第27話 レスフィーナの匂い
「いま、シズちゃんが、いちばん悪者の顔してる!」
*
言い終わって、ハルカはそこから動かなかった。
あの女も動かない。上げた指は、震えていなかった。
震えていたのは、わたしのほうだった。
この手は、さっきから何ひとつ守れていない。ルナも、ハルカも、自分の言葉も、ひとつも。
2度目は、動けなかった。
刀は、まだ上にあった。
柄を両手で握ったまま、わたしはその手を、自分の頬へ叩きつけた。
バチーーーーンッ!!
高い音が石に当たって、部屋の奥まで往復して返ってきた。
頬の内側が歯に当たって、口のなかに鉄の味が広がった。
黒い耳が、前を向いた。
「……ハルカ」
「なに」
「もう一発、殴ってくれ」
「やだよ! もう自分でやったじゃん!」
わたしは笑いそうになった。笑えなかった。かわりに、喉から声が出た。
「わからないんだ」
自分で驚くくらい、素直な声だった。
「わからないんだ、ハルカ。わたしは、ルナを助けに来た。それだけを考えて歩いてきた。それなのに、ここへ来てから、わからないことばかりが増える」
言葉が、次から次へ出てきた。止め方が分からなかった。
「斬れば、あの子に写る。斬らなければ、あの子は中で押さえつづける。押さえきれなくなったら、戻らないらしい。戻す方法は誰も知らない。わたしは何をすればいい。教えてくれ」
息を吸った。
*
「……それから、もうひとつある」
言うつもりは、なかった。
「わたしは、さっき」
喉が、いちど閉じた。無理やり、こじ開けた。
「あの子を、楽にしてやったほうがいいんじゃないかと、考えた」
ハルカが、息を止めたのが分かった。
「助けたい。それは本当だ。だが、そう考えたのも本当だ。両方、この中にある」
自分の胸を、柄の先でいちどだけ叩いた。
「助けに来た者が、そんなことを考えるか。考えたんだ、わたしは」
声が、割れた。
「認めるのが、怖かった。だから、目の前の女を斬れば楽になると思った。斬れば、考えなくて済む。そう思ったんだ」
*
あの女のほうへ、体を向けた。
顔は、見なかった。それだけは、まだできなかった。
「さっきの言葉は、取り消さない」
声が、かすれていた。
「取り消したら、わたしがそれを言ったことが、なかったことになる。それは、ちがう」
あの女は、なにも言わなかった。
「言っておく。わたしは、まだお前を許していない。許せる気もしない」
息を継いだ。
「だが、お前が悪人だったなら、とっくに斬っていた。斬れなかったのは、お前が悪人でないからだ。わたしがいちばん、それを分かっていた。分かっていて、そうでないことにしたかった」
*
「ハルカ」
「……なに」
「なにがどうなっているのか、わからなかった。頭のなかが、ぐちゃぐちゃだった。おまえのおかげだ。ありがとう」
広げていた手が、下りた。
「停戦だ」
わたしは言った。すぐには、なにも来なかった。
「お前も、ルナを助けたいんだな」
「ええ」
あの女が答えた。
「この子は、わたしの大切な親友の、家族みたいな人なの」
少しだけ、息を継いだ。
「あの子は、まだ、あれとひとつになっていない。まだ、間に合うわ」
「まだ」が、2回あった。
2回言わなければ足りないくらい、際どいということだ。
わたしは刀を下げた。下げてから、頭を下げた。
「たのむ」
声がかすれた。
「きょうりょくして、くれ」
「ええ」
返事は、すぐに来た。
早すぎるくらいだった。この女は、こちらが頭を下げたことに、いちども触れなかった。
下げた刀の先が、床に触れていた。触れているのが、掌に伝わってきた。
「なにを、すればいい」
顔は、まだ見ていなかった。見なくても、両手が上がったままなのは分かる。
「あれを止めるだけなら、わたしにもできるわ」
「止めて、そのあとは」
そのあとが、来なかった。
言葉は返ってくる。話は1歩も進まない。
「それは、さっきも聞いた」
言ってから、頼んだばかりだと気がついた。頼んで、責めている。この手は、さっき下げたばかりだ。下げた形のまま、指だけが動いていた。
順番が、また分からなくなっていた。
半月あまり、寝ずに歩いてきた。その先が、この部屋だった。
*
壁のほうで、また石が落ちた。ゴロン、ゴロン。首の下にたまったものが、すこし高くなる。
白い体がうしろへ引いた。引いているのは体だけだ。うしろ脚が床を掻いて、ガガガッ、と掻いた先から石の粉が飛ぶ。
前脚は、動かない。落ちてきた石を、踏みもしない。
体が出ようとしては、自分で落ちた。もういちど掻いて、もういちど落ちた。3度目もおなじだった。
「……言ってるんだ」
ハルカの声だった。
「声だけじゃなかったよ。体でも言ってる」
わたしを見た。目が、まだ赤い。
「にげて、って」
わたしは、なにも返せなかった。
