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転生少女と黒狼姫 〜女神に選ばれた少女と、掟破りの狼族戦士〜  作者: 白川雫


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第24話 人の声

 にげて。


 あれは、そう言った。


 意味は、あとから来た。


 腕の鳥肌が、まだ引いていなかった。


 「……いま」


 自分の声が、うまく出てこなかった。


 「いま、あれ、にげてって言った」


 シズちゃんは、答えなかった。


 黒い耳が前を向いたまま、ぴくりとも動かなかった。


 背中も動かなかった。


 息の音だけが、聞こえていた。


 その息が少しずつ速くなっていくのが、うしろから聞いていて分かった。


   *


 わたしのうしろで、布のこすれる音がした。


 女の人が、床にひざをついていた。


 白い髪の子のそばで、顔も上げないで。


 「……見えないでしょう」


 その人が言った。


 誰に言ったのか、わたしには分からなかった。


 両手が、上を向いた。


 空気が、鳴った。


 薄いガラスを指ではじいたような、細くて高い音だった。


 その音が消えるより先に、天井のきわに、小さい光がいくつも浮かんだ。


 部屋が、いっぺんに明るくなった。


 そこでわたしは、はじめて気がついた。


 この部屋は、小さくなかった。


 明るくなって、やっと分かった。


 暗くて見えていなかったところに、床がまだずっと続いていた。天井も、奥へ行くほど高くなっていた。


 あの白い背中が立ち上がっても、まだつかえないくらいに。


 ……ひろい。


 こんなときに思うことじゃなかった。


 でも、思ってしまった。


   *


 女の人が、袖の内側から小さい刃物を出した。


 自分の指先に、いちどだけ当てた。


 赤い点が、ひとつできた。


 その指で、床に短い線を引いた。


 線が、光った。


 部屋のまんなかの大きな円と、おなじ光り方だった。


 女の人が、立ち上がった。


 両手が、空いていた。


 空いているのに、その目だけは、床のあの子から離れなかった。


 この人は、あの子から目を離すつもりがないんだ。


 わたしは、そう思った。


 「お前は」


 シズちゃんが言った。


 「里で、なにをした」


 女の人は、答えなかった。


 答えないまま、目だけが、床のあの子へ動いた。


 シズちゃんの足が、動いた。


 「シズちゃん」


 わたしは言った。


 つかまなかった。


 つかんだら、たぶん、振りほどかれた。


 「あとで、ぜんぶ聞こう」


 「……あとで、ぜんぶ話すわ」


 女の人が言った。


 シズちゃんは、その人を見なかった。


 見ないまま、刀を、持ち直した。


   *


 奥の暗いところで、石が鳴った。


 思っていたよりも、ずっと遠くからだった。


 その音が、こっちへ来る。


 ……足の音が、そろってない。


 人が走る音なら、いち、に、いち、に、になる。


 この音は、そうならなかった。


 早いのと遅いのが混ざって、途中でいちど、抜けた。


 抜けたところを、わたしは待ってしまった。


 待った分だけ、次のが大きかった。


 暗がりから、乾いた匂いが流れてきた。


 村の下で嗅いだのとおなじ匂いだった。


 でも、ずっと濃かった。


 息の音も、聞こえていた。


 浅くて速くて、途中で何度もつかえる息だった。


 走ったあとの息じゃなかった。


 痛いのを我慢している人の息に、いちばん近かった。


   *


 そして、来た。


 外で見たときと、速さがちがった。


 いや、ちがう。速さは、おなじだった。


 白い背中が動いて、床の影が、部屋の端から端までいちどに走った。


 その一瞬で、あの獣はもう部屋のまんなかにいた。


 寝ているあの子の、すぐ横だった。


 シズちゃんが、前に出た。


 わたしの目が、追いつかなかった。


 この旅で見たなかで、いちばん速い踏み込みだった。


 この人は、半月あまり、ろくに眠っていない。


 わたしはそれを知っている。


 夜中に目が覚めると、いつも起きて、火の番をしていた。


 そういう人の、いちばん速い踏み込みだった。


 刃が、白い横っ腹に届く。


 そのはずだった。


 届かなかった。


