第25話 迷い
「……行け」
自分の声だった。言ってしまってから、刀の柄が手のなかで勝手に持ち直されていることに気がついた。決めたのは頭ではない。この手のほうが先に決めて、口があとから追いかけただけだ。順番が、逆だった。
ハルカが走った。灯りの下を、あの小さな背中が横切っていく。
止まれ。
喉のところまで、その言葉が来ていた。来ていたのに、出さなかった。
わたしは、この半月ずっと、頭のなかに1枚の絵を持って歩いてきた。
ルナをさらった者を見つける。斬る。ルナを抱えて村へ帰る。それだけだ。飯を抜いた日も、雨の中でひざまで泥に沈んだ日も、その絵さえあれば足が出た。単純だった。単純だから、歩けた。
その絵が、この部屋に入って30も数えないうちに、ぜんぶおかしくなった。
ルナは床に倒れている。息はしている。目は開かない。
さらった女は、部屋のまんなかでひざをついて、両手を上げている。逃げもしないし、隠れもしない。
そして、白い化け物が、わたしの名前を呼んだ。
「シ、ズ」と。
あの声はルナだ。ルナの喉の形だ。何度も呼ばれた。半歩うしろから、走るのが遅い子が息を切らしながら呼ぶ、あの呼び方だった。
どういうことだ。
わたしは何を斬りに来た。誰を助けに来た。助ける相手は、いまどこにいる。床か。あの中か。両方か。
分からない。
分からないことが、多すぎる。
頭の芯が、熱で膨らんだみたいに重い。息の吸い方が思い出せない。指の先だけが火にあてたように熱くて、胸の奥は冷たい。落ち着け。落ち着け。自分にそう言うたびに、心臓が一段ずつ速くなる。
止まれ、とハルカに言わなかったのは、そのせいだ。
止めたら、次に何をするか、わたしが決めなければならない。決められない。だから、走っていく背中を見送った。
わたしは、あの子に決めさせた。
*
部屋の奥で、ズシン、と石が鳴った。
もういちど。
ズシン。ズシ、ズシンッ。……ズシン。
4つが、ばらばらに来た。
4本の脚が、おなじ床を踏んでいない。踏む順番も、間隔も合っていない。あれは走っているのではなく、体が先に行って、脚があとから追いついている。
踏むたび、灯りの油が皿の中で跳ねた。天井から、パラ、パラ、と粉が落ちてくる。
白い体が、灯りの下へ出てきた。
毛の一本一本まで白くて、光を吸って鈍く見える。背丈はわたしの倍ではきかない。目は白く濁っていて、瞳がどこにあるのかも分からない。
すれ違いざま、その背中の一部だけがボコッ、と持ち上がった。
走りながら、まだ、できあがっていない。
内側から押されて、いまも形を変えつづけている。
その内側にいるものの名前を、わたしは知っている。
ひざが、勝手にゆるんだ。慌てて締め直した。だめだ。いま緩んだら、この足はもう二度と前に出ない。
「シズちゃん!」
ハルカの声で、目が戻った。
あれの首が、走っていくハルカのほうへ回っていた。白く濁った目が、あの小さな背中を追っている。見えていないはずの目だ。それでも、たしかに追った。
「ハルカ、右へ跳べ!」
跳ばなかった。
あの子は逆に踏みこんだ。
「いっけええええっ!」
助走のまま、床を蹴って——飛んだ。
白い首に、真正面から。
ガシィッ!
腕がまわりきっていない。それでも、指が毛をつかんだ。つかんで、そのまま体を引き上げる。
ガリィッ、と黒い爪が石の床をえぐった。
白い粉が上がった。その粉を割って、太い体が——
ドンッ!
いっぺんに前へ出た。
あれの首が、ハルカごと持ち上がった。わたしの位置からは、下から見上げる形になる。
あれが、体を振った。
ブオンッ、と空気が鳴った。
石の壁のでこぼこを、白いものと小さいものが、いっしょに走っていく。灯りがいちど、そのあいだで隠れた。
ガッ、ガガッ、ゴッ——
壁の出っぱりを、ハルカの体が3度、続けて叩いた。
3度目でいちばん大きいのが来た。
ドゴォンッ!!
