第41話 歩ける足
リーンちゃんが、両手で口を押さえた。
フィーナさんは、目を閉じた。
わたしは、自分の足を見た。
机の下で、新しい服の短いすそから、わたしのひざが出ていた。その下に、すね。足首。足の指。
あの夜、森じゅうを走りまわった足だ。猪の上に着地して、熊の足首をつかんだときに、地面をふんばった足だ。囲いを跳び越えすぎて、根っこに頭をぶつけた足だ。
歩けなかった、わたし。
……ぜんぜん、覚えてない。
覚えてないのに、のどの奥が、つんとした。
「……10歳」
フィーナさんが、目を閉じたまま、小さくくりかえした。
シズちゃんは、わたしから目をそらさなかった。そらさないで、続けた。
「その子を、月の女神様がこの世界へ召喚したの。勇者として」
「ゆ、勇者……!?」
リーンちゃんの手が、口からはなれた。
「勇者って、あのおとぎ話の勇者ですか!? 世界がたいへんなときに出てくる、あの!? ハルカちゃんが!?」
「そこは、知ってるよ」
わたしは言った。声が、ちょっとかすれていた。
「前に、シズちゃんが教えてくれた。……ゆうしゃって、しごとはなにって聞いたら、シズちゃんもわかんないって」
「……いまも、わからないの」
シズちゃんの口の端が、ほんの少しだけ動いた。
「詳しいことは、わたしにもわからない。でも、ハルカには特別な力がある。それは、となりでずっと見てきたから」
「……道理で、ね」
フィーナさんが、目をあけた。
「レベル2で、白狼族の戦士を14人も相手にして、歴戦まで投げる子。ひと晩で、18も上がって帰ってくる子」
フィーナさんは、わたしを見た。
「ふつうの子のはずが、なかったのね」
「……ふつうじゃなくて、ごめんね」
「謝ることじゃないわ」
フィーナさんの声は、いつもより、ずっとやわらかかった。
シズちゃんが、また口を開いた。
「召喚の途中で、女神様は何者かに襲われたの。ひどいけがをして、召喚はちゃんとできなかった。不完全になったの」
「ハルカに記憶がないのは、そのせい」
「何者か、というのは」
フィーナさんが聞いた。机のはしをにぎった手に、また力が入っていた。
「わからない。女神様にも、わからないって」
「……そう」
フィーナさんは、それ以上、聞かなかった。
でも、その目が、ランプの火のずっとむこうを見ていた。6年、だれかを探しつづけた人の目だった。
「最後に、もうひとつ」
シズちゃんは、自分の胸に、そっと手をあてた。
「父上とハルカが戦ってたとき、森の時が、止まったの」
「時が……止まった?」
リーンちゃんが、小さい声で言った。
「葉っぱも石も、風も父上も。ぜんぶ、止まってた。動いてたのは、わたしと、わたしの手の上にいた小さなうさぎだけ」
「そのうさぎに、女神様がいたの」
ランプの火が、またじじっと鳴った。
「女神様が、わたしにだけぜんぶ話してくれた。ハルカのことを。それから、ハルカを助けてって、わたしに頼んだの」
シズちゃんの指が、胸の上で、ぎゅっと服をつかんだ。
「女神様はそこで、最後の力を振り絞って……わたしに力をくれたの」
「そのあと、消えちゃった」
だれも、しばらくなにも言わなかった。
窓の外で、どこかの家の戸がしまる音がした。それくらい、静かだった。
わたしは、あの日のことを思い出そうとした。
風と、石と、ガロウさんの左目。体じゅうが痛くて、ひざをついて、もう立てなかった。
そのあとは、なにも覚えていない。
ただ、ひとつだけ。
だれかが、わたしの前に立ってくれた。
背中が、見えた気がする。黒い髪が、揺れていた気がする。
「……あのとき、わたしの前に立ってくれたの、シズちゃんだったんだね」
「うん」
「女神様に、頼まれたから?」
言ってから、しまったと思った。
シズちゃんの耳が、ぺたんと伏せた。
リーンちゃんが、息をのむ音がした。
ちがう。そういう意味じゃない。責めたかったんじゃない。ただ、知りたかっただけだ。
でも、もう、言ってしまった。
シズちゃんは、少しのあいだ、黙っていた。
黙って、それから、まっすぐ答えた。
「……はじめは、そう」
うそをつかなかった。
シズちゃんは、こういうとき、ぜったいにうそをつかない。
「でも、いまはちがうの」
伏せていた耳が、ゆっくり、前を向いた。
