第32話 届かない声
外は、まだ暗かった。
洞窟の口のところで、わたしはいちど振り返った。
うしろは、まっくらだった。灯りは点いていない。2週間、点けていないんだって、フィーナさんが言っていた。点けたら、見つかるから。
その暗いところに、23人いる。
だれも、出てこなかった。出てこられないんだ。
わたしは、手を振った。
振ってから、見えないよなと思った。
……うん。わたし、ぜんぜんだめだ。
「またくるね!」
暗いほうへ、言ってみた。
返事は、なかった。声を出したら、見つかるからだ。
わたしたちは、これから北の丘を下りる。
ルナちゃんを、おうちに返しに行く。
それから、この23人を出すのを手伝ってくださいって、頼みに行く。
行き先は、白狼族の里だ。
……半月のあいだ、わたしをさがしていた里だ。
*
「ルナちゃん、おんぶ」
わたしは、しゃがんだ。
「……はるかが?」
「うん。わたし、レベル12だから」
「……れべる」
「すっごく、つよいってこと!」
ルナちゃんは、しばらく考えていた。それから、わたしの首に腕をまわした。
軽かった。ほんとうに、軽かった。
わたしの上着は、ゆうべからこの子にかかったままだ。
あったかいほうの、と、この子は言った。
シズちゃんが、手を出していた。ルナちゃんの背中へ、まっすぐ伸びた手だった。
途中で、止まった。
肘のところが、震えていた。それから、その手は下りた。
シズちゃんは、半月、寝ていない。ごはんも食べていない。
言ったら、たぶん、そこで折れる。だから言わない。
「シズちゃん」
「なんだ」
「刀、持ってて」
「……持っている」
「うん。じゃあ、いいや」
シズちゃんの黒い耳が、ぴくりと動いた。動いてから、ぱたんと伏せた。
フィーナさんが、先に立った。
洞窟の口を出て、そのまま斜面のほうへ下りていく。
いちどしゃがんで、地面に手を置いた。少し歩いて、また置いた。
なにが起きたのかは、わからない。そのかわり、あとから通る人が、こわいものに会わない。
シズちゃんは、うしろからそれを見ていた。なにも言わなかった。
*
斜面の途中で、フィーナさんが立ち止まった。
下のほうに、小さな灯りがゆれていた。こっちへ、上ってきていた。
「……ふせて」
フィーナさんの声が、はじめて低くなった。シズちゃんの手が、刀の柄にかかった。
灯りは、止まった。
それから、声がした。
「はるかちゃーん」
遠かった。細かった。まん中が、風に持っていかれた。
……いま、なんて。
知っている声のような気がした。知らない声のような気もした。
もういちど、聞こえた。
「はるかちゃーん」
こんどは、短かった。息が、続かなかったんだと思う。
「……ハルカ」
シズちゃんの手は、柄から離れていなかった。
わたしは、返事をしなかった。したかったのに、口が動かなかった。
半月、わたしの名前を大きい声で呼ぶ人は、ひとりもいなかった。
灯りが、また動きはじめた。
途中でいちど転んで、また立って、また上ってきた。
……あ。
その転びかたを、わたしは知っていた。
「リーンちゃん」
小さい声だった。届かなかったと思う。
届かなかったのに、灯りは、まっすぐこっちへ来た。
「……ハルカちゃん?」
顔が、見えるところまで来ていた。
「ハルカちゃんだ!」
*
走らなきゃ、と思ったのに、足が出なかった。
いつも走るのは、わたしのほうなのに。
リーンちゃんは、最後の数歩でつまずいて、そのまま倒れこんできた。
わたしは、片手で受け止めた。もう片方は、ルナちゃんの足を持ったままだ。
そのまま、抱きつかれた。息ができないくらい、強かった。
「……ただいま」
「よかった、よかった、よかった」
鼻の奥が、つんとした。
上を向いた。上を向いても、なんにも見えなかった。まだ暗いからだ。
それから、ぱっと離れて、わたしの顔を両手ではさんだ。
「怪我は。どこか痛いところは。頭は打ってませんか」
「打ってない」
「ほんとうに?」
「ほんとう」
灯りを目のところまで持ってきて、やっと息をついた。それから、すぐ顔を上げた。
「……シズさん」
灯りが、そっちへ動いた。こけた頬に、光が当たった。
「いつから、食べてないんですか」
「……問題ない」
「聞いてません。いつからですか」
「……」
この人は、心配のされかたを、知らないんだ。
「寝てもいませんね。目の下が、そういう色です」
シズちゃんは、答えなかった。
答えないで、顔を横へ向けた。灯りから、逃げるみたいに。
「下に、鍋があります。あったかいのを、いちばんに」
「あとでいい」
「あとじゃないです」
「……わかった」
わかった、なんて、この半月でいちども聞いてない。
それから、灯りは、わたしの背中へ来た。
「……その子」
ルナちゃんは、目を半分だけ開けたまま、動かなかった。
「腕が」
「うん」
「足も」
「うん」
「……この子、歩けないんですね」
「うん」
