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転生少女と黒狼姫 〜女神に選ばれた少女と、掟破りの狼族戦士〜  作者: 白川雫


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第31話幕間 レスフィーナ 続

 ルナは、いまも、リリーが冒険に出たのだと思っています。別れも言わずに行ってしまった、と。17日、私はそれを言い直せませんでした。


 「……そのころだ」


 黒い髪の子が言いました。声が、平らでした。平らすぎました。


 「なにがですか」


 「あの子が、急に静かになった。村の者は、みな気づいていた」


 「……そうでしたか」


 「みな、そのうち戻ると言った。戻らなかった」


 床についた手が、動きました。指が石の粉をつかんで、また開きました。つかんだことに、気づいていないようでした。


 それ以上は、聞きませんでした。聞いたところで、戻せるものがありません。


 誰も悪くありません。あの人たちは、いちばん手のかからないものを選んだだけです。


 恨む先が、どこにもありません。


 6年、私は恨む先を探しました。見つからないので、恨む先を自分にしました。自分を恨んでも、リリーは戻ってきません。それで、戻す方法のほうを探すことにしました。


 「体と魂を、分けられました」


 「……分ける」


 「体は、あります。魂だけが、どこかへやられているんです」


 私は、冒険者をやめました。知り合いのエルフに術をかけてもらって、顔を変えて、教団に入りました。中に入るためではありません。外へ出るためです。村へ寄るとき、教団の者に見られても、中の私とつながらないように。


 半年、鏡を見ませんでした。


 「……こわくない?」


 人間の娘が言いました。こわい、という言葉がそこで出るとは思いませんでした。


 「こわかったです」


 言ってから、こんなことを言うつもりはなかったと思いました。


 顔を変えてからも、あの村へは寄りました。6年、月に1度か2度です。姿は見せません。足りないものを、置いて帰るだけです。


 下の研究班から入りました。リリーの魂の行き先を知っているのは、いちばん上の者だけです。役に立たなければ、上へは近づけません。陣を組み直して、術式を短くして、教える側になりました。


 褒められました。


 褒められるたびに、頭を下げました。もっと働きますと言いました。言いながら、この人たちがリリーを連れていった側なのだと、毎回思い出していました。


 「術は、血で動くんです」


 私は、左の袖をまくりました。息を吸う音が、聞こえました。


 ひじから手首まで、線があります。古いのは白く、新しいのは赤い。数えたことはありません。数えたら、続かなくなりますから。


 「じぶんの血?」


 「ええ」


 「いたくないの?」


 「痛いです」


 それ以上は、聞かれませんでした。かわりに、自分の掌を見ていました。この娘も、なにか持っているようです。


 「道の匂いは、それか」


 黒い髪の娘が言いました。私は、顔を上げました。


 「村から北へ、道を隠して歩きました」


 「隠す術も、血で動きます。いちど通るたびに、少しずつ」


 「何度、通った」


 「数えていません」


 「……そうか」


 6年前の雪の山で、先を歩いたときも、おなじことをしました。あのとき、リリーは知りませんでした。


 私の匂いを、この人は半月かけて追ってきました。追ってきた先に、この腕がありました。袖を、下ろしました。


   *


 「17日前に、紙を見ました」


 「名前が並んでいる紙です。研究班には、回ってこないものです」


 「そこに、ルナと書いてありました」


 「白狼族。11歳。3つ並んでいました」


 6年前に、毎日その名前を聞いていました。会ったこともない名前です。


 私は、教団を出ました。戻るつもりは、ありませんでした。その足で走って、それでも間に合いませんでした。


 着いたときには、もう囲まれていました。斬りませんでした。斬る腕を、私は持っていません。目をずらして、いない者のほうへ行かせました。そのあいだに、抱えて出ました。


 追ってくる者が、ひとりだけいました。鼻のいい相手でした。目をずらしても、匂いまでは消えません。脚に力を足して、振り切りました。顔は、変えたままです。


 あの夜に振り切ったのが、いま目の前に立っている人だと、さっき分かりました。


 「隠れ家で、ルナが目を覚ましました」


 「私を見て、フィーナ、と呼びました」


 「……会ったことが、あったのか」


 「いちどもありません」


 「リリーが、話していたのでしょうね」


 ここからが、言わなければならないことです。私は、さっき礼を受け取りました。受け取れないと言ったのに、受け取れと言われました。受け取ったものは、返さなければいけません。


