第29話 受け取らない
「……ただいま」
声は、細かった。
息の半分も乗っていない声だった。
それでも、わたしの耳は、その4文字をぜんぶ拾った。
*
天井から、パラ、と粉が落ちた。
もう崩れる音ではなかった。落ちるものが、落ちきったあとの音だ。
割れ目から、外の風が入ってきていた。ゴウ、と低く鳴って、部屋の灯りをいっせいに寝かせて、また起こした。
冷たかった。
冷たいのが、ありがたかった。
*
ルナの目が、ゆっくりと動いた。
わたしの顔から、ハルカの顔へ。
それから、もう少し遠くへ。
そこで、止まった。
*
少し離れたところに、あの女がいた。
顔をおおっていた手は、もう下りている。ひざは、ついたままだ。この人はこの部屋に入ってから、いちども立っていない。
ルナと目が合って、その肩が、はねた。
*
「……フィーナ」
ルナが言った。
あの女は、なにも返さなかった。
口が動いた。声にならなかった。
*
ルナの手が、動いた。
わたしが握っているほうではない。反対の手だ。
持ち上がって、途中で落ちて、それから、また持ち上がった。
あの女のほうへ、伸びていた。
*
届く距離ではなかった。
あの女は、動かなかった。
*
「……フィーナ」
ルナが、もういちど呼んだ。
「……こっち」
*
ひざが、床をこすった。
ずる、と短く鳴って、それだけだった。
1歩ぶんだ。
1歩ぶん進むのに、この人はずいぶん長いこと迷っていた。
*
わたしは、なにも言わなかった。
言う言葉がなかったのではない。半月ぶん、頭のなかに積んである。
いま出す場所ではないと、体のほうが先に分かっていた。
*
あの女の手が、ルナの手に触れた。
触れて、すぐ引きかけて、ルナのほうが握った。
握るというほどの力ではなかった。指が3本、上に乗っただけだ。
それで、あの女の指が止まった。
*
「やくそく」
ルナが言った。
「まもれなくて」
息を、いちどためた。
「……ごめんなさい」
*
わたしは、目を伏せた。
この子は、いま謝った。
自分をさらった相手に、約束を守れなかったと謝った。
*
この子は、そういう子だ。
転んだのが自分の足のせいでも、まず、ぶつかった相手に謝る。
わたしは何度もやめさせようとした。やめなかった。
*
あの女の顔が、崩れた。
この部屋で、2度目だった。
声は出さない。この人は、こういうときに音を立てない。
*
「……いいのよ」
やっと出たのが、それだった。
「いいの、ルナ」
*
「おこってない?」
「おこってないわ」
「……ほんとう?」
「ほんとうよ」
*
平らな声だった。
この部屋でずっと聞いてきた、あの平らさだった。
わたしはこの平らさを、何度も殴った。殴っても当たらなかった。
*
いま、はじめて分かった。
この人は、平らにしないと、話せないのだ。
*
「……よかった」
ルナが言って、目を閉じた。
閉じたきり、しばらく開かなかった。
*
「……ねてるだけだよ」
ハルカが小さい声で言った。
「たぶん、ねてるだけ」
「……ああ」
*
部屋が、静かになった。
白い体が、床に横たわっている。もう息をしていない。灯りの届かないところに、大きな影だけが残っていた。
わたしは、そちらを見ないようにしていた。
見れば、この手が3度入れたところが見える。
*
ぱき、と灯りの油が鳴った。
*
ハルカが、立ち上がった。
立ち上がって、2歩あるいて、そこで止まった。
止まってから、あの女のほうへ向き直った。
*
「フィーナさん」
あの女が、顔を上げた。
*
「あのね」
ハルカの声だった。
「わたし、さっき、言おうとしたことがあるの」
*
わたしは、顔を上げた。
この子が言いかけて、やめたのを、わたしは覚えている。
覚えていて、なにも聞かなかった。
*
「言えなかったんだ」
ハルカは、まっすぐ立っていた。
「シズちゃんの背中が、こわかったから」
*
背中を、見られていた。
*
「村の外で、地面の下に、かくれてた人たちがいたの」
「7人が、順番にしゃべった」
*
部屋の空気が、動いた。
わたしのほうではない。あの女のほうだ。
息が、いちど止まったのが分かった。
*
「ひとりが言って、つぎの人が足して、そのつぎの人が足して」
「7人ぶん聞いて、やっとひとつの話になった」
*
「みんな、あなたの話をしてた」
*
あの女の肩が、また、はねた。
*
「おばあさんは、手を合わせてた」
「男の人は、おりを開けたのはあの人ですって言った」
*
ハルカの声が、少しずつ大きくなっていく。
泣いている声ではなかった。この子は、いま泣いていない。
*
「男の子のおかあさんが言ったの」
ハルカが、そこでいちど息を吸った。
「迎えに来てくれました、って」
*
わたしの耳が、ぱたん、と伏せた。
