吹くたび、森ぜんたいが、ざわ……ざわ……って、ささやき合ってる。
ひざを抱えたら、急に、胸のまんなかが、すうすうした。
……あれ。へんなの。
今日のわたし、あんなに笑ったのに。その話をする相手が、ひとりもいないからかな。
ううん。それだけじゃ、ない気がする。夢のなかなのに。こんなにたのしい夢のなかなのに。どうして、こんなに——ひとりぼっちな気がするんだろう。
まるで、ずうっと長いこと、ひとりだったみたいに。
目の奥がじわっと熱くなって、あわてて、ぶんぶん首を振った。
だいじょうぶ。思い出せないだけで、わたしを呼んでくれた、あのやさしい声は、ちゃんとあったんだから。夢のそとの、どこかに、ちゃんと。
「……ま、いっか! 夢だし! 明日も、いっぱい走ろう」
声に出したら、すうすうは、ちょっとだけ引っこんでくれた。
体はくたくたで、眠気はすぐに迎えに来てくれた。夢のなかなのに眠くなるのって、ちょっとへんなの。でも、ねむいものは、ねむい。
まぶたが、とろん、と落ちかけて——ふと、わたしは、目をあけた。
……ねえ、ちょっと待って。
寝たら、この夢、覚めちゃうのかな。
だって、夢って、そういうものでしょ。眠って、見て、起きたら、おしまい。じゃあ、夢のなかで寝ちゃったら? 今度こそ、ほんとうに、おしまいなんじゃないの?
……やだな。
覚めたく、ないな。
自分でも、びっくりした。覚めたら、夢のそとに帰れるのに。わたしを呼んでくれた、あのやさしい声のひとも、きっと、そっちにいるのに。
なんでだろう。夢のそとに、帰りたくないなんて。
……へんなの。わたし、ほんとに、へんなの。
葉っぱのベッドのなかで、ちょっとだけ、まるくなった。それから、ふるふるって、首を振った。
だいじょうぶ。この夢、こーんなに広くて、こーんなに長いんだもん。一回寝たくらいじゃ、きっと終わらないよ。たぶん。……だといいなっ。
それにほら、覚めなかったら、ラッキーだもんね。
「——おやすみっ!」
とろとろと、意識が沈んでいく、その途中。
とおくで、おおかみの遠吠えが聞こえた気がした。ひとつじゃない。いくつも、いくつも、重なって、長く。
うとうとのまぶたの裏で、木立のあいだを、白い影がすうっと横切った。
……きれいだな。ゆきみたいだな。
夢うつつのわたしは、それきり、すとんと眠ってしまった。
その白い影たちが夜のあいだじゅう、息をひそめて、こちらをじっと見つめていたことなんて——なんにも、知らないままで。




