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転生少女と黒狼姫 〜女神に選ばれた少女と、掟破りの狼族戦士〜  作者: 白川雫


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第28話 おかえり

 「ころして」


 その言葉が、部屋の高いところでいちど跳ねて、それからわたしのところへ落ちてきた。


 石の向こうの息が、そのあいだだけ止まっていた。


 わたしは、刀を握っていた。


 握っていることに気づくのに、少し時間がかかった。半月、これを離さずに歩いてきた。掌の中で、柄はもう自分の骨の続きみたいになっていた。


 「……断る」


 声が、思ったより小さく出た。


 「聞こえたか、ルナ。断る」


 灯りの中で、爪が動いた。ガリッ、といちどだけ掻いた。


 「わたしは、お前を助けに来た」


 言いながら、喉が痛かった。


 「殺しに来たのではない」


 言い切って、息を継いだ。


 その息が、胸のいちばん奥でひやりとした。


 ——さっき、考えたじゃないか。


 考えた。この部屋で、たしかに考えた。楽にしてやったほうがいいのではないかと。


 その口で、いま、断ると言っている。


 わたしは奥歯をかんだ。かんで、それでももういちど言った。


 「断る。何度でも断る」


   *


 「ルナちゃん!」


 ハルカが石の壁のほうへ出て、そこで自分のひざに負けて片手をついた。


 「だめだよ、そんなこと言っちゃ! シズちゃん、半月も寝てないんだよ! ごはんも食べてないんだよ! なんのために来たと思ってるの!」


 叫んだ拍子に、また涙が飛んだ。この子は、さっきからずっと拭かない。


 石の向こうで、細いものが、また上がってきた。


 「わたしは……いい、から」


 「よくないよ!」


 ハルカは壁を見たまま言い返した。壁の向こうの声より、こちらのほうがよほど泣いていた。


   *


 壁が鳴った。


 バキッ、と高いところで石が折れて、そこから粉が滝みたいに落ちてきた。首のまわりにかんでいた石が、こぶし1つぶんだけ欠けた。


 あの女が、両手の角度を変えた。


 ひざをついたままだ。この部屋に入ってから、この人はいちども立っていない。腰の入っていないひざのつき方で、体は前へ倒れかけている。それでも、上げた手の指先は震えていなかった。


 「もう、そんなに保たないわ」


 声は平らだった。


 「石がかんでいるうちだけよ。首が抜けたら、この部屋では止められない」


 「どうすればいい」


 聞いてから、自分でも驚いた。


 ここへ来るまで、この女に聞くことなど1つもないと決めてきたのに。


 「戻す方法だ。あるのか、ないのか」


 「魂を、分けるしかないわ」


 「分ける」


 「あの子の魂と、あれの魂が、いま1つの器に入っているの。あれは、あの子を内側から食べながら、器の形を作り替えているところ」


 あの女は壁を見たまま言った。わたしの顔は見ない。


 「食べきる前に、2つに分ける。それしかないの」


 「なら、分けろ」


 「わたしには、できないわ」


 「6年やって、できないのか」


 言ってから、気がついた。


 2度目だった。この女に、おなじ数を、2度ぶつけている。


 「これは術じゃないの」


 そこで、はじめて手が止まった。ほんの一瞬だった。


 「わたしがやってきたのは、魂を呼ぶ術。呼ぶことはできる。押し戻すこともできる。……剥がすことは、できないの」


 「では、誰ならできる」


 あの女が、顔を上げた。


   *


 目が、わたしの顔ではないところで止まった。


 髪だった。


 灯りの下で、わたしの黒い髪の、耳のあたりを見ていた。


 いちどだけだ。すぐに、また手のほうへ戻った。


 「……破邪の一族の女が、白狼族に嫁いだと聞いたことがあるわ」


 手を動かしながら、あの女は言った。


 「昔の話よ」


 それだけだった。


 説明はしなかった。この人はこの部屋に入ってから、いちども説明をしていない。言い訳も、経緯も、自分の側の話も、ひとつも。


 必要なことだけを、必要な分だけ、床に置くように言う。


 置かれたものを、わたしは拾わなければならなかった。


   *


 拾った瞬間に、頭のなかで、いくつもが同時に動いた。


 父上だ。


 わたしが髪の話をしようとするたび、父上は岩のように黙った。稽古のことなら、いくらでも口を開いた。里の掟のことも、刀のことも、風のことも。髪のことだけは、いちども答えなかった。


