第26話 弱者
わたしは、その考えを見た。
消さなかった。消せなかった。
あの中で、あの子は自分を食っているものを押さえている。押さえながら、わたしの首を避けている。息を継ぐところが、さっきより増えている。戻す方法は誰も知らない。時間だけが減っていく。
このまま押さえきれなくなったとき、あの子はどうなる。獣の形に固まって、それでも中で目を覚ましつづけるのか。
だったら、いま。
わたしの手で、いま。
喉に入れれば、いちどで済む。あの子は痛がらない。わたしが痛がるだけだ。
——半月、その子を助けるために歩いてきた者の考えることか。
自分で自分に、そう言った。
言っても、その考えは消えなかった。頭のいちばん奥に座ったまま、こちらを見ている。
わたしは、助けたい。助けたいに決まっている。
助けたいのに、楽にしてやることも考えている。
その2つが、おなじ胸のなかに、いっしょに入っている。
こんなものを、誰に言える。
*
「あれを壊したら、この子は帰る場所をなくすわ」
あの女が、ひとことだけ言った。
わたしは振り返った。
「どういう意味だ」
聞きながら、自分の声が震えているのが分かった。
聞きたいのは、そこじゃない。
なぜこうなった。里でなにをした。あの子はどうやってあの中へ入った。戻す道はあるのか。ないのか。——聞きたいことは山ほどある。山ほどあるのに、口から出たのは、いちばん短い1つだけだった。
素直に聞けない。
聞いてしまったら、わたしはこの女に教わることになる。教わったら、この女を斬る理由が、また1つ減る。
あの女の唇だけが動いた。声が出てこない。
「どういう意味だと聞いている」
石の壁が、自分の声を返してきた。
あの女は、答えなかった。
答えないのを見て、わたしは少しだけ、ほっとした。
ほっとした自分に、吐き気がした。
*
壁のほうで、あれが動いた。はまったまま、太い体がねじれる。ゴリ、ゴリッ、と石が削れて、はまったところが少し広がった。広がっても肩は出てこない。
下がっていた刀が、また上がっていた。上げた覚えはなかった。
石の向こうで、あれの口が開いた。
すぐには、なにも出てこなかった。
喉の奥で、なにかが引っかかった。
ギシャ、と低いものが、いちど、外へ出かけた。
部屋の奥のほうへ、広がりかけた。
途中で、引っこんだ。
引っかかって、こすれて、ぎち、ぎち、とずっと続いた。
前へ出ようとして、足が止まった。
「シ……ズ……」
その2文字だけが、はっきりしていた。
わたしの口が、少し開いた。
「ルナ」
名前が、勝手に出た。
「ルナ、聞こえるか。わたしだ。シズだ」
喉の奥のうなりが、出かかった音に、うしろから追いついた。
「……おざえ……られ」
「おさえろ。もう少しでいい、おさえていろ!」
声が裏返った。
「わたしが、なんとかする! なんとかするから、そこにいろ!」
言い終わったわたしに、うなりが短くかぶさった。細い声が、下から飲まれて消えた。
「……ルナ」
息が、止まっていた。刀を持った手が、上げた形のままだった。指が柄から開かない。
なんとかする、と2度言った。2度とも中身がない。
しかも、そう叫んだ口の奥には、さっきの考えがまだ座っている。
わたしは、いま、この子に嘘をついた。
*
うしろで、ハルカが動いた。床に手をついたまま、顔だけが上がっている。
「……知ってたんでしょ」
わたしは答えなかった。
「ねえ、シズちゃん」
声が、震えていた。
「なんで、言わないの」
口のなかが乾いていた。黒い耳が、勝手にうしろへ倒れた。
言えるわけがなかった。
言えば、あの子はおなじことをする。ルナが中にいると知って、それでも首にぶら下がりに行く。
いや、ちがう。
わたしが、言えなかっただけだ。
口に出したら、それが本当になってしまう気がした。言わなければ、まだ、どこかで間違いだったということにできる気がした。
息を吐いた。吐ききるのに時間がかかった。喉が、うまく開かない。
「……あの中に」
そこで切れた。もういちど、息を吸った。
「ルナが、いる」
言った瞬間、ひざの裏が抜けそうになった。
ハルカが、動くのをやめた。
手が、床から離れた。
立った。
*
「手を貸すわ」
あの女が言った。
叫んだときより、ずっと低い声だった。部屋の端まで届かないくらいの小さい声だ。それなのに、この部屋でいちばんはっきり聞こえた。
「あれを止めるだけなら、わたしにも——」
「うるさい!」
