第33話 伝言係
馬車の上は、思っていたよりゆれた。
車輪が石を踏むたびに、お尻がちょっと浮く。浮いて、落ちる。
「……おしり、いたい」
幌の中の真ん中で、ルナちゃんが言った。毛布を重ねた上に寝かせてあるのに、それでも言った。
「わたしも! おそろいだね」
ルナちゃんが、毛布のすきまから少しだけ目を細めた。
お日さまがてっぺんまで来たころ、馬を休ませるために馬車が止まった。
止まったとたんに、フィーナさんが御者台から下りた。
下りて、馬のずっと前をひとりで歩いていく。少し行ってしゃがんで、地面に手を置く。また少し歩いて、また置く。
丘を下りるときにも、していたことだ。
戻ってきて御者台に上がると、馬車はまた動きだした。
「ハルカ」
うしろの端から、シズちゃんが言った。
「なに?」
「その人に言え。先を歩かなくていい、と」
わたしは、シズちゃんの顔を見た。
シズちゃんは、うしろを見ていた。馬車が動きだしてから、いちども前を向いていない。
「じぶんで言いなよ。すぐ前じゃん」
「わたしが言うと、命令になる」
……あ。
気にしてたんだ。「言え」とか「はじめから、ぜんぶだ」とか、そんなのばっかりだってわたしが言ったこと。
「じゃあ、やわらかく言えばいいじゃん」
「やわらかく、とは」
「『先に行かなくていいよ』って。ほら、言ってみて」
シズちゃんは、しばらく黙っていた。
「……先に、行かなくて、いい、よ」
真顔だった。
しかも、わたしに向かって言っていた。
「わたしに言ってどうするの!」
「おまえが言ってみろと言った」
「……言った。言ったけど!」
黒い耳が、ぱたんと伏せた。
御者台で、背中が少しだけこちらを向いた。
「……ハルカさん」
フィーナさんだった。顔は、前を向いたままだった。
「癖ですので、と伝えてください」
……聞こえてたんだ。そりゃそうだ。
「癖で血を流すな、と言え」
シズちゃんが、すぐに返した。やっぱり、うしろを向いたままで。
血。
わたしは、御者台の背中を見た。左の袖が、手首のところまできっちり下ろしてあった。
あの袖の下に、線がいっぱいあるのを、わたしは知っている。
「……少しだけです、と」
「少しだけ、はその人の口癖だ、と言え。薬草のときも、そう言った」
「……」
「もう!」
わたしは、両手を上げた。
「ふたりとも、すぐそこにいるじゃん! わたし、伝言係じゃないよ!」
荷台のすみで、リーンちゃんが吹きだした。
毛布の中で、ルナちゃんの肩が小さくゆれていた。
次の休みから、フィーナさんは馬車を下りなかった。
かわりに、御者台の上から、ずっと道の先を見ていた。
*
馬車は、それから2日走ることになる。
その晩は、道のわきで馬車を止めた。
ごはんは、リーンちゃんが作った。干した肉と水だけで、ちゃんとあったかいものが出てきた。
「どうやったの!?」
「干し肉は、朝から水に浸けておくんです。樽の中でゆられてるうちに、やわらかくなるので。それから薬草をひとつまみ入れます。旅の鍋はそうするものだって、父が言っていました」
しゃべりながら、手はもう器を並べていた。この子は、しゃべるのと手を動かすのが、いっしょにできる。
器を配ったのは、フィーナさんだった。
雇われた4人に配って、リーンちゃんに配った。シズちゃんのぶんは、わたしに渡してきた。
「シズさんに」
「……わたし、伝言係じゃないってば」
言いながら、ちゃんと持っていった。
ルナちゃんのぶんは、フィーナさんが自分で冷ましてから、口もとまで運んだ。
それで、おしまいだった。
鍋のそばに、器がひとつ残っていた。
「フィーナさん、たべた?」
「食べました」
「うそだ」
「食べました」
「……フィーナ、いつもそう言う」
毛布の中から、ルナちゃんが言った。
「17日いっしょにいたけど、フィーナがたべてるとこ、いっかいも見てない」
フィーナさんの手が、止まった。
……そうだ。この人といちばん長くいたのは、ルナちゃんなんだ。
「作った人の前でそれを言われると、ちょっと傷つきます」
リーンちゃんが、残っていた器によそって、フィーナさんの手に持たせた。
「それに、冷めると干し肉がまた固くなるんです。固くなったら、わたしの腕が悪いことになります。うちは、そういうので商売してるので」
「……いただきます」
フィーナさんは、ひと口のんだ。
「……おいしいです」
「でしょう!」
リーンちゃんの声が、いっぺんに明るくなった。
その日から、わたしはこの人の手元を見るようにした。
「あの、フィーナさん。薬草、なにが入ってるかわかりました?」
「3つですね。いちばん最後のは、苦いのを消すためのものでしょう」
「当たりです! どうしてわかるんですか」
「少しだけ、わかるんです」
「……ほら、出た」
うしろの端で、シズちゃんがわたしにだけ聞こえる声で言った。