 あの獣は、そこにいなかった。


 シズちゃんが刃を振り抜いた場所から、半歩ぶん外れたところに、もういた。


   *


 シズちゃんの体が、床を蹴り直した。


 2度目。


 刃が空を切った。あの獣は、また半歩ぶん外れたところにいた。


 外れる前に、体のどこかがごき、と鳴った。


 鳴ってから、動いた。


 3度目、シズちゃんは踏み込む足を変えた。


 変えたのに、外れる向きだけはおなじだった。


 4度目は、刃が下から行った。


 あの獣の腹は、そこになかった。


 シズちゃんの息が、はっきり聞こえるようになっていた。


 5度目に踏み込む前に、わたしは気がついた。


 見ていたから、気がついた。


 シズちゃんの足が動く。


 その前に、あの獣の頭が動いている。


 あとから追いかけているんじゃなかった。


 先に、待っていた。


 シズちゃんも、数えていた。


 あの獣が突っこむ前に、いちど、首が下がる。丘でも、そうだった。


 シズちゃんの刃は、いつも、そこから動きだしていた。


 「シズちゃん!」


 わたしは叫んだ。


 「シズちゃんが動く前に、あの獣が動いてる!」


 シズちゃんの黒い耳が、いちどだけうしろを向いた。


 それでも、足は止まらなかった。


 止められる速さじゃ、なかった。


   *


 だったら、わたしが見るしかなかった。


 わたしは獣の頭を見た。首の傾きを見た。前脚が内側へたわむ角度を見た。


 行き先が、分かった。


 「右!」


 わたしは叫んだ。


 「右に来る! 右!」


 シズちゃんの刃が、右へ回った。


 あの獣は、右から来た。


 合っていた。


 合っていたのに、当たらなかった。


 シズちゃんの刃が届くところに、あの獣の体はもうなかった。


 教えても、間に合わない。


 教わるより先に、知っていた。


 わたしは、ぞっとした。


 シズちゃんの癖を、知っている。


 踏み込むとき、右の足にいちどだけ体重が乗ること。


 斬る直前に、ほんの少しだけ肩が下がること。


 わたしが半月かけて覚えたものを、この獣は最初から持っていた。


   *


 女の人の手が、動いた。


 ゆがんだ空気が、あの獣の行く手に、板みたいに立った。


 止まらなかった。


 向きが、ほんの少し変わっただけだった。


 横を抜けるとき、白い背中の真ん中より少し上が、内側から押された。


 こぶしくらいの盛り上がりが皮の下をすうっと通って、肩のあたりで消えた。


 ……いま、動いた。


 外から押されたんじゃない。


 中から、押された。


   *


 黒い爪が、上から落ちてきた。


 シズちゃんの肩の上に。


 わたしは、声も出せなかった。


 当たる。


 そう思った。


 当たらなかった。


 爪は、シズちゃんの肩のすぐ横で、外へそれた。


 誰もそらしていないのに。


 石の床に、がり、と爪が入った。


 白い粉が上がった。


 シズちゃんは、その粉のなかから跳んで離れた。


 「……いま、当たってた」


 わたしはそう言った。誰にも聞こえていなかったと思う。


 当たっていた。ぜったいに。


 わたしは自分の腕を見た。


 まだ、鳥肌が引いていなかった。


 ……なんで、生きてるんだろう。


 わたしも。


 シズちゃんも。


   *


 あの獣の口が、開いた。


 なにも、出てこなかった。


 開いたまま、喉のところが、上下に動いていた。


 出そうとして、出せていない動きだった。


 ぎしゃ、と低いのがいっぺんだけ外へ出かかって、すぐ引っこんだ。


 それから、もういちど。


 こんどは引っかかって、こすれて、それでも無理やり押し出されてきた。


 「にげ、で」


 言葉に、なっていた。


 人でも獣でもない、あの混ざった声のままで。


 それでも、はっきり、言葉になっていた。


 けものの音の、下のほうから。


 人の声が、出てきていた。


 シズちゃんが、また床を蹴ろうとしていた。


 その足が、途中で止まった。


 「シズゥゥ……にげ、でぇ」


 言い終わるより先に、低いものが下から戻ってきた。


 いま出たばかりの言葉を、下から飲み込むみたいに。


 あの子の口の端から、赤いよだれが糸になって垂れた。


   *


 背中を、なにかが上っていった。


 いま外へそれた爪と、いまの声が、頭のなかでくっついた。


