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転生少女と黒狼姫 〜女神に選ばれた少女と、掟破りの狼族戦士〜  作者: 白川雫


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第23話 からっぽ

 扉の向こうで繰り返されていたあの声は、扉が開いたとたん、止まった。


   *


 止まる前のいちばん最後のひとことだけが、耳に残った。

 なにを言っていたのかは、やっぱり分からなかった。


   *


 小さい部屋だった。石の壁に囲まれて、窓はひとつもなかった。


   *


 ここには、外がなかった。


   *


 風の入る隙間も、光の入る隙間もなかった。

 なのに、明るかった。


   *


 高いところに、灯りがつるしてあった。

 その光が、床に落ちていた。


   *


 床に、線があった。


   *


 円だった。大きい円が、ひとつ。

 その内側に、細かい模様がびっしり入っていた。


   *


 白く、光っていた。

 灯りを返しているんじゃなかった。


   *


 線そのものが、内側から光っていた。


   *


 わたしは灯りを見上げて、それから床を見た。


   *


 灯りの火は、揺れていた。


   *


 床の線は、揺れなかった。


   *


 おなじ白なのに、片方だけ、まばたきをしなかった。


   *


 さっきの広い場所にも、丸い模様があった。

 あれは消えかけていて、指で押したら、薄くなった。


   *


 おなじ形だった。


   *


 でも、これには、指を置けなかった。


   *


 線の太さだけは、どこもおなじだった。

 いちばん外から、いちばん内まで。


   *


 ……描いた人は、いちども手を止めなかったんだ。


   *


 わたしは、さっきの石の列を思い出した。

 いちばん小さい石にも、おなじ丁寧さで刻んであった、あの字を。


   *


 部屋には、匂いがあった。薬みたいな、つんとする匂い。


   *


 白いものの匂いは、しなかった。

 扉の手前で消えたまま、この中までは入ってきていなかった。


   *


 床に、ガラスのかけらが散っていた。小さい瓶が、割れていた。

 かけらは、円の外にあった。


   *


 誰かが、落としたみたいに。

 わたしは、それを踏まないように通り過ぎた。


   *


 円の真ん中に、女の人がひざをついていた。


   *


 腕に、白いものを抱いていた。


   *


 わたしは、身構えた。外で戦った、あれだと思ったから。

 乾いた白。石灰みたいな、あの白。


   *


 でも、ちがった。


   *


 白いのは、髪だった。


   *


 長くて、まっすぐで、灯りの下でうっすら光る髪。

 女の子だった。わたしより、小さい。10歳か、11歳くらいの。


   *


 目を、閉じていた。腕が、だらんと垂れていた。

 指の先が、床のすぐ上で止まっていた。


   *


 揺れて、いなかった。

 抱かれている人の腕は、ふつう、少し揺れるのに。


   *


 でも、胸はゆっくり上下していた。


   *


 息は、していた。


   *


 わたしのうしろで、シズちゃんが息を吸った。

 吸って、止めた。


   *


「……ルナ」


   *


 その声を、わたしは、はじめて聞いた気がした。

 半月あまり、この名前だけを頼りに歩いてきた人が、その名前を呼んだ声だった。


   *


 わたしは、この子を知らない。


   *


 名前を、いちど聞いただけだった。

 焚火の横で、シズちゃんが口にした。それだけだった。

 顔も声も笑い方も、なにも知らない。


   *


 だからわたしがいま見ているのは、はじめて見る、知らない女の子だった。

 シズちゃんには、ぜんぜんちがうものが見えている。


   *


 わたしとシズちゃんのあいだに、そこだけ、長い距離があった。

 わたしは、それをこえられなかった。


   *


 シズちゃんが、1歩前に出た。


   *


「ルナ」


   *


 その子は、動かなかった。


   *


 まぶたも。


   *


 指も。


   *


 耳の先も。


   *


 名前を呼ばれたのに、なにも動かなかった。


   *


 わたしは、扉の前で数えたことを思い出した。


   *


 光が、あった。


   *