「父だって、はじめは当てられなかったんですよ。お若いのに、どこで習ったんですか」
お若いのに。
わたしは、つい言ってしまった。
「フィーナさんね、10代後半なんだって」
「……ハルカさん」
「10代後半で、そんなにお詳しいんですか!」
「……ええ。そう、ですね」
「でもね、人間のじゅうばい生きるんだって」
「ハルカさん」
さっきより、声がちょっと低かった。
リーンちゃんは、もう指を折っていた。商売をしている家の子だ。数えるのは、たぶん、わたしよりずっと速い。
「じゅうばい生きて、10代後半ということは……」
「リーンさん。おかわりは、ありますか」
フィーナさんが、器をさしだした。
からっぽだった。さっきまで、ひと口ずつだったのに。
毛布の中で、ルナちゃんの肩がまたゆれていた。
*
その夜は、幌の中で寝た。ルナちゃんを、真ん中にして。
夜中に、目がさめた。
となりが、からっぽだった。
シズちゃんは、うしろの端に座っていた。昼間とちがって、前を向いていた。幌のすきまから、道の先を見ていた。
「……ねないの?」
「行った」
「え?」
「あの人が、また先を歩いている」
わたしは、目をこすって外を見た。
暗い道のずっと先で、なにかがしゃがんで立って、また少し先でしゃがんだ。
「……血の匂いがする」
シズちゃんが、鼻にしわを寄せた。
「言うことを聞かん人だ」
「……シズちゃんに言われたくないと思うよ」
「なぜだ」
「半月寝ないで、ごはんも食べないで、リーンちゃんに叱られてた人はだれですか」
黒い耳が、横にたおれた。
「……それとこれとは、ちがう」
「おなじです」
シズちゃんは、しばらく道の先を見ていた。
「ハルカ」
「うん」
「ルナが、はじめてわたしに話しかけてきた日のことを、覚えている」
声が、昼間よりずっと小さかった。
「わたしは、人が来るとよそへ行く子どもだった。ルナが来ても、そうした。何度もそうした」
「うん」
「ある日、よそへ行こうとしたわたしに、あの子が言った」
「……なんて?」
「それは、言わん」
「えー!」
「言わん」
尻尾が、床をいちど打った。ぜったい言わない、の打ち方だった。
「あのやり方を、ルナに教えたのはリリーだ。リリーに教えたのは、あの人だ」
シズちゃんは、暗いほうを見たまま言った。
「あの人は、井戸で思いつきを言っただけだと言った」
「……うん。言ってた」
「わたしは半月、あの人を憎むつもりで歩いてきた」
「……うん」
「その人が、わたしのいちばん良い日の、いちばん最初にいた」
わたしは、なにも言えなかった。
あの晩、フィーナさんの話を聞きながら、わたしもそこに気がついていた。気がついて、言わないでいた。
フィーナさんだけが、まだ気がついていない。
「それ、フィーナさんに言おうよ」
「言いかけた。あの人は、なにもしていないと言った」
「……」
「何度言っても、同じことを言う。そういう人だ」
シズちゃんの声が、少しかすれた。
「礼を受け取らない人に、なにを返せばいいのか、わたしにはわからん。わからんから、顔を見るとなにも出てこなくなる」
……そっか。
怒ってるんじゃない。それは、昼間からわかっていた。
見られないんだ。見たら、なにか言わなきゃいけなくなるから。
「じゃあ、それまで、わたしが伝言係やってあげる」
「昼は、やらんと言った」
「昼は昼!」
わたしは、シズちゃんの前に小指を出した。
「でも、いつかは、じぶんで言うんだよ。ちゃんと前を向いて」
シズちゃんは、わたしの小指を見ていた。
「……いつかは」
シズちゃんの小指が、からんできた。
道の先の影が、こっちへ戻ってくるのが見えた。
シズちゃんは、くるりとうしろを向いて、刀を抱えて目を閉じた。
……うそ寝だ。すごく、へた。
フィーナさんは、幌の中へ入ってこなかった。入り口のところに腰を下ろして、外を向いた。
右手で、左の手首をおさえていた。
「フィーナさん。中、入りなよ。あったかいよ」
「……ここで、けっこうです」
「なんで?」
「知らない顔が近くにいたら、休めないでしょう」
……あれ。
それ、聞いたことがある。
「……それ、リリーさんのときも言ってたやつだ」
フィーナさんの肩が、止まった。
だから、わたしも、リリーさんと同じことを言った。
「フィーナさん、こっち来なよ」
フィーナさんは、振り向かなかった。
「……先を、見てきますね」
「それも言ってたやつ!」
毛布が、もぞりと動いた。
「……フィーナ」
ルナちゃんだった。いつから起きていたのかは、わからなかった。
「……さむい」
フィーナさんは、答えなかった。
「フィーナのかおなら、こわくないよ」
リリーさんが言ったのと、おんなじ言葉だった。
フィーナさんが、振り向いた。
暗くて、顔はよく見えなかった。見えなかったけど、ずいぶん長いこと、そのままでいた。