 「……あの子だ」


 わたしは言った。


 「シズちゃん、あの子が、爪をそらしてる!」


 シズちゃんは、振り返らなかった。


 黒い耳が、いちどだけ動いた。


 止まっていた足が、また動きだした。


 それだけだった。


   *


 わたしのうしろで、布の落ちる音がした。


 振り返った。


 あの女の人だった。


 まっすぐ前に出ていたはずの両手が、下がっていた。


 ひざから先が、崩れるみたいに床についていた。


 「ルナ」


   *


 「ルナ、ルナ」


   *


 「るなーーーー」


   *


 名前が、途中で形をなくした。


 わたしは、この人がこんな声を出すとは思っていなかった。


 ずっと、静かな人だと思っていた。


   *


 ゆがんだ空気の板が、消えた。


 あの獣が、まっすぐ前へ出た。


 止めるものが、なにもなかった。


 その先に、床のあの子がいた。


   *


 シズちゃんが、入った。


 刀の腹を、白い前脚の内側へ叩きこんだ。


 叩きこんで、そのまま押した。


 押しきれなくて、横へ滑った。


 滑って、ひざをついて、また立った。


 立った場所は、あの子の半歩前だった。


 なにも、言わなかった。


 女の人のほうを、見もしなかった。


 女の人の息が、いちど、大きく詰まった。


 両手が、上がった。


 さっきと、おなじ高さまで。


 その手は、それから、いちども下がらなかった。


 そのひざが、動いた。


 立ち上がるんだと思った。


 ちがった。


 両手を上げたまま、その人は、ひざで歩いた。


 いちどで、こぶしひとつ分くらいだった。


 それを、何度もやった。


 立てば、速い。


 でも、立ったら、手が下がる。


 この人は、それができないんだ。


 ひざで歩いて、その人は、床のあの子の横まで行った。


 行って、そこで止まった。


 上げたままの両手は、あの子と、あの獣のあいだにあった。


   *


 シズちゃんは、うしろを見なかった。


 あの人が横に来ても、耳ひとつ動かさなかった。


 あの人のほうも、シズちゃんを見ていなかった。


 低い唸りが、ずっと続いていた。


 2人とも、おなじものを見ていた。


 おなじものを見ているのに、それだけのことが、この2人のあいだで通っていなかった。


 ……いま、それ、どうにかできないかな。


 わたしは思った。


 思っただけで、なにも言えなかった。


 言ってどうにかなる顔を、2人ともしていなかった。


   *


 あの獣の体が、こんどはこちらへ来た。


 顔は、まだ壁のほうを向いていた。


 体が半分ほど来たところで、白い頭だけがあとから、ぐるりと回ってきた。


 その頭が、下からすくい上げるみたいに来た。


 わたしは横へ跳んだ。


 跳んだ先に、頭はなかった。


 黒い爪が、わたしがさっきまでいた床をがりがりと掻いた。


 石が削れて、白い粉が上がった。


 ……あれ。


 わたしは、床に手をついたまま思った。


 間に合った。


 シズちゃんのときは、いつも先に待たれていた。


 わたしのときは、あとから来た。


 もういちど、来た。


 こんどは、横から。


 わたしはしゃがんで、その下を抜けた。


 抜けられた。


 こんなに速いのに、抜けられた。


 ……見つかってはいる。


 ……でも、先には、いない。


 わたしは、そのちがいを、まだ言葉にできなかった。


 言葉にできないまま、体だけが、それを分かっていた。


   *


 シズちゃんが、わたしと獣のあいだに入った。


 入った、その場所に、もう爪があった。


 シズちゃんは受けた。


 かん、と鳴って、そのまま3歩うしろへ滑った。


 わたしのすぐ前で止まった。


 息が、荒かった。


 「ハルカ」


 「うん」


 「離れるな」


 「うん」


 離れるな、と言われても、わたしは離れる気がなかった。


 この人は、わたしをうしろに置きたがる。


 置かれたら、なにも見えなくなる。


 わたしは、見えるところにいたかった。


 ……こわくないわけじゃ、ないんだけど。


 ひざが、さっきから、ずっと笑っていた。


   *


 シズちゃんが、また前に出た。


 刃が、白い前脚の外側をかすめた。


 浅かった。それでも、届いた。