 息が、あった。


   *


 声が、あった。


   *


 3つとも、まだ、あった。


   *


 なくなったものは、ひとつもなかった。


   *


 なのに。


   *


 シズちゃんの足が、そこで止まった。


   *


 わたしには、シズちゃんの顔が見えなかった。背中しか、見えなかった。

 だから、背中を見ていた。


   *


 肩のところが、いつもより高かった。

 息を吸うたびに上がった。吐くたびに下がって、下がりきる前に、また上がった。


   *


 吐ききって、いなかった。


   *


 黒い耳は、前を向いたまま動かなかった。

 伏せても、いなかった。立っても、いなかった。


   *


 なにか音がすれば、いちばんに動くところだった。


   *


 いまは、動かなかった。


   *


 そして、尻尾。


   *


 わたしは、シズちゃんの尻尾のことを、けっこう知っている。


   *


 うれしいときは、ふわり、と大きくひとつ揺れる。

 照れたときは、先だけが小刻みに動く。

 なにか音を拾ったときは、根元が固くなって、ぴたっと止まる。


   *


 崖のふちでは、わたしの腰にそっと巻きついた。あれは、あたたかくて重かった。


   *


 いまのは、そのどれでもなかった。

 落ちているんじゃなかった。


   *


 下へ向かって、引っぱられていた。

 根元から先まで、まっすぐに。毛が、1本も横を向いていなかった。


   *


 そして、いちばん先だけが、細かく震えていた。

 わたしは、その震えに名前をつけられなかった。


   *


 わたしの知っている尻尾のなかに、これは、なかった。


   *


 刀を持つ手も、見えた。

 柄を握った指のところだけが、白かった。

 さっき、扉の板を握ったのと、おなじ握り方だった。


   *


 あのとき、シズちゃんはいちど手を離した。


   *


 離して、また戻した。


   *


 いまは、離さなかった。


   *


 わたしは、声を出そうとした。

 なにを言うのかも決めないまま、喉のところまで来た。

 来て、止まった。


   *


 ……いま、なにを言っても、ちがう。


   *


 わたしは、口を閉じた。


   *


 シズちゃんは、それ以上、進まなかった。


   *


 あと5歩だった。


   *


 5歩で、届いた。


   *


 半月あまり、匂いのない道を朝から夜まで歩いた人だった。

 二股の通路も、ほこりの帯も、ぜんぶ通ってきた人だった。


   *


 その5歩を、シズちゃんは歩かなかった。


   *


 名前を呼んで、返事がなかったから。


   *


 泣く音は、しなかった。声も、上げなかった。

 息だけが、吐ききれないまま、肩を細かく上下させていた。


   *


 ……それだけだった。


   *


 それだけ、だった。


   *


 女の人は、なにも言わなかった。

 若い人だった。髪は長くて、色が薄かった。

 丈の長い地味な上着の袖が、先だけすり切れていた。腕まくりを、しない人の袖だった。


   *


 目が、赤くなっていた。

 いま泣きやんだ人の目じゃなかった。


   *


 何度も泣いて、何度も止めた人の目だった。

 手が、荒れていた。冷たい水を、何度もさわった手だった。


   *


 耳が、長かった。


   *


 人の耳じゃなかった。シズちゃんのような、けものの耳でもなかった。

 まっすぐ横に、細くとがっていた。


   *


 ……耳の、ながい人が、助けてくれました。


   *


 ミアさんの声が、頭のなかで鳴った。

 わたしが名前を言ったら、目を丸くして、それから笑った人だった。


   *


 ほこりのない帯を毎日歩いていたのは、この人だった。


   *


 花を置いたのも。


   *


 石に字を刻んだのも、たぶん。


   *


 シズちゃんの鼻が、小さく動いた。

 1回。……もう1回。


   *


 道の真ん中でしゃがんだときと、おなじ動きだった。


   *


 黒い耳が、途中まで上がって、止まった。


   *


 真上には、ならなかった。


   *


 この部屋は、薬みたいなつんとする匂いでいっぱいだった。

 人の鼻のわたしでも分かるくらい、強かった。


   *


 シズちゃんは、なにも言わなかった。


   *


「ルナを、返せ」


   *


