第30話 幕間 レスフィーナ
黙っているのは、得意です。6年、それで生きてきました。
私は、手を伸ばしました。床で眠っているルナに上着がかけてあって、肩のところがずれていました。それを、直しました。
「リリーとは、何者だ」
黒い髪の子でした。立ったまま、私を見下ろしています。さっき、私に礼を言った相手です。
「あの子と、どういう関係だ」
短い聞き方でした。この人は、こういうときだけ短くなります。私は、顔を上げました。6年、誰も私にそれを聞きませんでした。
「長くなりますけれど、いいですか」
「かまわん」
黒い髪の娘は、そこにひざをつきました。ひざの下で、石の粉がかさりと鳴りました。
「リリーは、人間です。私と組んで、冒険者をしていました」
人間の娘が、ぱっと顔を上げました。
「フィーナさん、冒険者だったの」
「ええ」
「うしろの人?」
私は、少しおどろきました。
「……どうして、そう思うのですか」
「フィーナさん、ずっとうしろにいたから。わたしが振り回されてるときも、ずっと」
鼻の頭をこすって、そう言いました。
「前に出るのは、リリーの役でした」
「綺麗な、黒い髪の人でした」
黒い耳が、ぴくりと動きました。なにも言いません。言いませんでしたが、自分の髪の先を、いちどだけ見ました。
私は、その髪と、覚えている髪を見比べました。
「あなたと、おなじくらい綺麗な髪でしたよ」
答えは、返ってきませんでした。見ていた髪の先から、目を上げないままでした。
はじめから、と言われました。
私のはじめは、ルナではありません。
リリーです。
いっしょに歩いた3年のことではありません。その前の、紙が1枚、回ってきた日のことです。
*
その娘と、もういちど会ったのは、何年もあとです。
リリーは、私のほうから訪ねていった相手ではありません。押しかけてきたのです。
ある町の宿の前でした。荷を積んでいた私の背中に、いきなり声がかかりました。
「あ。いた」
振り向きました。
黒い髪の娘が、旅の支度をして立っていました。背に合わない大きな袋を負って、肩で息をして、まっすぐこちらを見ていました。
顔を見たとたんに、分かりました。
「リリー」
名前のほうが、先に出ました。
「……覚えてて、くれたんだ」
「忘れるものですか」
手から、荷が落ちました。落としたことに気づいたのは、ずいぶんあとです。
気がついたときには、その肩を抱いていました。前に出るのが苦手な私が、そのときだけは、自分でも呆れるくらい早く動きました。
腕の中の背中が、あのころより広くなっていました。
「少し見ない間に、立派になりましたね」
声が、途中で揺れました。
頬が濡れているのに気がついたのは、リリーが顔を上げて、笑ったからです。
「レスフィーナ、泣いてる」
「泣いていません」
「泣いてるよ。ここ、ぬれてる」
「泣いて、いません」
「ふふ」
リリーは、私の肩に顔をもどしました。しばらく動きませんでした。動かないので、私も動きませんでした。
「……長い」
肩のところで、そう言いました。
「なにがですか」
「レスフィーナ。名前。長い」
「よく言われます」
「フィーナ。フィーナでいい?」
そう呼ぶ者は、それまでいませんでした。
「……好きに呼んでください」
「じゃあ、フィーナ」
それきり、この娘は私をそう呼びました。
通りを、荷車が2台、通っていきました。
「わたし、いっしょに行く」
顔を離さないまま、そう言いました。
「……どこへ」
「フィーナが行くところ」
私の組は、そのころ5人でした。前を歩く者が決まっていて、指図をする者が決まっていて、私はいちばんうしろでした。人を入れるかどうかを決めるのは、私ではありません。
「私には、決められません」
「うん」
「組の頭に、いっしょに言いましょう」
「もう言った」
「まあ」
「フィーナが良いって言うなら良いって」
私は、笑ってしまいました。
それから、その袋を見ました。肩のところで、紐がねじれています。私は、それを直しました。
「痛かったでしょう」
「痛かった。ずっと痛かった」
「どうして、直さないんですか」
「フィーナが直してくれるの、待ってたんだもん」
二の句が継げませんでした。
「あのとき、フィーナが手を引いてくれたでしょ」
リリーが言いました。
「だから、わたしはここにいるんだよ」
「……覚えていますよ」
私は言いました。
「ギルドに、紙が回ってきたんです。それで、迎えに行きました」
「うん」
「連れて帰って、それきりでした。そのあとどうなったのかは、知らないままだったんです」
私は、その顔をもういちど見ました。背が伸びて、腕に筋が入って、袋の重さに文句も言わずに立っています。
「……ずっと、気になっていました」
