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転生少女と黒狼姫 〜女神に選ばれた少女と、掟破りの狼族戦士〜  作者: 白川雫


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第35話 届いた声

 フィーナさんは、なにも言わなかった。


 ガロウさんも、しばらくなにも言わなかった。


 「あの冬、俺は谷筋を歩いた」


 低い声だった。


 「あんたは、その先を歩いていた」


 「……」


 「俺の踏んだ雪は、いちども割れなかった」


 フィーナさんの手が、ほんの少しだけ動いた。


 動いて、それだけだった。


 「あのとき、俺は頭ではなかった。ただの戦士だ」


 ガロウさんが言った。


 「ただの戦士でも、帰ってこられた者の数は数える」


 フィーナさんは、答えなかった。


 わたしはそのとき、この人がどんな顔をしていたのかを、あとから何度も思い出そうとした。


 思い出せなかった。


 顔は、ずっと変わらなかったからだ。


 ガロウさんは、ひとつだけ聞いた。


 「リリーは、どうした」


 風が、囲いの上をわたっていった。


 「……あの日は、この井戸で待っていました」


 フィーナさんが言った。


 「半刻、待って、出てきませんでした。連れていかれたあとでした」


 「教団です」


 ガロウさんは、動かなかった。


 「体は、あります。あの丘の地下に、寝かせてあります。あの人たちと、いっしょに」


 わたしは、あの暗いところを思い出した。灯りは、点いていなかった。だから、顔は、ひとつも見えなかった。


 あの中に、いたんだ。


 「魂だけが、どこかにあります。行き先を知っているのは、いちばん上の者だけです」


 たましい、って言われても、わたしにはよくわからない。わからないけど、いない、ということはわかった。


 「これから、探しに行きます。6年、探しました。まだ、見つかっていません」


 「あの人たちを運び出すとき、あの子も、連れて帰ってもらえませんか」


 「私が戻るまで、体を、預かってほしいのです」


 フィーナさんが、頭を下げた。


 さっきガロウさんが下げたのより、ずっと深かった。


 ガロウさんは、もういちどは聞かなかった。


 わたしの手のなかで、桶の水がふちのところで揺れて、それから止まった。


   *


 「里の者を、10人ばかり出す」


 ガロウさんが言った。


 「馬車の3台は、借りる。担ぐのは、こちらの腕でやる」


 「足りますか」


 「足りる」


 「発つのは、明日の朝だ。道は」


 「私が行きます」


 「そうか」


 それだけで、話は終わった。


 フィーナさんが、半歩、うしろへさがった。


 言い終わったあとの、半歩だった。


 だれも、それを見ていなかった。里の人たちは統領の背中を、ガロウさんは北のほうを見ていた。


 わたしだけが、見ていた。


 この人は、そういうさがり方をする。きのう、袋の紐から指を離したときも、こうだった。


 いつか、さがらなくなればいいのに。


 わたしは、桶を差し出した。


 「フィーナさん、水」


 「……いただきます」


 受け取った手が、少し冷たかった。


 両手だった。