ハルカの背中が、石の角にまともに入った。壁のかけらが2つ、下まで落ちてきて、床でバラバラと跳ねた。
わたしのひざが、床から浮きかけて、また落ちた。
行けない。行けば、床のあの子のところが空く。空けば、あれはそこへ行く。
いや、ちがう。
行けないのは、行ってどうするのかが決まっていないからだ。届いたとして、わたしはあれの何を斬る。喉か。脚か。斬っていいのか。斬ったら、どうなる。
考えているあいだに、白い体はまた壁をこすっていく。ギャリギャリギャリ、と毛と石がこすれて、白い筋が壁に何本も引かれていく。ハルカの足が、宙で2度、跳ねた。
*
わたしは、数えていた。
あれが突っこむ直前、必ずいちど、首が下がる。丘の斜面で数えたのとおなじだ。まだ半日も経っていない。わたしは、それを知っている。
知っていて、床から見上げていることしかできない。
白い体は走りつづけている。壁をこすって、灯りを横切って、また戻ってくる。戻ってくるたびに、小さいほうがいちばん外側を通る。いちばん強く振られる場所だ。
部屋の向こうから、ギシリ、と低いものが降りてきた。あれの、吐くほうの息だ。離れているのに、耳の奥まで来る。
吸うほうの息は、ハルカの耳のすぐそばで鳴っている。ヒュウウウ、と細く長い音だ。
その2つが、おなじ体から出ている。
吐くときは、木がねじれるような、汚いきしみだ。吸うときは、人の息だ。
わたしは、それを聞いていた。聞きたくなかった。
*
視界の端に、白いものが動いた。
あの女だった。
ひざをついたまま、両手を上げたまま、体だけを動かしている。目で追っているのは、走っている白い体ではない。床に倒れているルナだ。
あれが向きを変えるたび、あの女の掌の向きが、わずかに変わる。あれと、床のあの子とを結んだ線の上に、いつも手がある。
わたしは、この女を殺すために半月歩いた。
その女が、いま、わたしより先にルナの前へ手を出している。
喉のところで、なにかがつかえた。
この女は、なぜ逃げない。なぜ、わたしの目の前で、そんなことをしている。逃げてくれれば楽だった。刃向かってくれれば、もっと楽だった。斬る理由が、いくらでもあった。
*
吸う音が、長くなった。
ヒュウウウウウウウ——
長すぎた。
そして、来た。
音では、なかった。
歯の根がしびれた。胸のなかの空気が、下から揺すられた。ひざの下の石が、そのまま体を突き上げてきた。灯りの火が3つ、いっぺんに寝て、部屋が半分暗くなった。天井の継ぎ目から、ザアッ、と粉が滝みたいに落ちてくる。
上で、腕がいちどほどけかけた。
「——っ、ぁ」
ハルカの声が、途中で切れた。
指は、まだ首にかかっていた。
*
首が、下がった。
喉の下が、開く。白い毛のいちばん薄いところが、目の前に出てきた。
行ける。いま行けば、届く。
「シズちゃん! いま!」
その2文字で、体が出た。
白く光った床を蹴った。あの女が張った足場だ。使っている。使いながら、礼を言う気にはならない。
ダンッ!
いままででいちばん深く沈んで、沈んだぶんだけ前へ出た。石の粉が、蹴った跡からうしろへ飛んでいく。
1歩で、間が消えた。
あれの息が顔にかかる。生臭くて、熱くて、その奥に草を干したような匂いが混ざっている。
ルナの匂いだ。
白い喉が、ゆっくりこちらへ下りてきた。
体を倒す。肩が石をこするところまで倒して、そのまま滑りこんだ。上を、白い胸が通っていく。
下から、入れた。
刃の先が喉の下へ吸いこまれる——その手前で、手首がひとりでに返った。
外した。
止められたのではない。誰にも触られていない。わたしが、自分で外した。
ザシュッ!