 白い髪の一族のなかで、黒いのはわたしひとりだ。


 拾われた娘だと、言われている。誰も、わたしの前では言わない。言わないから、いつまでも消えない。


 母のことを、誰も話さない。父上も、長老衆も、里のだれも。名前すら、わたしは知らない。


 そして。


『あなたは特別な血をひいています。その力があの子の力になるから——だから、あなたを選んだのです』


 あの夜の声が、胸の奥から上がってきた。


 あの森で、わたしの掌の上で、うさぎの体を借りたあの方が言った言葉だ。


 わたしは聞いた。特別な血とは、なんですかと。


 高いところで、石が鳴った。灯りのなかを、粉が落ちていった。


 女神の唇はひらいた。たしかに、なにかの形を作った。


 音にならなかった。


 わたしはもういちど、おなじことを聞こうとして——口を閉じた。


 自分で、閉じた。


 あの方の光は消えかけていた。息ひとつが、命のひと粒だった。だから、いい、と言った。もう、いい、と。


 ……あのとき。


 あのとき、もういちど、聞いていれば。


 息が、うまく吸えなくなった。


 聞いていれば、いま、わたしは知っていた。知っていれば、いま、この子を出せたかもしれない。


 優しくしたつもりだった。


 優しくしたのではない。わたしは、あそこで確かめるのをやめたのだ。


   *


 「シズちゃん」


 ハルカの声だった。


 「顔、まっしろだよ」


 わたしは答えなかった。答えるだけの息がなかった。


 わたしに、その血が流れている。


 ——のかもしれない。


 確かめる相手が、どこにもいない。母はいない。父上は遠い。あの女の言ったことは、聞いた話だ。里の噂ひとつぶんの重さしかない。


 それでも、繋がってしまった。ばらばらに転がっていたものが、いっぺんに1本の線になってしまった。


 なってしまったのに。


   *


 やり方が、分からない。


 わたしはそれを、いま知った。


 知っただけだ。


 振り方なら知っている。父上に、霜の降りた庭で、倒れるまで教わった。腰の入れ方も、切っ先の止め方も、体が覚えている。


 魂の剥がし方など、誰にも教わっていない。


 訓練したこともない。そんなものがこの世にあることさえ、さっき聞いた。


 わたしは自分の両手を見た。


 まめが潰れて、皮がめくれて、土と血で汚れた、ただの手だった。


 この手で、何をどうすればいい。


 「おい」


 声が、かすれた。


 「その、破邪の一族というのは、どうやって剥がす」


 「知らないわ」


 あの女は、壁のほうを見たまま答えた。


 「わたしは、その一族を見たことがないの。話でしか知らないわ」


 「話でしか、だと」


 「6年、探したわ」


 その声に、いつもの平らさが戻っていた。


 平らなまま、床に置かれた。


 わたしは、それを拾わなければならなかった。


   *


 バキィッ。


 壁が、大きく割れた。


 白い頭が、割れ目を押し広げた。首にかんでいた石が、続けざまに落ちた。こぶし1つぶんだった欠けが、2つぶんになる。うしろ脚が、こちらの床を蹴った。ドッ、ドッ、と重い音が、足の裏まで伝わってきた。