リリーの目が、まるくなりました。それから、赤くなりました。
「なにそれ。ずるい」
「ずるいですか」
「ずるいよ。こんなところで言うことじゃないでしょ」
鼻をすすって、袖でぐいと拭いていました。
組の頭が、荷車のむこうから顔を出しました。
「レスフィーナ。ひとり増えるぞ」
「私が決めることでは、ありません」
「レスフィーナが良いなら、いいと言った。それで通す」
それで、決まりました。荷を運べる者は、いくらでも要りましたから。
リリーは、荷をひとつ、私の手から取っていきました。取ったあとで、重さに顔をしかめていました。
*
あとで知ったことですが、リリーは、誰にでもこう喋る娘ではありませんでした。
組の者に用があるときは、三言で済ませます。名を呼ばれても、返事は「うん」だけです。前を歩く者たちは、そっけないのが入ったと言っていました。
私のところへ来ると、ぜんぶ喋ります。その日にあったことも、痛かったところも、腹が減ったことも。
「レスフィーナといるときのあいつ、別人だな」
組の頭が、そう言って笑ったことがあります。
ある夜、火のそばで、リリーが私の顔を下から覗きこみました。
「フィーナ、やっぱりきれいだね」
「……そうですか?」
「そう。宿でも、道でも、みんな見てるよ。フィーナだけ、気づいてないの」
「見えていないだけですよ」
「ほら、それ。それがずるいんだよ」
私は、笑いました。
よく笑った時期です。あのころの私は、たぶん、いまより顔が動いていました。
リリーです。
*
それから3年、私たちは組んで歩きました。6年前の秋に、白狼族の村へ寄りました。仕事の帰りでした。水をもらいに寄っただけです。
囲いの内には、入れてもらえませんでした。よその者を入れない村でした。井戸は、囲いの外にあります。桶を借りて、水を汲んで、それだけです。
垣根のむこうに、白い髪の小さい子がひとり、立っていました。
村の人は、大事にしていました。大事にしすぎていました。手を引いて、すぐ内へ入れてしまいます。特別な生まれだと、みんなが言っていました。
水を汲むあいだ、その白い髪は、こちらを見ていました。近づいてはきません。手を振ることもしません。ただ、見ていました。
「あの子、笑わないね」
リリーが言いました。
「私たちの仕事では、ありません」
言ってから、自分の声が固いと思いました。
私は、桶を返しました。返しながら、もういちど、垣根のほうを見ました。
……さびしそうでした。
声をかけようかと思いました。思っただけです。よその者が垣根ごしに呼べば、あの白い髪は、また内へ入れられてしまいます。そう自分に言って、私は歩きだしました。
それだけです。私は、なにもしませんでした。
*
「6年前なら」
声が、低くなりました。
「わたしは7つだ。あの子は5つだ」
「わたしは、その村にいた」
私は、顔を上げました。なにか言うべきだと思いました。言葉が、見つかりませんでした。
「庭にいた。霜の上にいた。父上の前で、倒れるまで刀を振っていた」
「あの子は、そのあいだ、ひとりだったのか」
私は、答えませんでした。ひとりでした、と言えば、この人は今夜それを持って寝ます。ひとりではありませんでした、と言えば、それは嘘になります。かわりに、続きを話しました。
*
冬の入り口に、ギルドから紙が回ってきました。白狼族の村の長が出したものです。子供がひとり、いなくなった。名は、ルナ。5つ。
その紙が私たちのところへ回ってきたのには、理由がありました。あの村に水をもらいに寄った組が、ほかにいなかったからです。近くまで行ったことがあるというだけで、私たちは、いちばん近い者になりました。
「行こう」
リリーが、真っ先に言いました。私は、反対しませんでした。
着いたのは、雪の降りだしたあとです。囲いの前に村の者が並んで、山の口を見ていました。組の頭が、山を3つに割りました。谷筋にふたり。尾根にふたり。沢にひとり。私は、そのどれにも入りませんでした。
「レスフィーナは」
「先に、道を見てきますね」
斬りませんでした。斬る腕を、私は持っていません。だから、私の役はいつもそれでした。誰より先に歩くこと。危ないものがあれば、みんなが踏む前に知らせること。行きも帰りも、通る道を、通れる道にしておくこと。
雪の上に手を置いて、少し歩いて、また手を置きます。目に見えることは、なにも起きません。次に誰かがそこを通ったとき、獣が寄ってこないというだけです。代は、そのつど払いました。払い方については、誰にも言いませんでした。
私は、2晩、ひとりで歩きました。眠りませんでした。小さいものが雪の中にいるのですから、帰り道は、短いほうがいいのです。
見つけたのは、リリーです。