 わたしは、それも見ていた。


   *


 レスフィーナ。


 わたしは、その長い名前を、いちども呼んだことがない。


   *


 囲いの内から、シズちゃんが出てきた。肩に羽織がかかったままだった。


 わたしたちを呼びにきたんだ、と思った。


 井戸の少し手前で止まって、こっちを見て、それから目をそらした。


 「……フィーナ、さん」


 「なんですか」


 「……」


 シズちゃんは、そこから先を言わなかった。


 黒い耳が、ゆっくり伏せていくのが見えた。


 言えないんだ。


 言えないまま、シズちゃんはそこに立っていた。帰らないで、立っていた。


 フィーナさんも、なにも言わなかった。


 言わないで、桶を井戸の縁に置いた。


 置いてから、その手でシズちゃんの肩の羽織を直した。片方だけ、ずり落ちかけていた。


 それを、上げただけだった。


 シズちゃんは、動かなかった。


 わたしは、その横に立って空を見た。日が、傾きはじめていた。


 囲いのむこうで、灯りがひとつ、またひとつ点いていく。


 あの内側に、ルナちゃんがいる。おうちに、帰った。


 でも、北の丘の23人は、まだあのまっくらな中だ。油はあるのに、点けられない。


 南へ行ったミアさんたちも、そうだ。丘を3つ越えて、それきり会っていない。


 あの人たちの村には、もうだれもいない。わたしは、それを見た。


 ……そんなの、やだ。


 「ねえ、明日、みんなを迎えに行こう!」


 声が、思ったより大きく出た。シズちゃんの耳が、ぴくっと立った。


 「丘の23人も、南のミアさんたちも! シズちゃんが丘を3つ越えてくださいって送り出した、あの10人だよ! みんな、いっしょに連れて帰ろう!」


 「……尾根の小屋だ」


 シズちゃんが言った。フィーナさんのほうじゃなくて、わたしのほうを向いて。


 「道は、わたしが覚えている」


 「さすがシズちゃん!」


 「……南へまわると、帰りは遠くなりますよ」


 フィーナさんだった。


 「遠くなってもいいよ! だって、迎えに行くんだもん!」


 フィーナさんは、少しのあいだ、わたしを見ていた。


 「……わかりました。帰りに、南へまわりましょう」


 「やった!」


 わたしは、その場でぴょんと跳ねた。それから、シズちゃんの袖を引っぱった。


 「ほら、シズちゃん。わたしたちを呼びにきたんでしょ。いこ!」


 「……ああ」


 伏せていた黒い耳が、半分だけ起きていた。


   *


 次の朝、北へ発った。


 里の人が10人と、リーンちゃんの馬車が3台。わたしとシズちゃんとリーンちゃんと、いちばん前にフィーナさん。


 ルナちゃんは、里に残った。出るときに毛布の中から手をのばして、わたしの袖をつかんだ。


 「フィーナを、ひとりにしないで」


 「うん! まかせて! ルナちゃんのぶんまで、くっついてるから!」


 ルナちゃんの指が、やっと袖から離れた。


 丘の地下は、やっぱり暗かった。


 だから、着いてすぐ、置いてあった油に火を点けた。ひとつ点けるたびに、顔がひとつ見えた。


 23人ぶん、ぜんぶ見えた。


 丘の地下には、27人いた。そのうち4人は、間に合わなかった。来る道で、フィーナさんがそれだけ教えてくれた。