刃は、前脚の外側に入った。手応えが柄を伝って、ひじまで上がってくる。皮の下で刃が滑って、そこでゴリッと止まった。浅い。骨に届いていない。
「ギャアッ!」
あれの走りが、いちどだけ乱れた。前脚が石を空振りして、太い体が半分ほどかしいだ。
抜いた。ズルッ、と血の筋が横へ飛んで、床に線を引いた。
滑りこんだ勢いのまま立ち上がって、振り返る。
かしいだ体が、そこで踏みとどまった。
抜いたところから、獣の匂いがいっぺんに噴き上がってきた。そのなかに、また草の匂いがある。
知っていて、入れた。
なぜ喉を外した。
答えは、出ていた。出ていたが、言葉にはしなかった。
*
息が、いっぺんに上がった。走ったわけでもないのに、肩が勝手に上下して止まらない。腕が指の先までしびれている。柄を握っているはずなのに、握っている感じがしない。
あれは止まらなかった。傷ついた前脚で、そのままドンッと石を踏み直した。踏んだところに、赤いものが半分だけ残った。白い体が向きを変えて、また来る。
2度目を入れた。
背骨のほうへ回りこんで、脇の下を狙った。届く前に太い体がねじれて——
ガッ!
刃はおなじ前脚の外側に落ちた。硬いところに当たって、腕までしびれが跳ね返ってくる。
3度目を入れた。
こんどは、こちらから追った。
右へ跳ぶと見せて、左へ抜けた。あれの頭が右へ回る。回した先に、わたしはいない。
石を蹴って前へ出て、すれ違いざまに引いた。
ザシャアッ!
また、おなじ場所だった。
どちらも浅い。
入れられる場所が、増えないからだ。深く入れられる場所は喉と胸で、そこへ入れれば止まる。止まれば、終わる。
あれの息は、まだ強い。わたしの息のほうが先に細くなっていた。
*
すれ違いざま、あれの尻尾が来た。
見えなかった。
ドムッ!!
脇腹に、丸太が入った。
体が浮いた。浮いてから、自分が飛んでいることに気がついた。
ドガァンッ!
背中から石の壁に入った。息が、いっぺんにぜんぶ出ていった。目の前が白くなって、口のなかに鉄の味が広がる。
ずるずると、壁をこすって床まで落ちた。刀は離していない。それだけは、指が覚えていた。
「シズちゃん!!」
上から、ハルカの声。
「大丈夫だから叫ぶな。舌をかむぞ」
言いながら、ひじをついた。腕が震えて、いちど崩れた。もういちどついた。
息を、吐く。吸う。吐く。
3つで、戻った。
立った。立ったところへ、白い頭がもう来ていた。
——来い。
こんどは、見えている。
*
白い前脚が、上がった。
落ちてくる先に、わたしがいた。
半歩、退がる。
ドゴォッ!!
爪が、鼻の先をかすめて落ちた。わたしのいた場所から半歩ぶん外れたところの石が、砕けて舞い上がった。こぶしほどのかけらが3つ、天井の高さまで飛んで、バラバラと落ちてくる。破片が頬をかすめて、熱い線が走った。
床に、ひび。灯りの下で、そこだけ黒く裂けていた。
2度目。
こんどは退がらない。前へ入った。
ガリィッ、ギャリギャリギャリ——
爪が背中のすぐうしろを通って、石の床に5本の溝を引いた。
3度目は、届く前に止まった。
ピタリ、と止まった。爪の先が、わたしの喉から指2本ぶんのところにあった。
その爪の腹に、刃を当てて、横へ流した。
カンッ、と鳴って、白い脚が外へ逃げた。
「シズちゃん、いまの——」
「……いまの」
ハルカの声が、上から降ってきた。
「あれ、わざと外してた!」
「知っている」
上を向いたまま、そう答えた。
声が、自分でもぞっとするほど平らだった。
丘の斜面から、ずっとそうだ。当たっているのは、いつもわたしの刃のほうだった。
こらえているのだ。あの中で。獣に食われながら、それでも腕を外している。
外せるということは、そこにいるということだ。
わたしは何をしている。守られているのは、わたしのほうじゃないか。あの子はいま、自分を食っているものを押さえながら、わたしの首を避けている。押さえるのに、どれだけ力が要ると思う。その力を、あと何回ぶん残していると思う。
早くしろ。
早く、なんとかしろ。
なんとかする。その中身を、わたしはひとつも持っていない。
*
あれの首が、いきなり横へ振れた。
ブンッ!