リーンちゃんは、それ以上、聞かなかった。
上着を脱いで、ルナちゃんの背中にかけた。
自分は、薄いのが1枚になった。
「寒くないの」
「走れば、温かいので」
走る話なんて、していないのに。
こわがるかと思った。こわがらなかった。
ルナちゃんは、かけられた上着の端を指でつまんで、離さなかった。
*
「リーンちゃん」
「はい」
「なんで、ここにいるの」
言ってから、自分でびっくりした。
ここは北の丘だ。ヴェルデから、何日もかかる。
リーンちゃんは、ものすごい早口になった。
「だって、ゾフスの懸賞金、ぜんぶうちにくれたじゃないですか」
「え」
「ぜんぶですよ。父の薬代だからって、1枚も残さないで」
あのときは、ほかに使い道がなかっただけだ。
「あんなの、もらいっぱなしにできるわけないです」
「……そっか」
「それで、あちこちで聞いて回ったんです」
声が、そこで少しだけ落ちた。
「人がぽつぽつ消える村だって。入った冒険者が、何人も帰ってきてないって」
「うちの帳面に、名前が2つあるんですよ」
「だから、冒険者を雇いました。4人。ちゃんとギルドを通して」
「やとった」
「はい。援護です。うちには、弓しかないので」
……下の灯りに、見たことのある顔が、2つあった。
「みんないなくなる村だって、聞いたんです」
リーンちゃんは、丘の上のほうを見た。
「だから、すごい魔物でもいるんだと思って」
「……なんにも出てこなくて。ほんとうに、よかった」
いなかったわけじゃない。
いま、いないだけだ。
でも、それは言わなかった。
*
リーンちゃんは、帳面を出して、指でたどった。
わたしには、字が読めない。でも、線が2本ひいてあるのは、見えた。
途中で、止まっている。引きかけて、やめたんだ。
「これ、なに」
「……なんでも、ないです」
「……またあした、って、言いましたよね」
「うん」
「……ずいぶん、長いあしたでした」
*
ふもとに、馬車が3台あった。馬が6頭。
「何人いるか、わからなかったので」
リーンちゃんが言った。
「出せるだけ、出しました」
荷台には、麻の袋がぎっしり積んであった。
「食べ物と、あとは要りそうなものです。塩と、油と、毛布と、薬草も」
リーンちゃんが、少し離れて立っている人のほうを見た。
「あの。薬草、積んできました。傷にも、熱にも」
「……ええ」
フィーナさんが、こっちを向いた。
「乾かしてありますか」
「はい。日に当てないで、風だけで」
「……いい乾かし方です」
リーンちゃんが、ちょっと目を丸くした。
「わかるんですか」
「少しだけ」
少しだけ、じゃないと思う。
でも、フィーナさんはそれ以上言わなかった。
馬車のそばに、灰の山があった。
1、2、3……。
6つ、あった。
わたしは、そこで数えるのをやめなかった。
6日。
毎日、あの斜面を上って、下りたんだ。
馬車のそばの人たちは、もう荷を積み直していた。けさ、帰ることになっていたんだ。
あの声は、最後の1回だったんだ。
フィーナさんが、丘の上を見上げた。
「……ここは、下ろせません」
わたしも、上を見た。洞窟の口は、あの斜面のずっと上だ。馬車は、上れない。
なら、23人が下りてくるしかない。歩ける人が、そんなにいないのに。
板もない。担ぐ腕も、ここには足りない。
「乗れる乗れないの、前だ。先に、人が要る」
シズちゃんが言った。
だれも、言い返さなかった。
「じゃあ」
わたしは言った。
「先に、ごはんだけ上げよう」
*
その前に、リーンちゃんは鍋のところへ行った。
器に入れて、シズちゃんに持たせた。
「持ってるだけじゃ、だめですよ」
シズちゃんは、器を見ていた。
ずいぶん長いこと、見ていた。
それから、いちど、口をつけた。
……あ。
肩が、下がった。
半月ずっと、上がりっぱなしだった肩だった。
2口目までが、長かった。
3口目からは、早かった。
わたしは、見ないふりをした。
見ていたけど、見ないふりをした。
器が空になったとき、シズちゃんが小さい声で言った。
「……すまん」
「あやまるところじゃないです」
リーンちゃんは、もう2杯目をよそっていた。
袋を担いで、斜面を上った。ルナちゃんは、下に置いてきた。
雇われた4人は、途中までしか来なかった。
1回では、足りなかった。2回でも、足りなかった。
フィーナさんが、袋をひとつ担いだ。
そこで、リーンちゃんが横から手を出した。
「持ちます」
フィーナさんの手が、止まった。
袋の紐を握ったまま、止まっていた。
「……いえ」
「2人のほうが、早いので」
それだけだった。理由でも、優しさでもなかった。ただの、商売の言い方だった。
フィーナさんは、紐から指を離した。
離すのに、少しかかった。
6年、この人はここへひとりで運んできた。
だれも、その袋に手を出したことがない。
いま、袋の片方の端を、知らない子が持っている。
フィーナさんは、なにも言わなかった。