 だから、ここにいる23人は、ひとりも置いていかない。


 「迎えにきたよ!」


 わたしが言って、フィーナさんが「迎えに来ました」と言って、うしろでシズちゃんも言った。


 帰りの馬車のいちばん前には、毛布にくるまれたリリーさんが乗った。フィーナさんは、ずっとそのとなりに座っていた。


 わたしは、そのフィーナさんのとなりに座った。ルナちゃんと、約束したから。


 帰りは、南へまわった。


 丘を3つ越えると、尾根に小屋があった。煙が、1本上がっていた。畑のほうで、ガランさんが鍬を止めて、こっちを見ていた。


 小屋の前で、小さい子がこっちを見た。見て、それから走ってきた。


 トトだった。切れていたあの足で、まっすぐ走ってきた。


 「トト! 迎えにきたよ! ミアさんたちも、みんなでいっしょに帰ろう!」


 戸口に、ミアさんが出てきた。わたしを見て、馬車を見て、手で顔をおおった。


 あの日と、同じだった。


 でも、その手は、すぐに下りてきた。笑っていた。


 小屋の人たちが、荷台のまわりに集まってきた。荷台の中から、いくつも手がのびた。


 23人と、10人。


 こんどは、指を折るのをやめなかった。ぜんぶで、33人だ。


 里に戻ると、囲いの外の井戸のまわりに、布を張った小屋がいくつもできた。33人は、そこで寝ることになった。


 囲いの内には、入らなかった。入れなかったのか、入りたくなかったのかは、わからない。たぶん、どっちもだ。


 村の人たちは、白い耳が近くを通るたびに、少しだけ体をかたくした。里の人たちも、小屋のほうをあまり見なかった。


 それでも、その晩から、小屋のまわりには槍を持った里の人が立つようになった。


 槍は、ぜんぶ外を向いていた。


   *


 帰ってきたその晩が、宴だった。


 囲いの内の真ん中で、大きな火が燃えていた。火の上で肉がじゅうじゅう音を立てていて、そのまわりを、白い髪の人たちが輪になってかこんでいた。


 耳と、尻尾と、耳と、尻尾。


 「……耳が、いっぱい」


 言ってから、しまったと思った。


 わたしの近くだけ、話し声がすっと小さくなった。


 目が来て、青い髪のところで止まって、すぐにそれていく。半月、この髪をさがしていた人たちだ。


 小さい子がひとり、わたしのほうへ一歩出てきた。うしろから大人の手がのびて、すぐに引き戻した。


 ……うん。そうだよね。


 「笑っててください。こういうときは、笑ってるのがいちばんです。商売でもそうです」


 となりで、リーンちゃんが小さい声のまま早口で言った。


 笑ってみた。ほっぺたが、かたかった。


 火のむこうでは、ルナちゃんが毛布にくるまって、シズちゃんのとなりに座っていた。


 フィーナさんは、戸のすぐ内側の、いちばん端にいた。そこから先へは、来なかった。


 ガロウさんが、立った。


 それだけで、火のはぜる音しか聞こえなくなった。


 「ルナをさらったのは青い髪の人間族の女だ、見つけたら槍を向けろ。この里の者にそう言ったのは、俺だ」


 低い声が、囲いのすみまで届いた。


 「皆、俺の言葉に従っただけだ」


 「だが、その娘はルナをさらってなどいなかった。会ったばかりのルナを背負って、自分の食う物まで渡して、ここまで連れて帰ってきた。北の丘でも、だれより先に23人を運び出していたと、戻った者たちから聞いた」