「いまは、わたしがハルカといっしょにいたいから、いっしょにいるの。それだけなの」
胸の奥で、なにかが、ぱちんとはじけた。
宴の夜と、同じ音だった。
「……知ってる!」
声が、勝手に大きくなった。
「知ってるよ! だって、シズちゃん、小指で頼んでくれたもん! ハルカ、いっしょに来てって! あれ、女神様に頼まれたからじゃないでしょ!」
「……うん」
「シズちゃんが、シズちゃんの口で言ったんでしょ!」
「……うん」
シズちゃんの黒い尻尾が、うしろで、ぱたんと揺れた。
わたしは、椅子から立ち上がった。
立ち上がったら、足の裏が、むずむずした。
ずっとだ。
目が覚めたあの日から、ずっと。宴のあいだも、馬車の上でも、いまも。わたしの足の裏は、いつも、むずむずしている。走りたい。跳びたい。どこまでも行きたいって。
あの夜、森を走ったとき、わたしはずっと笑ってた。
木にぶつかっても、熊の角が目の前に来ても、ずっとたのしくてしかたなかった。
なんでこんなにうれしいのか、自分でもわからなかった。
……わかった。
わたしは、机のまわりを、ぐるっと1周歩いた。
とん、とん、とんと床が鳴った。
それから、ぴょんと跳んだ。
天井の草の束に、頭がこつんと当たった。
「シズちゃん、見て」
「……見てる」
「わたし、歩けてる」
「……うん」
「跳べるし、走れるし、熊だって投げられるよ」
声が、ふるえた。
ふるえたけど、笑っていた。
「だからわたし、こんなに走りたいんだ」
目のはしから、なにかがぽろっと落ちた。
拭かなかった。拭くより先に、言いたいことがあった。
「シズちゃん。ずっと、ひとりで持っててくれたんでしょ。わたしのこと。話したら、わたしが笑わなくなるかもって、ずっと」
シズちゃんの口が、少しだけあいて、閉じた。
「……重かったよね」
シズちゃんは、しばらく、なにも言わなかった。
それから、下を向いた。
「……重かった」
ちいさな声だった。
背の高いシズちゃんが、いまは、わたしよりずっと小さく見えた。
わたしは、シズちゃんの頭を、両腕でぎゅっと抱えた。
森から帰った朝、シズちゃんがわたしにしてくれたのと、反対だった。シズちゃんの頭が、わたしの胸のところにあった。黒い耳が、あごの下でぴくぴく動いて、くすぐったかった。
「ありがとう、シズちゃん」
「……うん」
「女神様にも、ありがとうだね。シズちゃんに、頼んでくれて」
「……うん」
「ハルカちゃん……!」
横から、リーンちゃんが飛びついてきた。わたしとシズちゃんを、まとめて両腕で抱えこんだ。
「わっ」
「じゃあもう、ぜんぶ取り返しちゃいましょう! 走って跳んで、食べて遊んで、ぜんぶです! 10年ぶん、ぜんぶ!」
リーンちゃんの声は、ぐしゃぐしゃだった。目も、鼻も、まっ赤だった。
「リーンちゃん、くるしい……」
「がまんしてください! わたし、いま、それどころじゃないんです!」
「シズちゃんも、つぶれてるよ」
「……つぶれてる」
シズちゃんの声が、わたしの胸の中から、くぐもって聞こえた。
リーンちゃんは、少しだけ腕をゆるめた。ゆるめただけで、はなさなかった。
「……あれ?」
リーンちゃんが、ぴたっと止まった。
「10歳でこっちに来たってことは……ハルカちゃん、ほんとうはわたしよりずっと年下じゃないですか」
「えっ」
「わたし、17ですよ。7つも上のお姉さんです」
「体は15だもん!」
「中身の話です!」
リーンちゃんが、涙の残った顔で、にやっと笑った。
「これからは、もっといじって、もっと甘やかしますからね。覚悟してください」
「えー!」
わたしは、ぱっとフィーナさんのほうを向いた。
「じゃあ、フィーナさんから見たら、わたしたちみんな赤ちゃんだね!」
フィーナさんの肩が、びくっとはねた。
「……その計算は、しなくていいの」
「120ひく……」
「しなくていいの」
フィーナさんが、こほんと咳をした。耳の先が、ランプの火より赤かった。
それから、フィーナさんは、シズちゃんのほうを向いた。
さっきまで机のはしをにぎっていた手が、シズちゃんの襟にのびた。
直した。
また、曲がってもいない襟だった。
「話してくれて、ありがとう。シズさん」
シズちゃんが、わたしの腕の中から、少しだけ顔を出した。