 「地下にかくまった人たちのことです」


 「教団には、飼っているものがいます」


 「あれを生かしておくのに、人が要るんです。決まった日に、決まった数を」


 部屋が、静かになりました。


 私は6年、その数を書いた紙を見たことがありませんでした。おなじ建物の中にいて、6年、見ませんでした。17日前に、はじめて見ました。ルナの名前の下に、知らない人たちの名前が並んでいました。


 「なにに、あげるの」


 人間の娘が言いました。言ってから、自分が何を聞いたのか分かった顔をして、口を両手でふさぎました。


 私は、答えませんでした。答えたら、今夜、眠れなくなります。


 「私は、あの人たちを先に連れていきました」


 「紙より先に走って、地下へ入れました」


 紙に名前のあった人は、ひとりも残していません。腕の傷は数えませんでした。人の数は、数えました。


 「なぜ、教団の中だ」


 「外へ出せば、道で見つかります」


 「あの建物の中なら、真上を歩かれても目がそれるんです」


 いちばん近い場所が、いちばん探されない場所でした。それでも、見つかると思わない日は、いちどもありませんでした。毛布は足りません。火も焚けません。水は、壁からしみるぶんだけです。


 「それでも、地下のほうがましでした」


 そこで、いちど止まりました。止まらずに言えば、良い話に聞こえてしまいます。


 「それだけでは、ありません」


 「あの人たちが地下にいれば、数が足りなくなります」


 「足りなければ、あれが飢えます」


 「どんなに大きなものでも、食べなければ死ぬんです」


 ぱち、と火が鳴りました。


 「……人を助けるためでは、ないのか」


 声が、低くなりました。


 「両方です」


 私は、その顔を見て言いました。


 「助けたかったんです。あれを、飢えさせたかったんです」


 「おなじ手で、両方やったのよ」


 「わけられません。わけられたら、楽なのですけれど」


 「あれにも、術はかけました」


 「洞窟から出られないようにしたんです。隠し部屋のほうへも、行けません」


 「はじめは、何匹もいました」


 いま、生きているのは一匹だけです。


 残りは、待っていたら、いなくなりました。私はそのあいだ、地下へ配るものを運んでいました。運びながら、数が減るのを数えていました。


 「あと少しでした」


 「もう少しで、最後の一匹も、いなくなるはずだったんです」


 「だから、礼は受け取れなかったんです」


 「あの人たちが私に手を合わせるのは、半分しか知らないからです」


 黒い耳が、ゆっくり下りました。


 この人は、私を悪人だと決めたくて、ここまで歩いてきました。いま、私は自分の手で、決めやすくしてあげました。それなのに、顔は楽になっていませんでした。


 「あの村の者を逃がしたのは、あなただ」


 「……逃げ道を、先に見ておいただけです」


 部屋が、静かになりました。


 「わたしは、あなたの外側だけを見て、半月歩いた」


 「さらう側だと思った。次に、助ける側だと思った」


 「どちらも、あなたの表だ。裏は、いま、はじめて聞いた」


 私は、なにも言いませんでした。裏と言われたものを、私は裏だと思っていません。あれが、私です。表のほうが、借りものです。


 「なぜ、そこまでして自分を悪くする」


 私は、答えませんでした。


 「言え」


 「……良い人だと思われたら」


 喉が、狭くなりました。


 「私は、楽になります。楽になったら、足がゆるむんです」


 「6年、ゆるめなかったのよ」


 目が、伏せられました。伏せて、しばらく上がりませんでした。なにか言うだろうと思いました。言いませんでした。


 この人も、おなじことをしているのだと、そのとき気がつきました。


 「わたし、わかってたよ」


 人間の娘でした。


 「なんで」


 「わかるもん。そういう顔してたもん」


 「……理由に、なっていない」


 「うん」


 平気な顔で、言いました。


 「でも、あってたでしょ」


   *


 袖が、引かれました。とん、と軽い重さでした。


 ルナが、目を開けていました。まぶたが重そうでした。いま浮かんできたばかりの顔です。


 私は、息を吐きました。


 間に合いました。


 「……フィーナ」


 「起きましたね」


 「……のど、かわいた」


 その手が、私の袖を握っていました。まくった跡のある、そちらの袖を。


 「ごめんね」


 私は、首を振りました。


 「……あなたが謝ることは、ひとつもありませんよ」


 「フィーナも」


 息が、止まりました。


 この子は、いま、私の言葉をそのまま返しました。


 5つのころから、そういう子だったと、リリーが言っていました。笑いながら、言っていました。


 「フィーナさん」


 人間の娘が言いました。鼻の頭が、赤くなっていました。


 「ごはん、食べてないでしょ」


 「……え」


 「顔でわかるもん。シズちゃんとおなじ顔してる」


 私は、なんと返せばいいのか分かりませんでした。


 地下にいたあいだ、配るものはいつも足りませんでした。買いに行くのも、運ぶのも、分けるのも、ぜんぶ私ひとりでやりました。手伝える者は、ひとりもいませんでした。あの日も、買いに出ていました。戻るのが、遅れました。