 ガロウさんが、わたしのほうを向いた。


 「ハルカ」


 「は、はい!」


 「すまなかった」


 頭が、下がった。


 囲いの前で下げたときより、ずっと深かった。


 灰色の長い髪が、肩からすべり落ちるくらいだった。


 「それから、もうひとつある」


 顔を上げて、ガロウさんは続けた。


 「娘は、掟を破ってひとりで里を出た。俺は半月、あれがどこかで倒れていると思っていた」


 「倒れずに帰ってきたのは、おまえがそばにいたからだ。……娘を、ひとりにしないでくれた。礼を言う」


 火のむこうで、黒い耳がぱたんと伏せた。


 そのとき、輪の中で、だれかが立った。


 あの日、いちばん近くで槍をふるわせていた、若い人だった。


 ひとり立つと、またひとり立った。何人いたのかは、数えなかった。


 みんな、黙って頭を下げた。


 「や、やめて! 顔あげてってば!」


 わたしは、両手をぶんぶん振った。


 「だって、みんなルナちゃんが大事だったから、半月もさがしてたんでしょ。わたしもルナちゃんが大事だもん、わかるよ。だから、もういいの!」


 こんどは、だれも「よくない」とは言わなかった。


 シズちゃんも、言わなかった。黒い尻尾が、いちどだけゆっくり揺れた。


 ぐう、と音がした。


 わたしのおなかだった。


 「……いまの、ちがうからね」


 いちばん前にいた、あの若い人がふきだした。


 笑い声が、火のまわりをぐるっと回った。


 さっきの小さい子が、また一歩出てきた。


 こんどは、だれも引き戻さなかった。


 火のむこうで、シズちゃんが立った。


 肩の羽織が、ずり落ちかけた。自分でそれを直して、ガロウさんのほうを向いた。


 「父上」


 また、火のはぜる音しか聞こえなくなった。


 「わたしは、また里を出ます」


 輪のどこかで、だれかが息をのんだ。


 「前は、黙って出ました。こんどは、ここで言っていきます」


 「レスフィーナの親友の、リリーを助けるために、旅に出ます」


 旅。


 その言葉のところで、胸がどきんとした。


 「わたしも行く!」


 口のほうが、先に動いていた。輪のあちこちから、目がこっちへ来た。シズちゃんの黒い耳だけが、ぴくりとこっちを向いた。


 ガロウさんは、シズちゃんを見ていた。囲いの前で見たときと、同じくらい長かった。


 「……そうか」


 それだけだった。止めなかった。


 シズちゃんは、頭を下げた。下げたまま、少しのあいだ動かなかった。


 シズちゃんが顔を上げたとき、ガロウさんはもう、こっちを見ていた。


 「ハルカ」


 「は、はい!」


 ガロウさんは、足もとに置いてあった布の包みを2つ取って、わたしの前まで来た。


 包みをほどくと、古い本が2冊出てきた。革の表紙が、火の色にてらてら光っていた。


 「詫びのついでだ。白狼に伝わる、秘伝の書だ」


 「ひでんの……しょ?」


 「好きなほうを、ひとつ選べ」


 わたしは、2冊の表紙をのぞきこんだ。


 どちらの表紙にも、絵はなかった。そのかわりに、むずかしい字がたくさん書いてあった。


 でも、その中にひとつずつ、はっきりわかる字があった。


 1冊めは、「忍」。


 2冊めは、「侍」。


 ……読める。


 知らないはずなのに、知ってる。


 「忍者だ! こっちは侍! わあ、すごいすごい!」


 「……読めるのか」


 ガロウさんの左目が、細くなった。


 「えっ、読めないの?」


 「里の者は、だれも読めん。冒険者の職業を転職する書物らしい。世界に唯一の、わが里に伝わる書物だ」


 「特別な職になれると聞いた」


 わたしは、1冊めを両手でつかんだ。


 「わたし、こっち! 忍者がいい! だって忍者って、屋根の上を走るんだよ!」


 走れる。跳べる。屋根の上まで。


 考えただけで、足の裏がむずむずした。


 「……ハルカ。侍とは?」


 シズちゃんの声だった。黒い目が、ガロウさんの手に残ったほうの表紙から、離れていなかった。


 「刀の使い手! 刀を使わせたら右に出るものがいない、刀のスペシャリストだよ!」


 黒い耳が、ぴんと立った。


 シズちゃんは、なにも持っていない自分の右手を見た。それから、ぎゅっとにぎった。


 「父上」


 ガロウさんが、振り向いた。


 「わたしは侍になりたいです。その刀の書を、わたしにください」


 輪のあちこちで、声がざわっと起きた。


 「2冊とも里から出すのか」


 だれかが、小さく言った。ガロウさんは、黙っていた。