 そのとき、床の前脚が動いた。


 わたしは、息を止めた。


 あの前脚は、床から離れなかった。落ちてきた石を踏みもしなかった。爪を立てて、床にしがみつくようにして、動かないでいた。


 あの子が、止めていたのだ。


 止まらなく、なっている。


 前脚が、ガリッ、と床を押した。


 かんでいた石がいっせいに落ちて、白い頭が、壁から抜けた。


 抜けた勢いのまま、前脚が上へ振り上がった。


 爪が、つるしてあった灯りを2つ、続けざまに叩き落とした。


 油皿が石に当たって割れて、火が消えた。


 部屋の隅が、2つぶん暗くなった。


 「シズちゃん、あぶない!」


 ハルカが走ろうとした。


 「来るな!」


 わたしは怒鳴った。怒鳴りながら、足が動かなかった。


 斬れば、床のあの子に写る。喉を裂けば、あの子の喉が裂ける。


 斬らなければ、あの子は戻らない。


 時間は、減っていく。壁は割れていく。あの子は「ころして」と言っている。


 わたしの手の中に、方法がない。


 半月だ。


 半月、寝ずに歩いた。飯を抜いた。雨のなかを歩いた。父上に告げず、里を捨てて、ここまで来た。


 たどり着いたのが、ここだ。


 この部屋で、わたしは、なにも持っていなかった。


   *


 ひざが、床についた。


 自分で、ついたのではない。落ちた。


 石が冷たかった。冷たいのが、遠かった。


 わたしは、上を見た。


 部屋の天井があるだけだった。石と、ひび。空も、月も、なにもない。


 それでも、そこを見た。


 左の胸に、手を当てた。


 あの夜、月光色の粒がここへ流れこんできた。ことん、と、なにかが座った音がした。あの音を、わたしはまだ覚えている。


 あなたは言った。いつかわたしが、本当に守りたいものの前に立つとき、その力の本当の意味が分かると。


 いま、立っています。


 立っているのに、分かりません。


 「……どうすれば、いいのですか」


 声が出ていた。出すつもりはなかった。


 「わたしは、なにも知りません。教わっていません。そういうものが自分の中にあることも、いま知りました」


 喉が、ひくついた。


 「あの子が、死にます」


 言った瞬間、そこから先が崩れた。


 戦士の言葉が、どこかへ行った。父上に教わった声の出し方も、ぜんぶどこかへ行った。


 「おしえて、ください」


 額が、床につきそうになった。


 「セレネ様。おしえて、ください」


   *


 ——。


   *


 わたしは、顔を上げた。


 何が起きたのか、あとから何度考えても、うまく言葉にできない。


 音ではなかった。耳では聞いていない。


 あの夜とおなじだった。胸のいちばん奥に、直接、なにかが染みこんできた。


 短かった。ひと呼吸もなかったと思う。


 それでも、わたしは、分かった。


 分かってしまった、と言ったほうが近い。知らなかったものが、急に、ずっと前から知っていたことになっていた。掌のしわの形を知っているのと、おなじ種類の分かり方だった。