3日目の朝、尾根のむこうで声が上がりました。私は、そこにいません。谷をひとつ隔てた道の上で、雪に手を置いていました。行っても、できることがありません。私は、道の続きを歩きました。
あとで、リリーが話しました。ルナは、垣根の外をまわろうとしたのだそうです。村の内から、あの庭は見えません。囲いの外をまわれば裏から見えると、そう思ったのだと。
「庭に、刀を振ってる子がいるんだって」
「近ごろ、出てこなくなったんだって」
「それだけだよ。それだけで、雪の山に入ったんだよ」
リリーは、そこで黙りました。私も、黙っていました。
*
帰り道は、3日ありました。私は、ずっと先を歩きました。
毛布は、宿場で買いました。いちばん厚いのを選びました。湯は、着く前に沸かしておきました。食べるものは、柔らかいものにしました。雪の山で2晩いた口です。固いものは、通りません。
渡したのは、リリーです。
「フィーナ、こっち来なよ」
いちど、振り返って呼ばれました。焚き火の輪の中に、白い髪の頭がひとつ、毛布にくるまって座っていました。
「大丈夫ですよ」
「なんで」
「知らない顔が近くにいたら、休めないでしょう」
「フィーナの顔なら、こわくないよ」
「……先を、見てきますね」
私は、先へ歩きました。うしろで、リリーが笑ったのが聞こえました。
毛布を買ったのが誰かは、ルナには言いませんでした。リリーも、言わなかったと思います。
*
村を出る朝に、リリーが言いました。
「わたし、残る」
荷は、もう背負っていませんでした。夜のうちに決めていたのです。
「……なぜ」
「まえに、フィーナが、わたしにしてくれたでしょ」
「今度は、わたしの番」
「……番なんて、ありませんよ」
「そう言うと思った」
リリーは笑いました。それから、笑うのをやめました。
「ルナ、笑わないんだよ。助けられたのに、ありがとうも言わないの。言い方を、知らないんだと思う」
「わたし、笑わせたい」
理由は、それだけでした。リリーは、理由をひとつしか持たない人でした。
組の頭は、いい顔をしませんでした。6人でやってきた仕事を、5人でやることになります。
私は、頭の前に立ちました。自分から前に出たのは、リリーといた年月で、その1度きりです。
「その穴は、私が埋めます」
「埋まるか」
「埋めます」
前に出るのは、リリーの役です。私は、そういうことを言う人間ではありませんでした。組の頭は、しばらく私を見ていました。それから、ひとつうなずきました。
村の囲いの前で、私は、リリーの襟に手をやりました。曲がってもいない襟でした。
「なにそれ」
「……なんでもありません」
「フィーナ、心配しすぎ」
「していません」
「してるじゃん」
私は、月に1度は寄ると言いました。リリーは、2度でもいいよと言いました。
その冬、私は前より多く歩きました。荷も、前より多く持ちました。誰も、それを数えませんでした。数えられていたら、続かなかったと思います。
*
月に1度か2度、村へ寄りました。囲いの内には、やはり入れてもらえません。リリーが、井戸のところまで出てきます。半刻ばかり話して、帰ります。
話は、いつもルナのことでした。
1回目。
「あのね、ルナ、右の耳だけ、よく動くんだよ」
「右だけ?」
「右だけ。左は、寝てる」
リリーは、自分の頭の横で指を動かしてみせました。桶に映った自分の手つきを見て、けらけら笑っていました。
2回目。
「わかったんだけどさ。あの笑い方、口より先に耳が動くの」
「……順番が、逆ですね」
「でしょ。おかしいでしょ」
3回目のとき、リリーは井戸の縁に腰かけて、しばらく足をぶらぶらさせていました。話しにきたのに、話しません。
「聞きたいことが、あるんだけど」
「どうぞ」
「ルナね。話しかけたい相手が、いるんだって」
「そうですか」
「村で、ずっとひとりでいる子。近づくと、いなくなっちゃうんだって」
リリーは、そこで足を止めました。
「どうしたらいいと思う?」
「……どうして、私に聞くのですか」
「だって、わかんないんだもん。わたし、話しかけられたことしかないもん」
それから、少し口を尖らせて、こう言いました。
「フィーナ、わたしに話しかけたじゃない」
「……あれは、あなたが先に喋ったんです」
「そうだっけ」
「そうです。ずっと喋っていましたよ」
「はいはい」
「はいはい、では、ありません」
「はいはい」
私は、笑ってしまいました。リリーは、足をまたぶらぶらさせています。待っているのです。
私は、秋の垣根を思い出しました。白い髪が、こちらを見ていました。近づいてきませんでした。私も、近づきませんでした。あのとき、私は、なにもしませんでした。
「そういう子は、来るのを待っているわけでは、ないんです」
「待ってるんじゃないの?」
「待っているように見えるだけです。身構えているんですよ。断る用意をして、待っています」