言い終わる前だった。自分の声だと、あとから気がついた。
「だまれ。お前が言うな」
喉の奥が焼けた。
「お前が、ルナをさらったからだ。お前がさらわなければ、あの子はいま、村で飯を食っている!」
言い切って、息を継いだ。
継いだところに、何も返ってこなかった。
*
わたしは、この半月、この女に言うことを考えていた。
寝ないで歩いているあいだ、頭のなかで何度も言った。言い返されたら、こう返す。言い訳をされたら、こう潰す。泣かれても許さない。命乞いをされたら、それを聞いてから斬る。ぜんぶ、順番まで決まっていた。
そのぜんぶが、いま、行き場をなくしていた。
この女は言い返さない。言い訳をしない。泣きもしないし、命乞いもしない。
両手を上げたまま、床にひざをついて、こちらの言葉が飛んでくるのをただ受けている。受けながら、目だけがルナのほうを見ている。
わたしがひとこと叫ぶあいだにも、その掌の角度が、また少し変わった。
いま、この女が考えているのは、わたしの言葉のことではない。あの子をどうやって助けるか、それだけだ。
わたしの怒りが、どこにも当たらない。
投げたものが、そのまま床に落ちていく。落ちて、転がって、こちらを見ている。
わたしは何に怒っているんだ。
この女にか。ルナを止められなかった自分にか。喉を外したこの手にか。楽にしてやろうと考えた頭にか。
分からない。分からないまま、声だけが大きくなっていく。
*
背中のほうで、ざり、と布のこすれる音がした。
あの女が、動いていた。
立ってはいない。両手を上げたままだから、立てないのだ。ひざで床をこすって、前へ出てきていた。
止まったのは、わたしの背中の、すぐうしろだった。
振り向けない。振り向いたら、床のあの子が空く。
「後で、わたしをどうしてくれてもいいわ。この場で斬ってくれてもかまわない」
息が、耳のうしろにかかった。
「だから、いまだけは聞いて」
*
やめてくれ、と思った。
そういうことを言うな。
斬ってくれてもかまわない、と言われたら、わたしは斬れない。斬れなくなるために、そう言っているのか。そうではないのは、この半月ぶんの勘で分かる。この女は取り引きをしているのではない。本当に、自分の命はもう勘定に入れていない。
入れていない人間を、どうやって斬る。
わたしが追ってきたのは、こういう者ではなかった。
人をさらう者は、笑うか、逃げるか、言い訳をするものだと思っていた。村を焼いた男たちがそうだった。捕まえた盗人がそうだった。わたしはそういう者を斬るつもりで、ここまで歩いてきた。
目の前にいるのは、そのどれでもない。
ひざで床をこすってきた跡が、灯りの下に2本、まっすぐ伸びている。両手は上がったままだ。その手は、さっきからずっと、あの子と獣のあいだにある。
美しい、と思ってしまった。
思ってしまってから、頭に血が上った。
*
わたしは、振り返らなかった。
振り返らないまま、言った。
「……お前が」
自分の声じゃないみたいだった。
「あの子じゃなくて、お前が、そこに入っていればよかったんだ」
言い終わってから、手が動いた。
刀の柄が、掌のなかで滑っていた。
握り直した。
握り直すのに、2度かかった。
*
うしろで、ハルカが息を吸う音がした。
シズちゃん、と言おうとして、言えなかったのが分かった。
わたしも、自分がなにを言ったのか、言ってからようやく分かった。
人を、代わりに差し出せと言った。あの中に入って、獣に食われろと言った。それを、わたしの口が言った。
言いたかったわけではない。
なにか言えば当たると思ったのだ。強い言葉を投げれば、こんどこそ何か返ってくると思った。返ってきたら、わたしはそれを斬れる。斬れれば、この胸のなかがひとつに片づく。
そのために、いちばん醜いものを選んだ。
取り消せ、と頭のどこかが言った。
取り消さなかった。取り消したら、いま立っていられない。
*
あの女の息が、いちど、止まった。
止まって、それから、また前へ出た。
言い返さなかった。ひとことも。
かわりに、声が大きくなった。この部屋に入って、はじめて大きくなった。
「あの獣の中にいるのは、あの子の魂なの」
「さっきも言ったわ。あなたは、聞いていなかった」
「わたしたちが、争っている場合じゃない!」
*
その声を、上から潰すものが来た。
あれの口が、開ききっていた。
ずっと喉の奥でつかえていたものが、いっぺんに外へ出た。
ギシャアアアアアアアアアアッ!!!