 目のふちが、熱くなった。


 ……いつか、と、あなたは言った。


 言いかけて、途切れた。もうひとつの、いつかだ。


 いま、来ました。


   *


 手が、開いた。


 柄から、指が離れた。


 カラン。


 刀が、床に落ちた。


 高い音が、石に当たって返ってきた。


 あのときと、おなじ音だった。自分の頬を張ったときと、おなじだ。


 あのときは、迷いを叩き出すために鳴らした。


 いまは、置くために鳴った。


 「シズちゃん……?」


 わたしは、拾わなかった。


 立った。ひざが笑っていた。かまわなかった。


 前へ、出た。


   *


 白い首が、こちらを向いた。


 残った灯りが、その首すじを照らしていた。近くで見ると、毛の一本一本が、汗で黒く光っているのが分かる。ハルカがぶら下がっていた首だ。わたしが外した喉だ。


 目が、上から降りてきた。


 濁っていた。獣の目ではなかった。獣なら、こんな目はしない。獣の目には、迷いがない。


 わたしは、両手を上げた。


 斬るための形ではなかった。


 あれの前脚が、動いた。爪が、わたしの肩の高さで持ち上がった。


 「シズちゃん!!」


 うしろで叫び声がした。わたしは止まらなかった。


 掌を、白い胸に当てた。


 当てた、その瞬間だった。


   *


 2つ、あった。


 目で見たのではない。掌から、上がってきた。


 ひとつは、大きくて、熱くて、ぐずぐずに膨らんでいた。境目がどこにもなくて、触っているそばから、こちらまで飲みこもうとしてくる。


 もうひとつは、小さかった。


 その大きなもののいちばん奥のほうに、押しつぶされて、それでもまだ形を保っていた。


 冷たくて、固くて、震えていた。


 ……ルナ。


 わたしは、片方だけをつかんだ。


 どうやってつかんだのかは、分からない。手ではなかった。手より、ずっと前のほうにあるものでつかんだ気がする。


 つかんだものは、冷たかった。


 震えていた。


 斬らなかった。


 壊さなかった。


 ただ、引いた。


   *


 抵抗が、あった。


 ずっ、と。根の張ったものが土から出てくるときの、あの重さだった。途中で、2度、止まった。2度とも、引き直した。


 ひじまでしびれた。歯の根が合わなくなった。目の裏が、白くなった。


 それでも、引いた。


 ——ぶつり。


 なにかが、離れた。


   *


 白い体から、力が抜けた。


 差し出されていた首が、ずるりと落ちた。前脚が折れて、胸が床に伏せた。支えを失った太い体が、そのまま横向きに転がった。


 ドン、と床が鳴った。石の粉が、いっせいに舞い上がった。


 器を失った大きなほうが、いちどだけ、暴れた。


 行き場をなくしたそれは灯りの届かない天井のほうへゆっくりと上がっていって、そこで、分からなくなった。


 それきり、降りてこなかった。


 小さいほうは、わたしの手を離れて、下へ落ちた。


 床の、あの子のほうへ。


   *


 ひざが、落ちた。


 両手が床についた。ついたことが、掌では分からなかった。感覚が、指の先から順に消えていた。


 息が、戻ってこない。


 吸っている。たしかに吸っている。吸っているのに、どこにも入っていかない。喉から下が、空の袋みたいになっていた。


 耳が遠かった。ハルカの声がしている。何を言っているのかは分からない。


 左の胸の奥が、冷えていた。


 あの夜からずっとそこにあった、小さなあたたかいものが——さっきまで、たしかにあったものが——うんと薄くなっていた。


 消えてはいない。


 消えてはいないが、次があるとは思えなかった。


 ……いちどきり、か。


 それでいい、と思った。


 思ったところで、床に肩がついた。


   *


 「シズちゃん!」


 ひざが、すぐ横に落ちてきた。ハルカだった。


 わたしの肩に手をかけて、揺すって、それから揺すってはいけないと気づいた顔をした。


 「息して! ねえ、シズちゃん、息して!」


 している、と言おうとした。声にならなかった。


 かわりに、指を1本だけ動かした。


 それでハルカは分かったらしい。ぺたん、と尻を床につけて、わたしの袖を、握った。


 うしろのほうで、布のこすれる音がした。


 あの女が、立とうとしていた。


 片手を床につけて、片ひざを立てて、そこまでは行った。そこから先が、上がってこない。2度やって、2度ともおなじところで落ちた。


 この人は、はじめからずっとひざをついていた。上げていたのは手だけだ。


 3度目はやらずに、そのままひざで床をこすってきた。