 「……よろしいですか」


 戸のそばから、声がした。フィーナさんだった。いくつもの目が、いっせいにそっちを向いた。


 「そういう書のことは、冒険者のあいだで聞いたことがあります」


 「使っても、なくなるものではありません」


 言い終わると、フィーナさんは半歩さがった。


 里の人たちは、顔を見合わせていた。わかっていない顔だった。


 わたしには、少しだけわかった。


 てんしょく。窓に書いてある「旅人」のところが、変わるのかもしれない。


 「じゃあ、わたしが忍者になっても、この本はそのまま残るってこと!?」


 「……はい。残ります」


 足の裏が、またむずむずした。


 ガロウさんは、戸のほうを少しだけ見た。それから、シズちゃんに目を戻した。


 「……持っていけ」


 「ありがとう、ガロウさん! 2冊とも、ちゃんと返すからね! またルナちゃんの様子を見に来るから、そのときに返すね! 約束!」


 輪のどこかで、さっき小さく言った人が、口を閉じた。


 「……ルナが、待っている」


 ガロウさんは、それだけ言った。


 シズちゃんが、ガロウさんの前まで来た。刀の書を、両手で受け取った。受け取って、胸に抱えた。


 抱えた腕に、ぎゅっと力が入るのが見えた。


 それから、輪の外をまわって歩きだした。


 戸のほうだった。いちばん端に、フィーナさんがいる。


 気がついたら、わたしも立って、そっちへ歩いていた。リーンちゃんも、うしろからついてきた。


 シズちゃんは、フィーナさんの2歩手前で止まった。


 止まって、わたしのほうを振り向いた。


 「ハルカ」


 ……来た。いつもの、あれだ。その人に言え、が来る。


 わたしは、首を横に振った。


 それから、小指を立てて見せた。


 馬車の夜に、からめた小指だ。


 黒い耳が、ぺたんと伏せた。


 伏せたまま、シズちゃんは前を向いた。フィーナさんのほうを、ちゃんと顔ごと。


 「……フィーナ、さん」


 「はい」


 フィーナさんの声は、いつもと同じだった。


 「あなたは、ルナを守ろうとしただけだった」


 「わたしは、なにも聞かずに、あなたを敵だと決めた」


 「あなたを見るたびに、柄をさがした。ひどい言い方も、たくさんした」


 「ぜんぶ、わたしの思いちがいだった」


 シズちゃんは、そこで一度だけ唇をかんだ。


 「……すまなかった」


 言えた。


 「その人に言え」じゃなかった。シズちゃんが、シズちゃんの口で言った。


 わたしは、立てたままの小指を、ぎゅっと握りこんだ。


 「……シズさんが謝ることは、ありませんよ。私は、そう言われるだけのことを」


 「まだ、ある」


 シズちゃんが、言葉をかぶせた。


 「わたしが何も言えずにいたときも、あなたは羽織を直した」


 「わたしのぶんの食事は、いつもハルカに預けて、わたしに届くようにしていた」


 フィーナさんが、まばたきをした。


 「自分が傷つこうともルナを守る姿勢は、まるで母のように見えたの」


 あれ。シズちゃんの話し方が急に変わった……。


 13歳だもんね、今までがむりしてたのかな……。


 「母を知らずに生きてきたわたしには、母とはよくわからないけど、あなたのような人なのかなって思ってしまったの」


 シズちゃんは、そこで息を吸った。


 「……お母さんって呼びたい」


 火が、ぱちんと鳴った。


 わたしの横で、リーンちゃんが両手で口を押さえた。


 フィーナさんは、しばらく動かなかった。


 それから、とがった耳の先だけが、みるみる赤くなった。


 「お、お母さん、ですか」


 「そうなの」


 「あの。それは、その……」


 声が、上ずっていた。何歳? ってわたしが聞いたときと、同じ声だった。


 「あなたにも、素敵なお母様がいたはずです。その方をないがしろにして私を母と呼ぶのは、違うと思います」


 ここは、わたしがなんとかしなきゃ。


 「シズちゃん、フィーナさんは年を気にしてるから失礼だよ!!」


 「……ハルカさん。いまのが、いちばん失礼です」


 「えっ、わたし!?」


 フィーナさんは、それには答えなかった。耳の赤いところが、さっきより広がっていた。


 「せめて、姉くらいにしていただけませんか。フィーねえ、とか……あねさま、とか」


 シズちゃんは、少し考えた。


 「……あねさま」


 口の中で、ためすみたいに言った。


 「あねさま」


 こんどは、はっきり言った。


 どこにも、つかえなかった。


 「フィーナ、さん」のときは、あんなにつかえていたのに。