それから、そっと幌の中へ入ってきた。ルナちゃんの、すぐとなりに。
ルナちゃんの指が、その袖をつまんだ。つまんだまま、すぐに寝息になった。
うしろの端で、黒い尻尾が、ぱたんと床を打った。
……うそ寝、ほんとうにへた。
*
次の日、わたしは幌の中を前のほうへ這っていって、御者台のうしろから顔を出した。
「フィーナさん」
「……はい」
「ずっと前ばっかり見てるね」
フィーナさんは、手綱を持っている御者の人のとなりで、ひざの上に手を組んでいた。
「シズさんは、まだ、私の顔を見たくないでしょうから」
思っていたのとちがう答えが、来た。
「あの晩、泣かせてしまいました。リリーのことを、思い出させて」
「私が前にいれば、あの人はうしろを見ていられます」
……ちがうよ。
言いそうになって、ゆうべの小指を思い出した。
「……ちがうと思う」
「では、どうして」
「それは、シズちゃんがじぶんで言うって。やくそくしたの」
フィーナさんは、少しだけ首をかしげた。わかっていない顔だった。
……うん。わかってないのは、この人だけなんだ。
「フィーナさん、白狼族の里、行ったことあるんだよね」
「井戸のところまでなら。囲いの内には、入ったことがありません。よその者を入れない里ですから」
「6年、ずっと?」
「変えた顔でなら、何度も行きました。この顔で行くのは、リリーがいなくなってから、はじめてです」
「……こわい?」
前にも、同じことを聞いた。そのとき、この人は、こわかったですと言った。
「こわいです」
こんども、そう言った。
「どうしてか、ハルカさんには、そう言ってしまいますね」
フィーナさんは、少しだけ息を吐いた。
「それに、あの里が半月さがしていた人間の女は、ハルカさんではありません。あの夜の、私です」
「え」
「ですから、着いたら私が前に出ます。あの夜のことは、私が話します」
「だめ!」
声が、大きくなった。ルナちゃんが、毛布の中で目を開けた。
「そんなことしたら、フィーナさんに槍が向くじゃん!」
「向くところに、向くだけです」
フィーナさんは、ぜんぜん声を変えなかった。
この人は、ほんとうに、よけないつもりなんだ。
「シズちゃん!」
わたしは、うしろへ向かって叫んだ。
「聞こえていた」
シズちゃんは、やっぱり、うしろを向いたままだった。
「ハルカ。出るな、と言え。わたしが名乗る。里の者は、わたしの顔を知っている」
「あの夜のことは、話さんでいいと言え」
「……それでは嘘をつくことになります、と伝えてください」
「嘘ではない、と言え。ルナを連れていこうとしたのは、北から来た者たちだ。その人は、それより先に走っただけだ」
シズちゃんの声が、そこで少し低くなった。
「それに、その人は槍が来てもよけない。わたしは、それを見たくない、と言え」
わたしは、口を開けたまま、フィーナさんのほうを向いた。
伝えなくても、ぜんぶ聞こえている近さだった。
フィーナさんは、前を向いたままだった。ひざの上で組んだ手に、少しだけ力が入っていた。
しばらくして、言った。
「……聞かれたら、答えます。聞かれなければ、黙っています。それでよろしいですか、と」
「それでいい、と言え」
「もう! ぜんぶ聞こえてるってば!」
*
昼すぎから、シズちゃんは寝ていた。
本人は、寝ていないと言う。
目は、閉じていた。車輪がはねるたびに頭が少しずつかたむいて、そのうちわたしの肩にこつんと乗った。
「……ねてる」
ルナちゃんが言った。
「ね!」
「寝ていない」
肩の上から、声がした。
「目、つぶってたもん」
「耳で見張っていた」
「耳で!?」
「白狼族は、耳で見張る」
「……みはってない」
ルナちゃんだった。
「シズ、ねてるとき、みみがたれるの。いまも、たれてた」
「……ルナ」
「ほんとだもん」
「たれてました」
リーンちゃんまで言った。
シズちゃんは、わたしの肩から頭を上げて、3人を順番に見た。
「……3人がかりか」
「3人がかりです!」
リーンちゃんが、なぜか胸を張った。
シズちゃんは、なにか言い返そうとして、口を開けた。
「……ちがう、と、言って……」
語尾が、途中で溶けた。
頭が、また肩に乗った。こんどは、ほんとうに寝息だった。
わたしは、動かないようにした。半月ぶんの眠りが、いま、肩の上にある。
御者台で、フィーナさんが振り向いた。
はじめてだった。馬車に乗ってから、この人がうしろを見たのは。
シズちゃんの寝顔を見て、少しのあいだ、そのままでいた。
「……寝かせてあげてください」
小さい声だった。
わたしは、うなずいた。うなずいて、気がついた。
この2人は、相手が見ていないときにしか、相手を見ないんだ。
ゆうべのシズちゃんがそうだった。いまのフィーナさんが、そうだ。
……ほんとうに、ふたりとも、すぐそこにいるのに。