 床に倒れた白い体のほうを、通り過ぎた。


 見もしなかった。


 この人が向かうところは、はじめから、ずっと1つしかない。


 通り過ぎるとき、この人は、床のほうを見たまま言った。


 「……魂は、戻したわ」


 「入るかどうかは、あの子しだいよ」


   *


 視界のはしで、それが見えた。


 小指だった。


 床に投げ出された、白い髪の子の、左手の。


 ほんの少し、曲がっただけだった。


 わたしは、それを見た。


 見て、息が止まった。


   *


 走れなかった。


 立とうとして、腰から下が言うことを聞かなかった。


 わたしはひざで床を這った。両手をついて、石の粉のうえを、そこまで行った。


 刀は、うしろに落ちたままだった。


 あの子のそばで、止まった。


 手を、伸ばした。


 伸ばして——宙で、止まった。


 触れられなかった。


 触れて、動かなかったら。


 それを、考えていた。


   *


 ハルカが、ずっと引っかかっていたことを聞く声で言った。


 「シズちゃん、いま、なんか言った?」


 「……いつだ」


 「刀、落とすまえ。上のほう、見てた」


 わたしは、床のあの子を見たままだった。


 口が、動いた。


 「……言ってない」


 耳の先が、勝手にぴく、といちど動いた。


   *


 まぶたが、動いた。


 小さく、2回。


 まつ毛が震えて、そのあいだから、細い線が開いた。


 開いて、また閉じた。


 わたしは、息を吐くのを忘れていた。


 もういちど、開いた。


 灰色に近い、青。


 最初に、天井を見た。


 それから、灯りを見た。


 まぶしそうに、少しだけ顔をしかめた。


 そのしかめ方が。


 そのしかめ方が、ふつうの子の顔だった。


 目が、横を向いた。


 黒い髪と、黒い耳を、見つけた。


 そこで、止まった。


 口が、動いた。声は、すぐには出なかった。


 「……シ、ズゥ……シズ?」


 人の声だった。


 どこも混ざっていない、ふつうの、女の子の声だった。


   *


 隣で、ハルカが口を両手でふさいだ。


 ふさいだ上から、変な音がもれた。肩が、大きく上下していた。


 この子は、こういうときに、いちばん先に泣く。


   *


 喉が、鳴った。


 わたしの喉だった。


 「ああ」


 やっと、それだけ出た。


 少し離れたところで、あの女が両手で顔をおおったのが、目のはしに映った。


 ひざでここまで来て、手の届くところで止まって、それきり動かない人だった。伸ばしかけた手を、途中で引いたのが見えた。引いて、その手で顔をおおった。


 声は出さなかった。この人も、こういうときに音を立てない人らしかった。


 宙で止まっていたわたしの手が、下りた。


 頬に触れた。それから、髪に。


 「ルナ」


 半月だ。


 半月、歩くあいだ、わたしはこの名前をいちども声に出さなかった。地図を見るときも、足跡をたどるときも、眠れずに座っている夜も、いちども。


 出したら、届かなかったときに、どうしていいか分からなくなる気がしていた。


 「ルナ」


 もういちど、言った。


 ルナの手が、動いた。持ち上がって、途中で落ちて、また持ち上がった。


 わたしは、その手を握った。


 「……つめたい」


 ハルカが言った。


 氷みたいだ、と思った。わたしも、そう思った。


 でも、ルナは、ちがうことを言った。


 「……あったかい」


 握られた自分の手を、見ていた。


 「シズの手、あったかい」


   *


 ハルカが、急に立ち上がろうとした。


 立てなくて、ひざで1歩ぶんだけ動いた。それから、自分の上着に手をかけた。


 肩から抜いて、両手で持って、ルナの上にそっと広げた。


 ほこりだらけだった。石の粉が、まだついたままだった。


 「……ごめんね、きたないけど」


 ルナが、まばたきをした。


 「……おもい」


 「え、重い? どかす?」


 「……あったかい、ほうの」


 ハルカが、口をあけた。


 あけたまま、鼻をぐずぐずいわせて、それから、うんうんと何度もうなずいた。


 うなずくたびに、涙が新しく落ちていた。


   *


 ルナの目が、わたしの顔を、ゆっくりとなぞった。


 「……シズ」


 「ああ」


 「やせた」


 答えられなかった。


 「かみ、ぼさぼさ」


 「……ああ」


 「ごはん、たべてた?」


   *


 肩が、震えた。


 1度だった。


 それから、止まらなくなった。