 「……はい」


 フィーナさんは、そう答えて、シズちゃんの襟に手をのばした。


 直した。


 曲がってもいない襟だった。


 シズちゃんの黒い尻尾が、いちどだけ大きく揺れた。


 よかった。


 そう思って、わたしはフィーナさんの顔を見た。


 ……あれ。


 顔は、変わっていなかった。


 井戸でガロウさんと話したときも、丘の地下で火を点けたときも、帰りの馬車でリリーさんのとなりに座っていたときも。フィーナさんの顔は、ずっと同じだった。


 「……フィーナ、きょう、いっかいもわらってない」


 ルナちゃんだった。里の女の人に毛布ごと抱えられて、いつのまにか、すぐうしろまで来ていた。


 ルナちゃんの言うことは、いつもほんとうだ。


 「笑っててください、フィーナさん。こういうときは、笑ってるのがいちばんです。商売でもそうです」


 リーンちゃんが、さっきわたしに言ったのと同じことを、早口で言った。


 「……笑って、いますよ」


 笑ってなかった。


 どうしよう。笑わせるって、どうやるんだっけ。


 ……あ。


 知ってる。フィーナさんが、自分で言ってたんだ。井戸のところで、リリーさんに。


 とことん、相手の意表をつくこと。それから、笑顔。


 意表をつくなら、いちばん意表をつく人にやってもらえばいい。


 「シズちゃん!」


 「……なあに」


 「笑って!」


 「どうしてわたしなの」


 「いちばん笑わなそうだから! ほら、フィーナさんのために!」


 シズちゃんは、しばらくわたしを見ていた。


 それから、フィーナさんのほうを向いた。


 口の端が、持ちあがった。


 持ちあがったのは、口の端だけだった。目はそのままで、眉はまっすぐで、黒い耳はうしろへぺたりと寝ていた。


 「……シズ、こわい」


 ルナちゃんが言った。


 「シズちゃん、それ、にらんでる!」


 「笑ってるもん」


 「笑ってない!」


 「笑ってるもん」


 「にらんでるってば!」


 うしろで、リーンちゃんがこらえきれずに吹きだした。


 く、と音がした。


 フィーナさんだった。


 片手で、口を押さえていた。押さえきれていなかった。肩が、上下していた。


 それから、声が出た。


 小さい声だった。すぐに、小さくなくなった。


 フィーナさんの笑う声を、わたしは、はじめて聞いた。


 「笑った!」


 わたしは、フィーナさんの手をつかんだ。


 冷たかった。でも、井戸で桶を渡したときより、ちょっとだけあったかかった。


 「フィーナさんは、もう味方なんだからね!」


 フィーナさんは、目のはしを指でぬぐった。笑ったときに出たぶんだった。


 それから、わたしたちを順番に見た。シズちゃん。ルナちゃん。リーンちゃん。わたし。


 「……わたし、みんなに、ずいぶん心配をかけていたのね」


 「反省しないといけないわね……」


 「みんな、ありがとう」


 「いままで、心のどこかで思っていたの。リリーは、もう助からないんじゃないかって」


 「探しながら、ずっとそう思っている自分がいたのよ」


 6年。フィーナさんはそれを、たぶん、だれにも言わなかった。


 フィーナさんは、シズちゃんを見た。


 「でも、ほんとうに救えそうになったいま、もっと前を向いていこうと思うの」


 「旅に出るなら、ギルドで冒険者の登録をしておきたいわね。依頼を受けて、稼ぎながら進むのよ」


 「そうでもしないと、ふつうにお金がなくなって立ち行かなくなるわ」


 冒険者。


 また、胸がどきんとした。


 「じゃあ冒険者のことは、レスフィーナ先生に色々教えてもらわないと!! 経験のレベルが違うからね!」


 言ってから、気がついた。


 レスフィーナ。


 わたし、いま、はじめてその長い名前を呼んだ。


 「レスフィーナ先生……」


 リーンちゃんが、くり返した。


 「いいですね、それ。わたしも今日から、先生って呼ばせてもらいます。先生、よろしくお願いします」


 シズちゃんの尻尾が、ぱたんと揺れた。


 「冒険者の先輩として、ビシバシいくから。覚悟してね!」


 わたしは、口を開けたまま、フィーナさんを見ていた。


 しゃべりかたが、変わっていた。ですも、ますも、どこにもなかった。


 なんでかは、わからない。わからないけど、声がさっきよりずっと近かった。


 「フィーナさん、元気になってよかった!」

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