返せないのは、それが分かってしまったからだ。あの子は、自分を引き抜こうとしていない。引き抜けば、こちらへ来てしまう。だから壁に頭を突っこんだまま、うしろへ引きつづけている。
あの中で、まだ、そんなことを考えている。
わたしはさっき、その子を楽にしてやろうかと考えた。
喉の奥が熱くなって、わたしは口を閉じた。
ハルカが壁のほうへ歩き出した。止めようとして、手が出なかった。2歩で、あの子は自分で止まった。
その背中が、まだ震えていた。石に叩きつけられた背中だった。
*
ハルカが、くるりとあの女のほうへ向き直った。
「……れす、ふぃーな」
言い方が、教えてもらったときのままだった。
あの女の肩が、そこではじめて動いた。
「レスフィーナ」
自分の名前を、自分で言い直した。
「フィーナさん」
あの子は、勝手に短くした。短くしてから、口が半分開いたまま止まった。
「あのね。わたし、あなたのこと——」
そこで、切れた。
わたしの背中を見たのが、見なくても分かった。
あの子は口を閉じた。閉じたぶんだけ、肩が下がった。
「……なにしてる人なの?」
聞き直した声は、さっきより細かった。
「調べていたの。魂を呼ぶ術を」
「ずっと?」
「6年」
「シズちゃん。エルフさんって——」
*
答えられなかった。
壁の上のほうで、また石が抜けた。抜けたあとの穴から、外の風が1本、細く入ってきた。
部屋の空気が、そこでいちど、入れ替わった。
乾いた石灰と、古い土。この部屋をずっと埋めていたものが、風のほうへ引かれていく。
*
1枚、めくれた。
わたしが、めくったのではない。
*
黒い耳が、真上に立った。
*
雨のあとの、金物みたいな匂いだった。
道の真ん中で、しゃがんで嗅いだ、あの1枚目だ。
村の外れから北へ延びていた匂いだ。行った匂いだけがあって、来た匂いがなかった。日が経っても薄くならなかった。薄くならないのは、1回ではないからだ。何度も行って、いちども戻ってこない。
わたしはそれを、還っていく匂いだと言った。
*
還っていっていたものが、いま、2歩さきでひざをついている。
*
ハルカが、あのとき聞いたことがある。北へ行った匂いと土の下の匂いは、おなじか、と。
答えなかった。分からなかったからだ。
いま、分かった。
ちがう。
この人は、1枚目だ。
冷たいほうは、まだ下にある。
*
部屋に入ったときから、鼻はこの匂いに引っかかっていた。薬の匂いに埋まって、めくれなかっただけだ。
頭では、とうに分かっていた。
いま、体が分かった。
*
そこから先が、なくなった。
ここまで、順番に並べてきたものが、順番ごと消えた。誰から何を聞いたか。聞いてどう思ったか。村の外で、わたしが誰に頭を下げたか。ぜんぶ、うしろへ行った。
残ったのは、匂いひとつだ。
その匂いが、あの子の匂いの下にあった。
ずっと、あった。
*
2歩、詰めた。
詰めたのに、声が出てこなかった。
出てきたときには、薄くなっていた。
「……お前の匂いだ」
あの女は顔を上げない。
「道の真ん中にあった。家でも、井戸でもない。なにもないところが、いちばん濃かった」
息が、多い。言葉のあいだに、息のほうが多く入る。
「北へ延びていた。行ったきりで、戻ってこなかった。わたしは、それを追ってきた」
柄を握った手が、震えていた。止めようとして、もっと震えた。
「追いついた先が、ここか」
声は、割れなかった。割れるだけの太さが、もう残っていない。
「17日だ」
数えていた。朝が来るたびに、ひとつ足していた。
「17日、追った。1日も、止まらなかった」
息が、続かない。
「1日、早ければ」
そこで、止まった。その先は、言えなかった。
「あの子は、いま、あの中にいる」
言葉が短くなっていく。
「あの中で、獣を押さえている。押さえながら、わたしの首を避けている」
言えば減ると思っていた。減らなかった。
「返せ」
*
聞いていない。
なぜこうなったのか。里で何をしたのか。あの子をどうやって連れ出したのか。——ひとつも聞いていない。
聞く順番が、頭のなかにない。
言葉のほうが先に出て、あとから、自分が何を言ったのかが追いついてくる。追いついてきたころには、次のが出ている。
落ちてくるものが、大きくなっていた。さっきまでは粉だった。いまは、かたまりでゴツン、ゴツンと落ちる。
「……まだ、見つかっていないの」
「見つかっていない、だと」
わたしは、刀の柄を握り直した。
「6年やって、見つかっていないのか」
「ええ」
「では、なぜ、さらった」
声は上がらなかった。上がらないぶん、下から出てきた。八つ当たりだと分かっていた。分かっていて、止まらない。
「戻す方法も持たずに、あの子を連れ出したのか。持っていないなら、なぜ手を出した」