部屋が、鳴った。
壁の割れ目から石が落ちた。灯りの火がぜんぶいっぺんに寝て、部屋がいちど、暗くなった。床のひびが、ビシッ、と1本、こちらへ向かって伸びた。
石の壁が返してきた音が、思っていたよりずっと遠くから帰ってきた。
この部屋は、こんなに広かったのか。
——あ゛あ゛あ゛
途中から、人の声になっていた。
*
ハルカが、耳を押さえていた。押さえてから、目をつぶってしまったことに気づいた顔をした。
わたしの首すじの髪が、風もないのに、うしろへ動いた。
足が、半歩、下がっていた。
下がったところで、止めた。
それから、その半歩を、戻した。
あの女の口が、動いていた。なにか言っていた。
聞こえなかった。
*
音が引いた。
わたしは、答えなかった。
うなずきもしなかったし、返事もしなかった。
いま返事をしたら、この女を認めたことになる。認めたら、わたしの半月が、まるごと行き場をなくす。
だが、あの声は、この女が言ったことをそのまま証明していた。
あの中に、ルナがいる。
証明されて、わたしは何を思ったか。
助かった、と思った。
まだ生きている。まだ間に合う。——そう思った自分に、心底、腹が立った。この女に教えられて、この女に証明されて、それで安心している。
わたしは、なんの役に立っている。
*
振り返った。
この部屋に入って、はじめて、あの女のほうへ体を向けた。
ひざをついた女が、そこにいた。両手は上がったままだ。灯りが上から当たって、白い頬に影を作っている。息は乱れているのに、指の先は震えていない。
その顔は、この半月わたしが頭のなかで斬りつづけてきた顔と、なにひとつ似ていなかった。
「さっき、そう言ったな」
声が、自分でも驚くくらい低くなった。叫んでいるあいだのほうが、まだ言葉だった。
「この場で斬ってくれてもかまわない、と」
あの女は、答えない。顔も、上げない。
斬られるのを待っている形だった。
刃を向ける場所が、この部屋ではじめてできた。
できたのに、この手はさっきから重くなる一方だ。
「いま、やる」
体が、前へ出た。
これは怒りではない、と、出ながら思った。
わたしはこの女に腹を立てているのではない。この女がここにいる限り、わたしはずっと、自分の胸の中身を見ていなければならない。それが耐えられないだけだ。
この人がいなくなれば、わたしはまた、単純な絵に戻れる。
そう思って、足が出た。
2歩で届く距離だった。あの女は逃げなかった。目も閉じない。
手首を、つかまれた。
小さい手だった。
「やめて!」
ハルカだった。その手に力がこもった。止まる重さではなかった。
ふりほどいた。小さい手が、あっけなく外れた。外れる感触が、手首に残った。
こんな力で、あれの首にぶら下がっていたのか。
1歩、出た。
うしろで、床を蹴る音がした。
*
あいだに、ハルカがいた。
わたしより、速かった。両手を横いっぱいに広げて、あの女の前に立っている。
肩が上下していた。ひざが、まだ笑っている。髪が汗で頬にはりついていた。石に叩きつけられた背中が、そこに立っていた。
「やめてってば! シズちゃんのばか! ばかっ!」
叫んだ拍子に、涙が飛んだ。拭きもしない。
「この人をいま殺したら、ルナちゃんを戻す方法がわからなくなるよ!」
「どけ」
「どかない!」
声が裏返った。それでも続けた。
「本当は、わかってるんでしょ! シズちゃん、わかっててやってるんでしょ! そういうの、いちばんだめだよ!」
「ハルカ」
「わたし、上からぜんぶ見てたもん! ぜんぶだよ!」
あの女を指した。
「この人、ずっとルナちゃんのほうに手を向けてた! わたしが振り回されてるあいだも、シズちゃんが斬りに行ったときも、ずっと! いちども自分のほうにしなかった!」
息が続かない。それでも続けた。
「わたし、こわかったよ。すっごくこわかった。でもね、いちばんこわかったの、いまだよ」
しゃくり上げて、それでも言い切った。
「いま、シズちゃんが、いちばん悪者の顔してる!」