「……あねさま」
「これからは、4人で持つわ」
フィーナさんは、わたしとシズちゃんとリーンちゃんを、順番に見た。
「少しだけ重いくらいが、ちょうどいいのよ」
「……うん」
「それから、もうひとつ」
フィーナさんの声が、少しだけ先生の声になった。
「もう、ひとりで抱えないこと。夜の森へ、ひとりで行かないことも。……ふたりともよ」
「はあい!」
「……はい、あねさま」
シズちゃんは、わたしの腕の中で、こくんとうなずいた。
黒い尻尾が、ぱたん、ぱたんと揺れていた。
いちどじゃなかった。止まらなかった。
顔は見えなかったけれど、尻尾だけは、ずっと正直だった。
*
みんなが、やっと椅子にもどったころ。
フィーナさんが、冷めたお茶をひと口飲んで、言った。
「それで、ハルカさん」
「なあに?」
「30まで上がったのなら、ポイントはなにに使ったの?」
「……ぽいんと?」
わたしは、首をかしげた。
フィーナさんの手が、お茶のカップを持ったまま止まった。
「窓、見えているんでしょう。レベルが上がるたびに、技を覚えるための点がもらえるはずよ」
「てん?」
わたしは、窓を出してみた。
ぽう、と目の前に、光の四角が浮かんだ。
字は、ぜんぶは読めない。でも、数字はわかる。
「あっ。そういえば、ここ、ずっとぴかぴかしてる数字がある! はしっこのとこ!」
「……いくつ?」
わたしは、その数字を読み上げた。
フィーナさんが、固まった。
カップの中で、お茶がちゃぷんと揺れた。
「……一度も、使っていないの?」
「使うって、どうやって?」
「……」
フィーナさんは、ゆっくり、シズちゃんのほうを向いた。
シズちゃんは、もう自分の窓を出していた。光の四角を、じっと見ていた。
「……わたしのも、光ってる」
「シズさん、いつから?」
シズちゃんは、少し考えた。
「……ずっと前から」
「ずっと前から!?」
フィーナさんの声が、ひっくり返った。
年を聞いたときより、ずっと大きくひっくり返った。
リーンちゃんが、帳面を開いたまま、肩をぷるぷるふるわせていた。
「あなたたち、いままでそれでどうやって戦ってきたの……」
フィーナさんは、両手で顔をおおった。
「森角熊を、素手で投げる子と。30まで、刀ひとつで来た子と。……ふたりとも、ずっと点を貯めたまま」
「貯金だね!」
「ほめてないのよ」
「シズちゃん、わたしたち、貯金上手だって!」
「……上手」
「ほめてないの!」
フィーナさんが、顔から手をはなした。
あきれていた。ものすごく、あきれていた。
でも、目の奥が、少しだけきらっとしていた。仕立て屋のおばさんが、白狼族の毛皮の話をしたときと、ちょっとだけ似ていた。
「明日から、ビシバシいくわよ。ふたりとも、覚悟してね」
「はーい!」
「……はい、あねさま」
リーンちゃんが、帳面にさらさらと筆を走らせた。
「なに書いてるの?」
「旅の帳簿です。父との約束ですから」
リーンちゃんは、書いたところを、ランプのほうへ向けて見せてくれた。
わたしには、字が読めない。
「なんて書いてあるの?」
「1日め。パーティ結成。シズさん、パン4つ。先生、頭をかかえる」
「……3つ」
「4つめも、食べてたよ」
「最後のは、書かなくていいの」
「ぜんぶ書くって約束しました!」
「……あれ? さっきのお話は、書かないの?」
わたしが聞くと、リーンちゃんは帳面をぱたんと閉じて、胸にぎゅっと抱えた。
「書きません。あれは、帳簿に書くものじゃありませんから」
リーンちゃんは、人さし指を口の前に立てた。
「4人の、ひみつです」
わたしは、笑った。
シズちゃんも、口の端を持ち上げていた。こんどは、にらんでるみたいじゃなかった。ちゃんと、笑っていた。
窓の光の四角は、まだ目の前に浮かんでいた。
はしっこの数字が、ぴかぴか光っている。
ずっと、光っていたんだ。わたしが、気づかなかっただけで。
この点を使ったら、なにを覚えられるんだろう。忍者の技かな。屋根の上を走る技かな。それとも、まだ名前も知らない、なにかかな。
足の裏が、むずむずした。
こんどは、止めなかった。
むずむずしたまま、わたしは窓の光の数字をぎゅっと見つめた。
ここから、はじまるんだ。
4人の冒険が。