あの女の肩が、いちどだけ上がった。
わたしは、身構えた。
「助けようとしたのよ」
声は、それだけだった。
「助けようとして、間に合わなかったの」
それきり、続かなかった。
かわりに、あの女は上げていた掌を、また少しだけ動かした。壁のほうを見て、あれの前脚の位置を確かめて、床のあの子との線を引き直している。
わたしと話しながら、この人は、ずっとそっちを見ている。
わたしの言葉は、この人の中に入っていない。
入っていないのではない。入れる余裕がないのだ。
この人の中にあるのは、あの子とあれのあいだの線ひとつだ。わたしがどれだけ強い言葉を投げても、そのひとつに勝てない。
勝てるわけがない。
わたしも、おなじことを考えていなければならないからだ。
*
壁が、鳴った。高いところで、バキィッ、となにかが折れた。
こぶしより大きい石が3つ続けざまに落ちてきて、床でガンッ、ガンッ、と跳ねた。
白い体が横へずれる。首が、すこし上がっていた。
あの女の言葉は、そこで終わった。
わたしは、あの女のほうを見た。見て、あることに気がついた。
あれはいちども、あの女のほうへは行かなかった。ハルカのほうへは、何度も行ったのに。
「あれは、お前を襲わないのか」
「ええ」
あの女は、壁のほうを見たまま答えた。
「わたしは、なにもしていないもの」
「お前が連れ出さなければ、こうはならなかった」
「ええ」
「なぜ、返事をする」
「ほんとうだもの」
その声は、平らだった。二度とも、おなじ受け方だった。
こちらが何を言っても、おなじ高さで返ってくる。
この人は、自分を守ろうとしない。守らないから、当たらない。当たらないから、わたしはもっと強い言葉を探す。探して、投げて、また落ちる。
落ちた言葉が、床にたまっていく。
たまっているのは、この人の罪ではない。わたしの声だ。
「お前は」
自分の声が、低くなった。
「あの子を、なんだと思っている」
声が、また薄くなった。
聞きながら、答えはもう見えていた。
この人にとって、あの子は、命より先に手を出す相手だ。この部屋に入ってから、いちどもその線を外していない。
それが分かっていて、わたしは聞いた。
答えを聞くためではない。この人が答えられずに黙るところを見て、まだ怒っていていい理由がほしかったからだ。
*
返事は、来なかった。あの女は、床のほうを見ていた。さっきから、ずっとだ。
わたしは追わなかった。追えば、あの子を見ることになる。
刀を、握り直した。
部屋が静かだった。石の向こうの息だけが鳴っている。その息を数えそうになって、やめた。
かわりに、呼んだ。
「ルナ」
灯りの中で、開いていた爪が動いた。
ガリッ、と石を掻いた。
いちどだけだった。
返事だ、と思った。思ったとたん、目の奥が熱くなって、わたしは奥歯をかんだ。
*
石の向こうで、うなりが止まらなくなった。喉の奥ではない。もう、口の中で鳴っている。
その鳴っている上へ、なにかを押しこもうとする音がした。
ぎち、ぎち、とずっと続いた。
それでも、押し出されてきた。
「だ、め」
「たた、か」
そこで息が切れた。続きは、出てこなかった。
戦うな、と言っている。
白く濁った目が、あの女のほうへ動いた。
「ひ、と」
「ちが」
「ルナ! しゃべるな!」
うなりが、言葉の上へかぶさった。グルルルルルル、と太いものが、細いものを飲みこむ。声が、そこで消えた。
消えたまま、しばらく戻らなかった。
それでも、また上がってきた。
「シズ」
名前だけは、きれいに出た。
「ひ、と」
「だい、じ」
わたしも、あの女も、どちらもだと言っている。
短いうなりが、上からかぶさった。
「もう」
「たす、か」
そこで切れた。続きは、言わなかった。
言わなくても、分かった。
腹の底で、太いものが鳴った。骨をこすりながら、上がってくる。
口の中で鳴っているものが、頭の1音だけを通して、あとをぜんぶ濁らせた。
「わだ、じ」
「ん、な」
みんな、と言おうとしたのだと、遅れて分かった。唇が閉じないから、その1音だけが、どうしても外へ出ない。
牙のあいだで、うなりが声に食いついた。半分、もっていかれた。
「ころ」
「す」
鼻から、白い息が長く漏れた。赤い涎が糸になって、石の縁で切れた。
人の言葉をひとつ出すたびに、白く濁った目が、もう一段、白くなっていく。
「シズ、ぅ」
「じゅっ……じゅっ、ぽおぉ」
止めそこねた息が、そのまま塊で噴き出した。
「ちが」
「せん……せん、ぽおぉ」
数だ、と気づくまでに、間があった。
「はなれて〜〜」
濁らなかった。ひとつも、濁らなかった。
喉の奥で、毛の生えたものが身をよじった。ぐ、と下へ押し戻して、それでも上へ出てきた。
「にげ」
「ない、なら」
「ころして」
「おねがい〜〜」