言わないで、空いたほうの手を、いちど見た。
わたしは、それを見ていた。
4回目に、洞窟の口のところで足が止まった。
……わたし、ほんとうに、またきた。
袋を下ろす音で、暗いほうがざわりと動いた。
「……たべものです」
返事は、なかった。
でも、暗いところで、なにかが起き上がる音がした。ひとつ、ふたつ。それから、もっと多く。
リーンちゃんが、鍋のふたを取った。湯気が出た。
暗いところの奥で、顔が動いた。湯気のほうを、見ていた。
だれも、こっちへは来なかった。来られないんだ。
だから、わたしたちが持っていった。
最初のひとりは、おばあさんだった。
器を受け取る手が、震えていた。こぼれるかと思って、わたしは下から支えた。
「熱いよ」
おばあさんは、なにも言わなかった。
言わないで、器のふちに口をつけて、そこで動かなくなった。
しばらくして、飲んだ。
2週間、この人たちのところには、なにも届いていない。フィーナさんが分けていた、あの少しのほかは。
次の人は、器を両手で持った。
その次の人は、こぼした。こぼれたぶんを、指で拾おうとした。
「まだ、あるよ」
わたしは、そう言った。
「いっぱい、あるから」
言ってから、自分の声が変になっているのに気がついた。
「……持っていって、いいんですか」
だれかが、そう言った。
「え」
「これ、ぜんぶ。持っていって、いいんですか」
毛布を1枚、抱えたままの人だった。
抱えたまま、下ろせないでいた。
「いいよ」
わたしは言った。
「その人の、ぶんだから」
その人は、毛布を胸のところで押さえた。
押さえて、そのまま動かなくなった。
小さい子が、ひとりいた。
いちばん先に、器を受け取った。
受け取って、飲まないで、うしろへ持っていった。
寝ている人の口もとに、それを持っていった。
わたしは、そこで顔を上げた。
上げて、天井を見た。土の天井だった。なんにも書いてなかった。
リーンちゃんは、その奥をしばらく見て、なにも言わないで袋の口を開けにいった。
「ハルカちゃん、そっち持ってもらえますか」
声が、ふつうだった。わざと、ふつうにしているんだと思った。
毛布を配った。薬草は、フィーナさんに渡した。塩の袋は、いちばん奥まで運んだ。
油の樽は、いちばんうしろに置いた。フィーナさんが、首を横に振ったからだ。
「……点けられません」
油があるのに、点けられない。
フィーナさんが、暗いほうへ短く言った。迎えに来ます、と。
いつ、とはだれも聞かなかった。
聞かれなかったぶんが、いちばん重かった。
ぜんぶ運び終わったとき、わたしは斜面の途中で座りこんだ。
立てなくなったわけじゃない。足が、勝手に止まっただけだ。
半月、いちども座らなかった気がする。
座ってみたら、手が震えていた。
……いま、震えるんだ。
こわいときは、震えなかったのに。
*
「フィーナさん」
「……ええ」
「あの人たち、ぶじ、かな」
フィーナさんは、しばらく黙った。
「ひと月は、もちます」
ひと月。
わたしは、その数を、口の中でもういちど言った。
ひと月あれば、いい。
ひと月も、かかっちゃだめだ。
斜面を下りたところで、シズちゃんがリーンちゃんへ手を出した。
リーンちゃんは、いちどまばたきをして、その手を握った。
握ってから、シズちゃんとフィーナさんを、順に見た。
2人は、並んで立っていた。並んでいるのに、目は合っていなかった。
フィーナさんは、なにもしていない。ただ、立っている。
合わせられないのは、シズちゃんのほうだ。
「……なにか、あったんですか」
「わたしも、まだ、わかんない」
リーンちゃんは、それで引き下がった。
ルナちゃんが、リーンちゃんの上着の端を、指で引いた。
「……ありがと」
声は、ほとんど出ていなかった。
リーンちゃんは、しゃがんで、その手をとった。
「どういたしまして」
ちゃんと、聞こえてたんだ。
*
馬車が動きだしたのは、その日の昼すぎだった。
ルナちゃんは、幌のある1台目に寝かせた。
シズちゃんは、荷台のうしろの端に座った。刀を抱えて、来た道のほうを向いた。
フィーナさんは、いちばん前の台の、御者のとなりで、ずっと前を向いていた。
わたしは、荷台のうしろから丘を見ていた。
斜面のずっと上に、洞窟の口がある。黒い、細い線みたいに見えた。
あそこに、まだ23人いる。
食べものは、置いてきた。毛布も、薬草も、油も。
油は、点けられない。
だから、あの線のむこうは、いまも、まっくらだ。
けさ、わたしは「またくるね!」って言った。
言ったとおりに、いちどは戻った。
でも、あれは、またきた、だ。
またくる、じゃない。
……もういちど、戻らなきゃいけない。
丘が、だんだん小さくなって、そのうち、木のむこうに隠れた。
隠れる前に、もういちど言った。
「またくるね」
こんどは、届かない声だった。
届かない声で言ったぶんは、じぶんで覚えておくしかない。