 足りないものを配るとき、いちばん簡単なのは、自分の分をなくすことです。誰にも言いませんでした。6年、そういうことを言われたことも、ありませんでした。


   *


 人間の娘が、ルナに水を飲ませていました。飲ませ終わって、こちらへ向き直りました。


 「……あれ」


 指を、折りはじめました。


 「6年前に、村に行ったんだよね。その前に3年、いっしょに冒険したんだよね」


 「ええ」


 「その、もっと前に、リリーさんを助けてるんだよね。ちっちゃいときの」


 「……ええ」


 指が、足りなくなったようでした。両手を広げて、しばらく見ていました。それから、顔を上げました。


 「フィーナさんて、何歳?」


 私は、なにも持っていませんでした。持っていたら、たぶん落としていました。


 「……え」


 「何歳?」


 「あの。その」


 声が、上ずりました。


 「私のような……エルフは、人間の方の、10倍以上は生きますので」


 「じゅうばい」


 「ですから、その、聞いたら、びっくりしますよ」


 優しく言ったつもりでした。人間の娘は、まったく引きませんでした。


 「じゅうばい……えっ、じゃあ、じゃあ……」


 「あ、で、でも」


 私は、手を前に出しました。


 「人間の方と、おなじ換算をしますと」


 「かんさん」


 「……そんなに、変わりません。大丈夫です。ええ。そんなには、変わりませんから」


 「そんなにって?」


 「……二十代の、後半くらいには」


 言ってから、少し多めに引いたことに気がつきました。ここには、確かめられる人がいません。


 人間の娘は、私の顔をじっと見ていました。それから、うんうん、と2度うなずきました。


 「そっかぁ。おばさんなんだね」


 「——」


 「わたし、おばさん、好きだよ」


 用意していないところから、来ました。


 「……お、おばさんでは」


 「え、でも、二十代の後半でしょ」


 「後半、です」


 「じゃあ、おばさんだよ」


 「……」


 「あ、いい意味だよ! すっごく、いい意味!」


 「……お」


 「お?」


 「……お姉さん、です」


 言ってしまってから、うつむきました。


 人間の娘が、首をかしげました。それから、また指を折りはじめました。


 「え? でも、わたしの倍くらいあるよ?」


 「……」


 「お姉さんって、少し年上くらいじゃないの?」


 悪気は、ありませんでした。この娘は、数えているだけです。


 「あ」


 私は、手を上げました。


 「言い間違えました! いまのは、言い間違えです!」


 「うん?」


 「人間で言うと、10代後半くらいです」


 口の端が、うまく動きませんでした。笑っているつもりでした。


 「10代後半!」


 「……はい」


 「うん。わかった!」


 わかっていない顔でした。


 私は、自分の頬に手をやりそうになって、やめました。


   *


 それから、人間の娘は、黒い髪の子のほうを向きました。


 「シズちゃん」


 「なんだ」


 「フィーナさん、完全にいい人じゃん」


 黒い耳が、ぴくりと動きました。


 「シズちゃん、そんな口の利き方だめだよ」


 「……」


 「『言え』とか、『はじめから、ぜんぶだ』とか。ずっとそんなのばっかりだったもん」


 「……あれは」


 「もっともっと、敬わないと!!」


 人間の娘は、そこで鼻をすすりました。もうこすらなくていいくらい、鼻の頭が赤くなっていました。


 「わたし、話きいてて、涙がでてくるもん」


 私は、下を向きました。


 「こんなにも素敵な人、わたしは知らないよ?」


 そんなことを、まっすぐ言われたことがありません。


 6年、私は、言われないように生きてきました。言われたら、足がゆるみますから。


 いま、少しゆるみました。


 「それに!」


 人間の娘が、指を立てました。


 「スッゴク年上のかたは、本気で敬わないとだめだよ!! ひととして!」


 部屋が、静かになりました。


 く、と音がしました。