「……なにそれ」
「話しかけられて、うまく返せなかったことが、何度もあるんです。だから、次は断ると決めておくんですよ。決めておけば、痛くありませんから」
「……むずかしいな」
「それと」
私は、桶を置きました。
「こちらが困った顔をしていたら、その子は、断ったほうが楽だと思います」
「困った顔」
「たいへんそうな顔で来られたら、断るのが親切になってしまうでしょう」
「フィーナ、なんでそんなことわかるの」
「……見ていたからです」
それ以上は、言いませんでした。リリーも、聞きませんでした。
井戸の水が、桶のふちで揺れて、止まりました。
私は、顔を上げました。
「リリー。だったら、こうしましょう」
声が、自分でも思ったより高く出ました。
「——とことん、相手の意表を突くこと! これが、いちばんです」
「え」
「断る用意をして待っている相手に、用意したとおりのものを渡してはいけません。まるきり別のところから行くんですよ」
「フィーナ」
「——それから、笑顔! 大事なのは、笑顔なのよ!」
「フィーナ」
「人がすっごい楽しそうに自分に好意をよせてくれたら、ぜったいに嬉しいんです。断る用意なんて、間に合いませんから」
「……フィーナ」
「なんですか」
「いま、すごい顔してた」
「どんな顔ですか」
「たのしそうな顔」
私は、口を閉じました。
リリーが、声を出して笑いました。井戸のむこうまで届く声でした。
それから、立ち上がりました。私は、その両肩を持って、村のほうへ向けました。
「早く行きなさい」
「はぁい」
「ルナも、わかるでしょ? って、言ってくる」
「ええ。そう言ってあげてください」
リリーは、囲いのほうへ走っていきました。桶を返すのを、忘れていました。
私が、かわりに返しておきました。いつものことです。
*
4回目のとき、リリーは井戸まで走ってきました。
「うまくいったよ」
「……なにが」
「ルナ。話しかけたんだって」
「そうですか」
「それがさ、面白いんだよ。言われたことを、そのまま返したんだって」
「なにを言われたんですか」
「教えてくれないの。にやにやして、教えてくれないんだよ」
リリーは、自分のことのように得意そうでした。私は、そのとき、中身を聞きませんでした。いまも、知りません。
5回目。
「ルナ、笑うの、うまくなったよ」
「よかったですね」
「こないだなんか、言い返してきたんだから。わたしに」
「……言い返すように、なったんですね」
「生意気になったよ。うれしい」
リリーは、毎日ルナの話をしていたようなものでした。月に1度か2度しか会わないのに、話は毎日ぶん、たまっていました。右の耳だけよく動くこと。笑うとき、口より先に耳が動くこと。
私は、会ったこともない子の癖を、ぜんぶ覚えていました。
帰るとき、リリーの襟が立っていました。私は、それを直しました。
「フィーナ、それ、癖だよね」
「そうですか?」
「そう。荷でも、襟でも、なんでも直すの」
リリーは笑って、囲いのほうへ帰っていきました。
その日も、桶は井戸の縁に残っていました。
私は、返しませんでした。手が届くところにあったのに、そのまま置いて帰りました。次に来たときでいい、と思ったのです。
いい話を聞いた帰りでした。歩きながら、私は、まだ笑っていたと思います。
*
黒い髪の子は、なにも言いませんでした。息が、いちど長くなりました。それだけです。床についた指が、ゆっくり握られて、また開きました。
……疲れたのかもしれません。話が、長すぎました。
私は、先を急ぐことにしました。
*
春が終わるころに、リリーがいなくなりました。
教団です。
5回目に聞いた話が、最後になりました。ルナが笑うようになった、という話です。あの子に友だちができたのだと、リリーははっきり分かっていました。それを、井戸で私に話しました。自分のことのように、うれしそうでした。
その次に村へ寄ったとき、井戸にリリーはいませんでした。
リリーが選ばれたわけではありません。ちょうどそこにいたから、連れていかれただけです。
村の者をさらえば、騒ぎになります。冒険者なら、騒ぎになりません。次の街へ行ったのだと思われて、それきりです。まして、ひとりで動いている者なら、いなくなっても、しばらく誰も気がつきません。
そしてリリーは、白狼族の村に、ひとりでいる人間族でした。遠くからでも分かります。ひとりだけ、耳の形がちがうのですから。目につくのに、時間はいりません。
私がその井戸に着いたのは、3日あとでした。半刻、待ちました。出てきませんでした。それから、村の囲いを叩きました。
井戸の縁に、返しそこねた桶が置いたままになっていました。
襟を直したのが、最後です。