自分で伏せたのではない。
*
「7人いて、ひとりも」
ハルカが言った。
「あなたのことを、わるく言う人が、いなかった」
*
あの女は、なにも言わなかった。
言えないのだと、いまなら分かる。
*
「これを、言いたかったの」
ハルカが、鼻をすすった。
「ずっと、口のなかにあった」
*
わたしは、床を見ていた。
この子は、これを持ったまま、あの部屋にいたのだ。
わたしが刀を上げているあいだも。わたしが17日ぶんを投げつけているあいだも。
言えば、わたしの背中に刺さると分かっていたから、飲みこんでいた。
*
13の女が、17の女に守られていた。
*
わたしは、立った。
ひざが笑った。かまわなかった。
落ちたままの刀のところまで歩いて、拾って、鞘に収めた。
カラン、と鳴りかけたのを、手で押さえた。
*
この部屋で、この音を3度鳴らした。
3度とも、意味がちがった。
4度目は、鳴らさないことにした。
*
あの女のところまで戻って、その前にひざをついた。
*
あの女が、はじめて動揺した顔をした。
この人が斬られるのを待っていたときより、はっきり動いた。
*
「話せ」
わたしは言った。
「はじめから、ぜんぶだ」
*
「……あなたは」
「怒っている」
言葉をかぶせた。
「怒っている。まだ、収まっていない。お前を見るたび、この手が柄をさがす」
*
息を継いだ。
*
「だが、わたしはお前の話をいちども聞いていない」
「聞かずに、投げた」
*
「聞いても、たぶん、まだ許さない」
わたしは言った。
「それでも、聞く」
*
あの女が、わたしの顔を見た。
この部屋に入ってから、2度目だった。
*
あの女は、しばらく黙っていた。
それから、ひざの上で両手をそろえた。
里の長老衆が、罪を数え上げられる前に、そうする形だった。
*
「わたしは、リリーという人を探していたの」
最初の1行が、それだった。
*
わたしは、その名を聞き返さなかった。
*
聞き返せば、そこから長くなる。
この人は、長い話を短くして出す人だ。短くしたものから先に、ぜんぶ受け取らなければならない。
*
「6年、探したわ」
「……届いていないの」
*
6年を、この人はいま、2行で言った。
*
「その人を、教団が連れていったのよ」
*
教団、という言葉を、わたしはこの旅ではじめて聞いた。
村を空にしたものに、名前があった。
*
「わたしは、顔を変えて、そこへ入ったわ」
「中に入るためではないの。外へ出るためよ」
「6年、中にいたの」
いま目の前にある顔も、その顔だ。
*
「なにを、していた」
「魂を呼ぶ術よ」
*
「その人の体は、どこにある」
*
「この建物の、いちばん下にあるわ」
*
わたしの鼻が、勝手に動いた。
*
村の道の下にあった、あの冷たい匂いのほうだ。
*
ちがう気がした。
*
人ひとりの匂いではない。あれは、そういう大きさではなかった。
*
聞かなかった。
いま聞けば、この人の話が、そこで止まる。
*
「術は、血で動くのよ」
あの女が言った。
*
わたしの背中に、なにかが走った。
*
雨のあとの、金物みたいな匂い。
村の道の真ん中で、いちばん濃かったもの。
北へ行って、いちども戻らなかったもの。
*
「お前の血か」
*
あの女が、顔を上げた。
*
「……分かるの」
「匂う」
*
あの女は、それきり黙った。
*
黙ったところに、なにかが入っていた。
*
わたしは、それを開けなかった。
*
「17日前に、指示書を見たの」
*
「ルナ。白狼族。11歳」
「その3つが、並んで書いてあったわ」
*
「わたしは、教団を出たの」
「戻るつもりは、なかったわ」
「その足で走ったわ」
「……間に合わなかったの」
「着いたときには、あの子は囲まれていたわ」
「悲鳴が、聞こえたの」
*
わたしの喉が、鳴った。
あの夜、風に乗って届いた声だ。
あれは、この人が上げさせた声ではなかった。
*
「斬ってはいないわ。目を、ずらしただけよ」
「あの人たちは、いない子のほうへ走っていったわ」
「そのあいだに、あの子を抱えて出たの」
*
闇に消えていく人影を、わたしは見た。
背に、白いものを担いでいた。
あれが、この人だ。
*
わたしは、あれを見て、さらわれたと思った。
半月、そう思ったまま歩いた。
わたしが追いかけていた背中は、あの子を抱えて、逃げていた背中だった。
*
「そのあと、追われたわ」
「鼻のいい子だったの」
「目をずらして、脚に力を足して、まいたわ」
*
あれは、わたしだ。
あの夜、わたしはあの背中を追った。
追って、鼻の先で消えられた。
自分がなにに負けたのかも知らずに、わたしは17日その匂いを追った。
*
「隠れ家で、あの子が目を覚ましたわ」
「わたしを見て、フィーナ、と呼んだの」