 黒い髪の子が、片手で口を押さえていました。押さえきれていませんでした。肩が、上下していました。


 この人が笑うのを、私は、今日はじめて見ました。


 「ハルカ」


 声が、まだ揺れていました。


 「それ、おまえも失礼だぞ!!」


 「え?」


 「え、ではない」


 「わたし、いいことしか言ってないよ!?」


 「言っておらん」


 「言った」


 「言っておらん」


 「言ったもん」


 ルナが、上着にくるまったまま、ふたりを見ていました。それから、私を見て、口の端だけを動かしました。


 ……この子は、いま、私のことを笑っています。


 気がついたら、私も笑っていました。


 声は、出ませんでした。出し方を、どこかに置いてきたようです。それでも、頬が動きました。動くことを、覚えていました。


 6年ぶりでした。


   *


 黒い髪の子が、笑うのをやめました。それから、立ちました。


 私は、身構えました。笑ったあとだから、なおのことです。楽しい時間のあとに来るものを、私は知っています。


 いま聞いた話で、私がどうされるかは、決まったはずです。


 私は、あの人たちを助けました。助けたまま、あの獣を飢えさせるための数として、地下に置きました。手を合わせてくる人に、そのことを、いちども言っていません。


 そういう者と、この人は歩けません。


 「組む」


 私は、顔を上げました。聞きまちがえたのだと思いました。


 「……いま、なんと」


 「組む、と言った」


 シズが、こちらを見下ろしていました。


 「言っておくが、あなたの話は、半分も分からん」


 「分からんし、たぶん、この先も分からん」


 「……」


 「分からんまま、隣を歩く」


 私の手が、震えはじめました。止めようとしました。止まりませんでした。


 分からないまま隣を歩く、というやり方があるとは、知りませんでした。


 私は、分かってもらうつもりがありませんでした。分かられたら、隣にいられなくなると思っていましたから。この人は、分からないほうから手を出してきました。


 ひゅう、と割れ目から風が入って、灯りがいっせいに寝て、また起きました。


 6年、私は誰とも組みませんでした。組めば、その人に、この腕を見せることになりますから。


 見せてしまいました。


 見せた相手が、まだそこに立っています。


 立ったまま、その人は、まだ口を開きませんでした。終わっていないのだと、そのとき分かりました。


 「……ひとつ、聞かせてくれ」


 シズが言いました。声が、急に小さくなりました。


 「あの子は、笑い方を知らなかった」


 「……そうでしたね」


 「教えたのは、リリーだ」


 「ええ。あの子は、リリーによく笑わされていたようです」


 「……では」


 黒い髪の子は、そこで、いちど息を吸いました。


 「リリーに教えたのは、誰だ」


 井戸のふちが、目に浮かびました。足をぶらぶらさせて、待っている顔も。


 「……私は、なにもしていません」


 返事は、ありませんでした。


 「思いつきを、言っただけです。井戸のところで、少し喋っただけです」


 「……」


 「あの子を笑わせたのは、リリーです。私は、そこにいませんでした」


 その手が、腰のほうへ動きました。


 柄をさがす手つきでした。今日、この部屋で何度も見た手つきです。


 途中で、止まりました。


 柄は、そこにあります。届かなかったのではありません。手のほうが、行くのをやめました。


 斬るのをこらえているのだと思いました。


 「……どうぞ」


 私は言いました。


 「怒っていいんですよ。そう言われるだけのことを、私はしました」


 返事は、ありませんでした。


 「……フィーナ」


 そこで、止まりました。


 「……フィーナ、さん」


 言い直しました。言い直したあとも、私のほうは見ませんでした。


 この人が私の名を呼んだのは、それが初めてでした。呼び終わるまでに、ずいぶんかかりました。


 「はい」


 「6年、ひとりで走ったのか」


 「ええ」


 それだけのことでした。私は、6年と答えただけです。長いとも短いとも、つらいとも言っていません。