 止めようとした。止め方は知っているはずだった。父上の庭で、霜のうえで、何度もやった。声を出さないで泣く方法なら、7つのころから知っている。


 声は、出なかった。


 止まりも、しなかった。


 黒い耳が、深く伏せていくのが、自分で分かった。


 顎から、床へ、落ちた。


 石の粉のうえに、小さな穴があいた。


 わたしは、半月このために歩いてきた。歩きながら、着いたら何を言うかを何百回も考えた。順番まで決めていた。


 そのぜんぶが、いま、いらなくなった。


 「たべてない」


 やっと出たのが、それだった。


 「……だめだよ」


 ルナが言った。


 「シズ、すぐ、たべないんだから」


   *


 ルナの目が、わたしの肩ごしに動いた。


 「……だれ」


 「……ハルカだ」


 「はじめまして!」


 鼻をぐずぐずいわせながら、それでもハルカは、部屋じゅうに届く声で言った。


 「わたし、ハルカ! シズちゃんのともだち!」


 ルナが、ゆっくりとまばたきをした。


 「……シズに、ともだち」


 「うん!」


 「……そう」


 口の端が、ほんの少しだけ持ち上がった。持ち上げるのに、ずいぶん力がいるようだった。


 「……よかった」


 わたしは、また止まらなくなった。


 濡れた顎を、袖で乱暴にぬぐった。ぬぐったところで、たいして変わらなかった。


   *


 「ねえねえ、ルナちゃん」


 涙のたまった顔のまま、ハルカがぐっと身を乗り出した。


 「シズちゃんって、むかしから、こう?」


 「……こう、って」


 「ごはん食べないで、ずっと刀ふってる」


 ルナの目が、ゆっくりとわたしのほうへ動いた。


 「……ずっと」


 「やっぱり!」


 「おい」


 「だって、シズちゃん、ぜんぜん座らないんだもん。歩きながら寝るんだもん」


 「歩きながらは、寝ていない」


 「寝てた」


 「寝ていない」


 ルナが、息をひとつためた。その息を、ここで使った。


 「……ねてる」


 ルナが、小さく言った。


 ハルカが、勢いよくそっちを向いた。


 「ね!」


 「……ね」


 2人が、わたしをはさんでうなずき合っていた。


 わたしは、口を閉じた。


 ……2人がかりか。


 半月、この名前を呼ぶこともできなかった口で、いま、わたしは言い返している。


 言い返せることが、うまく飲みこめなかった。


 黒い尻尾が、ふわり、といちどだけ揺れた。


 揺れてから、自分で気がついた。


 半月、この尻尾はいちども、こんなふうに揺れなかった。


   *


 ルナの目が、自分の腕へ下りた。


 服の上に、うっすらと赤い線が残っていた。


 1本ではなかった。


 3本、あった。


 数は、あのときのままだった。


 消えては、いなかった。


 「……これ、なに」


 「……なんでもない」


 わたしは言った。


 言ってから、ハルカが下を向いたのが分かった。


 「シズ」


 「ああ」


 「おこらないで、きいて」


 息が、足りていなかった。ひとこと言うたびに、途中で切れる。


 「……ああ」


 「奥の部屋に、入ったの」


 「入っちゃだめって、言われてたのに」


 わたしは、なにも言わなかった。


 ルナの声が、だんだん小さくなった。


 「……リリーおねえちゃんに、会いたかったの」


   *


 少し離れたところで、あの女が下を向いた。


 ひざの上で、両手を握っていた。


 なにも、言わなかった。


 わたしは、そちらを見なかった。


 見なかったが、分かった。


   *


 入るなと、この人は毎日言っていたのだ。


 あの子の口が、それを証明した。


 それでも、この人はなにも言わない。


   *


 ——その人に、礼を、言いたい。


 言ったのは、わたしだ。


 その人に、わたしは半月ぶんを、ぜんぶぶつけた。


 思い出さなかったのではない。匂いが分かった、あの一瞬に、消えたのだ。


 消したのは、わたしだ。


   *


 なにか言おうとして、口が動かなかった。


 いま言えば、わたしが楽になるだけだ。


   *


 わたしは、ルナの手を、両手で包んだ。


 まだ冷たかった。


 その手の甲に、額をつけた。


 黒い耳が、ぺたんと下りていた。


 しばらく、そのままでいた。


 息が、まだ戻ってこない。指の先はしびれたままだ。左の胸の奥は、うんと薄い。


 どうでも、よかった。


   *


 「……おかえり」

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