 届いた、その瞬間に、シズちゃんは下がった。


 下がって、わたしの半歩前で止まった。


 さっきと、おなじ場所だった。


 わたしと、床のあの子と、あの獣のあいだだった。


 わたしは、それを見ていた。


 見ていた、それだけだった。


   *


 あの獣が、体の向きを変えた。


 変えた先に、女の人がいた。


 わたしは走った。間に合わないと分かっていて、それでも走った。


 走りきる前に、あの獣はもう通り過ぎていた。


 女の人の、すぐ横を。


 毛のない太い体が、その肩をかすめるくらいの近さで。


 爪も、牙も、向けなかった。


 顔さえ、向けなかった。


 女の人は、動かなかった。


 まばたきも、しなかった。


 肩に触れられても、その顔は横を向かなかった。


 見ているのは、ずっと、床のあの子だった。


 ……なんで。


 わたしは、走るのをやめた。


 なんで、わたしたちだけ。


 丘の斜面のときも、そうだった。


 ミアさんがいた。年寄りがいた。いちばんうしろにトトがいた。


 この獣は、その横を走り抜けた。


 触れもしなかった。


 顔も、向けなかった。


 いまも、おなじだった。


 答えは、どこにもなかった。


 考えている場合でもなかった。


   *


 あの獣が、口を開けた。


 喉が、ぎち、と鳴った。


 「シ、シ、シズ」


 「おさえ……られ、な」


 言い終わらないうちに、下から、太いのが上がってきた。


 あの子の声が、そこで消えた。


 シズちゃんの刀の先が、下がった。


 下がって、すぐに、戻った。


   *


 「ル——」


 女の人の声だった。


 そこで、切れた。


 自分で、口を閉じたのが分かった。


 閉じた唇が、白くなっていた。


 わたしは、なにも言えなかった。


 シズちゃんが、また構え直した。


 肩が、大きく上下していた。


 こめかみから汗が落ちて、あごの先で光った。


 ……さっき外で斬ったときは、ただの獣だった。手負いになって、自分で戻っていった。


 シズちゃんの声が、頭のなかで鳴った。


 ……そこへ、あの獣が逃げこんできた。


 女の人の声も、鳴った。


 わたしの頭のなかで、その2つがくっついた。


 ……あの獣を、奥に、追いやったのは。


 喉の奥が、すっと冷たくなった。


 わたしは、それを飲み込んだ。


 いま言うことじゃなかった。


 いま言ったら、シズちゃんの足が止まる。


 止まったら、死ぬ。


 だから、飲み込んだ。


 でも、言わなきゃいけないことは、もうひとつあった。


 こっちは、言わないと死ぬほうだった。


 わたしはシズちゃんの背中に向かって言った。


 「シズちゃん」


 「……なんだ」


 声が、低かった。


 「あの獣、シズちゃんのこと、知ってる」


 シズちゃんが、振り返った。


   *


 わたしは、思い出した。


 この獣の、倒し方を。


 丘の斜面でやったばかりだった。まだ、半日も経っていなかった。


 首の横に刃を落としたときは、乾いた木を叩いたような音がした。


 通らなかった。


 喉の下に潜り込んだときは、音がちがった。


 深く、入った。


 通るところが、1箇所だけあった。


 「シズちゃん、丘でやったやつ、もう1回やる」


 わたしは言った。


 「わたしが首につかまる。シズちゃんは、下から」


 シズちゃんの体が、そこでいちどだけ止まった。


 黒い耳が、うしろを向いた。


 向いて、それからまた前を向いた。


   *


 「だめだ」


 シズちゃんが言った。


 「あれの首は、外のときより太い。振られたら、石の壁に叩きつけられる」


 「知ってる」


 「知っていて言うな」


 「シズちゃん」


 わたしは言った。


 「ほかに、やり方ある?」


 シズちゃんは、答えなかった。


 答えられないとき、この人はいつも黙る。


 「あれ、シズちゃんのことは分かるけど、わたしのことは分かってない」


 わたしは続けた。これを言わないと、たぶん、シズちゃんは飲まなかった。


 「さっきから、先回りされてるのは、シズちゃんだけだよ。わたしのときは、あとから来てる」


 黒い耳が、前を向いた。


 刀の握りが、変わった。


 「……行け」

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