 「……17日だ」


 声が、かすれました。


 「わたしは、17日、あの子を追った」


 「眠らずに歩いた日が、幾日かあった。数えていない」


 「17日で、こうなった」


 それきりでした。そのあとを、この人は言いませんでした。


 言われなくても、足し算はできます。私にも、できてしまいました。


 目の前で、ひざが折れました。


 立っていた人が、そのまま床に落ちました。刀が鞘ごと横に倒れて、カラン、と鳴りました。


 今日、この部屋で、その音を何度か聞きました。鳴らすまいとしているのも、見ていました。


 今度のは、鳴らすつもりのなかった音でした。


 拾いませんでした。


 顔は、下を向きませんでした。こちらを見たまま、水が落ちました。


 拭きません。片方の手は床についていて、体を支えるだけで精一杯のようでした。


 声は、いっさい出ませんでした。泣いていると分かるものが、水のほかに、ひとつもありませんでした。


 顎の先まで来て、床に落ちました。落ちた場所が、石の色を変えました。


 もうひとつ落ちて、となりに、おなじ色ができました。


 しばらく、その音だけでした。


 わあ、と声が上がりました。


 人間の娘のほうでした。両手で顔を覆って、立ったまま、子供のように泣いていました。


 「だって……だって……」


 「ハルカ」


 「わかっ、てるもん……わたし、なんにも、言ってな……」


 言葉になっていませんでした。それから、しゃがみこんで、シズのとなりにひざをつきました。


 背中に手を置いて、なにか言いかけて、口を閉じました。


 この娘は、たぶん、なにか分かっています。分かったうえで、言わないことにしたようでした。


 ルナが、上着を引きずってきました。なにも聞きません。シズの反対側に座って、その肩に頭をつけました。


 私は、身を乗り出しました。


 「……私のために泣くことは、ありませんよ」


 肩が、いちど大きく震えました。


 まちがえたのだと思いました。伸ばしかけた手が、行き場をなくして、ひざの上に落ちました。


 「私は、そんなに良いものでは、ありません。さっき、そう言いました」


 水は、止まりませんでした。


 「……あの子が笑うようになった日を、わたしは覚えている」


 声が、出ました。ひどく低い声でした。


 「……そうですか」


 「あの日を、いちばん良い日だと思っていた」


 「……」


 「わたしが、いちばん——」


 そこで、止まりました。


 口は開いたままでした。声だけが、出てきませんでした。


 いちばん、なんでしょうか。


 私には、分かりませんでした。


 ほかに思いつくことが、ありませんでした。私は、手を伸ばしました。


 その襟を、直しました。


 曲がってもいませんでした。


 指が触れたところで、息が、いちど大きく崩れました。声になりませんでした。喉の奥で、なにかが潰れるような音で、それがしばらく続きました。


 私は、手を引きました。


 シズの髪の先が、灯りで、いちど光りました。


 それから、床についていないほうの手が、こちらへ来ました。


 私の袖の、少し手前まで来て、止まりました。


 握られませんでした。


 やめてくれて、よかったと思いました。


 いま握られたら、私は、たぶん、なにか間違ったことを言います。


   *


 6年かけて、私は、ひとつのことを覚えました。


 数えない、ということです。


 腕の線を数えない。人の数だけを数えて、日は数えない。あの子が笑うようになった日と、リリーがいなくなった日のあいだを、数えない。


 数えたら、どちらかを恨みます。恨んだら、立てなくなります。立てなくなったら、リリーは戻りません。


 だから、置いてあっても、見ません。見ないほうが、もう手より先に動きます。


 リリーのために泣いているのだろうと思いました。


 思いましたが、それにしては、長すぎました。


 なぜ泣いているのか、私には分かりませんでした。

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