*
わたしは、顔を上げた。
*
「……会ったことが、あったのか」
「いちどもないわ」
「リリーが、話していたのでしょうね」
*
あの女が、そこで少し黙った。
「右の耳だけ、よく動く子だと聞いていたわ」
「ほんとうに、右だけだったの」
*
それを言うとき、この人の声から、平らさが1枚はがれた。
*
「6年、そこにいたのだろう」
「ええ」
「リリーのために、6年だろう」
「ええ」
*
「それを、捨てたのか」
*
「紙に、名前があったのよ」
「リリーが、毎日呼んでいた名前だったわ」
*
部屋の火が、ぱち、と鳴った。
*
人をさらう者は、笑うか、逃げるか、言い訳をする。
半月、わたしはそう思って歩いてきた。
*
目の前の人は、会ったこともない子の名前ひとつで、6年を床に置いた。
置いたことを、痛いとも惜しいとも言わなかった。
*
「それから、あの子とは」
口に出してから、答えを聞きたくないと思った。
*
「17日よ」
*
「わたしがあの子を連れ出してから、17日」
「それだけしか、いっしょにいないわ」
*
わたしは、動けなかった。
*
17日。
*
わたしが数えていたのと、おなじ数だ。
朝が来るたびに、ひとつ足していた数だ。
*
わたしの17日は、追いかけた日数だった。
この人の17日は、いっしょにいられた日数だった。
*
おなじ数が、2人のあいだで、逆を向いていた。
*
「ごめんなさい、と言うつもりはないわ」
顔は、上げていた。
*
「言って、済むことじゃないもの」
*
わたしは、うなずかなかった。
うなずけば、それを認めたことになる。
*
だが、この人が謝らない理由がいま、わたしには分かった。
謝れるほど軽くないから、謝らない。
*
わたしと、おなじだ。
*
わたしは、立った。
立って、2歩さがって、それから、もういちどその前に立った。
*
「ひとつ、言い忘れていた」
*
「村の外で、7人に会った」
「あそこで、わたしは頭を下げた」
*
あの女が、まばたきをした。
*
「そのとき、こう言った」
*
喉が、いちど狭くなった。
通した。
*
「その人に、礼を、言いたい」
*
「……礼を言う」
わたしは言った。
「あの人たちを、逃がしたそうだな」
*
あの女の顔から、なにかが引いた。
*
崩れたのではない。逆だ。
いままで出ていたものが、いっぺんに引っこんだ。
*
ひゅう、と割れ目が鳴った。
*
「……その礼は、受け取れないわ」
*
「なぜだ」
*
答えは、来なかった。
*
「なぜだ、と聞いている」
*
あの女は、床を見た。
*
この部屋で、この人はいちども言い訳をしなかった。聞けば、必ず答えた。
6年のことも、17日のことも、自分の血のことも、ぜんぶその口から出した。
*
いま、はじめて、出てこない。
*
「……ごめんなさい」
*
その6文字だけが、来た。
*
わたしは、目を見開いた。
*
さっき、この人は言った。ごめんなさいと言うつもりはない、と。
*
言わないと言った言葉が、礼のところで出てきた。
*
順番が、逆だ。
*
「お前は」
声が、うまく出なかった。
*
「わたしが怒鳴っているあいだ、いちども謝らなかった」
*
「刀を向けても、謝らなかった」
*
「礼を言われて、謝るのか」
*
あの女は、答えなかった。
*
ひざの上の手が、握られていた。
指の関節が、白くなるほど。
*
わたしは、そこに立っていた。
*
半月、わたしはこの人を分かりやすくしようとしてきた。
悪人だと決めれば、簡単だった。
*
今日、話を聞いた。
聞けば、分かると思っていた。
*
分からなくなった。
*
この人には、まだ、こちらに見せていない面がある。
*
見せていないのではない。
*
見られたくないのだ。
*
「受け取れ」
わたしは言った。
*
「わたしが、言いたかっただけだ」
*
あの女は、頭を下げた。
ひざについた手のあいだに、額がついた。
*
それでも、なぜ受け取れないのかは、言わなかった。
*
「言っておく」
わたしは言った。
「わたしは、まだお前を許していない」
*
「ええ」
*
2度目だった。
この部屋で、おなじことを2度言った。
*
1度目は、そのあとに「許せる気もしない」と続けた。
*
いまは、続けなかった。
*
続けられなかった、と言うほうが近い。
*
わたしは、左の胸の奥に手を当てた。
*
あの夜からずっとそこにあったものが、まだ薄いままだった。
*
消えてはいない。
消えてはいないが、次があるとは、わたしはまだ思えなかった。
*
あれは、いちどきりだったかもしれない。
*
言わなかった。
*
この人も、言わなかった。
*
灯りの油が、こつ、と鳴って、火がひとつ細くなった。
*
黙っている者が、2人になった。