上の小さい体が、いっしょに持っていかれる。
腕は、まだ首にかかっている。
もういちど、振れた。こんどは下へ。
ズザアアアッ!
白い背中が床すれすれまで下りて、ハルカのひざが石を削った。そのまま跳ね上がる。
「うぐっ……!」
それでも、落ちない。
「うああああっ、シズちゃん、いま、いま来て!」
「待て、ハルカ、待——」
あれの動きが、そこで変わった。
頭を下げたまま、うしろ脚だけで石を掻いた。ガッ、ガッ、ガガッ。体がまっすぐでなくなる。まっすぐでないまま、前へ出た。
行った先は、床のルナからいちばん遠い壁だった。
止まらなかった。
わたしは走った。追いつくわけがない距離だった。走りながら、間に合わないと分かっていた。
途中で、腕が外れた。ハルカが横へ投げ出されて、床を2度跳ねた。ゴロゴロ、ドンッ、と壁の手前で止まる。
あれは、そのまま行った。
ドゴォォォォンッ!!!
部屋が、揺れた。
壁が内側から押し出される。石が縦に裂けて、メキメキメキ、と割れ目が上まで走った。崩れたところに入ったのは、白い頭だけだった。肩はその手前でつかえている。前脚は、こちらの床に残ったままだ。
太い体が、うしろへ引いた。引いても頭が抜けてこない。欠けた石が、首のまわりにガチガチとかんでいる。
2度、3度と引いた。引くたびに壁の上のほうからゴロン、ゴロンと石が落ちて、首の下にたまっていった。
たまっただけだった。
そこで、止まった。
パラパラと、細かいものが灯りの下を落ちていく。
はまった。
この部屋に入って、はじめて、あれが動けなくなった。
ハルカの体は、床についたままだった。
*
一拍、なにも起きなかった。
わたしは動いていた。考えるより先に、刀を上げていた。
いまなら届く。動かない前脚が、目の前にある。石の上で、開いた爪に灯りが当たっている。
4度目を入れる。浅くていい。止まればいい。
この髪をきれいだと言ったやつは、ルナだけだった。
なんで、そんなことをいま思い出す。
床のほうは見ないようにしていた。この部屋に入ってから、ずっとだ。見たら、動けなくなると分かっていた。
「待って!」
ハルカの声だった。床の低いところから来た。
「斬っちゃだめ!」
振り返った。刀は上がったままだった。なぜ止まったのか、自分でも分からない。ただ、止まっていた。
ハルカが指を差している。その先を追った。
床だった。
あの子の、腕。
おなじところに、おなじかたちで、赤い線が引かれていた。
目が、そこから動かなくなった。
わたしが入れたところと、まったくおなじ場所だ。1度目。2度目。3度目。3本、ある。
部屋の音が、遠くなった。
*
わたしは、そこでようやく分かった。
斬れば、この子に写る。深く入れれば、深く写る。喉に入れれば、この子の喉が開く。
だから、あの獣を殺すというのは、この子を殺すということだ。
言葉にしてしまうと、たった2行だった。2行のことに、わたしはさっきから3度も刃を入れていた。
ひざが笑った。両手で柄を握り直して、無理やり立った。
そして、そのときだ。
頭のいちばん奥から、ひとつの考えが、す、と上がってきた。
——楽にしてやったほうが、いいのではないか。