 シズちゃんが言った。声が、震えていた。

 女の人は、その子をそっと床に下ろした。

 頭を先に、それから背中を、最後に足を。


   *


 置く順番が決まっている人の、下ろし方だった。


   *


 下ろすとき、その手が白い髪をいちどだけなでた。


   *


 そして立ち上がって、わたしたちの前に出た。

 武器は、持っていなかった。


   *


 シズちゃんが、動いた。

 止めようと思った。でも、わたしの口が動くより、シズちゃんの足のほうが速かった。

 この旅で見たなかで、いちばん速かった。


   *


 体が先に来て、音が、あとから来た。


   *


 順番が、逆だった。


   *


 女の人は、避けなかった。逃げも、しなかった。

 ただ、片手を前に出した。


   *


 音がした。

 金属が当たった音じゃなかった。石でも、なかった。

 厚くて重いものに刃が沈んで、そこで止まった音だった。


   *


 シズちゃんの刃が、女の人の肩の手前で止まっていた。


   *


 なにもないところで。


   *


 刃のまわりの空気が、水みたいにゆがんでいた。

 灯りの火が、そのゆがみのなかで揺れて見えた。


   *


 シズちゃんが刃を引いた。引きながら、体を沈めた。

 2度目は、横だった。


   *


 上から来たのを下がって外したのなら、次は、その下がった足だった。

 腰の高さを、まっすぐ横に払った。


   *


 止まった。

 こんどの音は、短かった。


   *


 3度目は、振らなかった。腕をたたんで、まっすぐ前に出した。


   *


 突きだった。喉へ、まっすぐ。

 切っ先が、さっきより深く入った。

 ゆがんだ空気のなかへ、指の長さのぶんだけ沈んだ。


   *


 女の人の足が、はじめて下がった。


   *


 ……押せてる。


   *


 わたしは、そう思った。思ってしまった。

 シズちゃんも、たぶん、おなじことを思った。


   *


 だから、4度目が来た。


   *


 4度目は、下からだった。

 シズちゃんの体が床すれすれまで沈んで、そこから跳ね上がった。

 黒い髪の先が、床をこすった。


   *


 切っ先が、光る線の上を走った。

 女の人の手は、そこまで下りていなかった。


   *


 届く。


   *


 止まった。


   *


 女の人の手は、やっぱり下りていなかった。

 かざしたまま、動いてもいなかった。


   *


 それでも、止まった。

 女の人は、下がっていた。1歩ずつ、確かめるみたいに。


   *


 4度のあいだ、シズちゃんの足はいちども下がらなかった。

 息も、変わらなかった。


   *


 あれは、当てるための4度じゃなかった。


   *


 当たったら終わりにするための、4度だった。


   *


 わたしは横へ走った。壁ぎわを回って、女の人の右側へ。


   *


 女の人がこちらを向いて、手をわたしにかざした。

 空気が固くなって、わたしの1歩先で壁になった。


   *


 それだけだった。


   *


 それだけ、だった。


   *


 わたしは、その場で足を止めた。

 シズちゃんは、4度斬りかかった。


   *


 この人は、1度も撃ってこなかった。


   *


 前に出る踏み方を、いちどもしなかった。

 下がる踏み方だけだった。


   *


 そして、その手が、いつもおなじところにあった。


   *


 自分の体の前じゃなかった。

 シズちゃんと、床に寝かせたあの子のあいだ。


   *


 ……守ってる。


   *


 あの子を、この人が。


   *


 そのときだった。

 部屋の奥で、音がした。骨の鳴る音だった。


   *


 ぱき、と、ひとつ。


   *


 それから、ごき、ともっと大きいのがひとつ。


   *


 わたしは、振り返った。

 部屋のいちばん奥には、灯りが届いていなかった。

 そこだけ、壁があるのかどうかも分からなかった。


   *


 その暗がりに、白いものがいた。

 うずくまって、体を丸めて、震えていた。


   *


 前脚の付け根に、すり切れた跡があった。


   *


 左も、右も。


   *


 丘で見たのと、おなじ場所だった。


   *


 外で戦った、あの獣だった。


   *


 でも、外で見たときとは、形がちがっていた。

 背中が、持ち上がっていた。

 なにかが内側から押し上げるみたいに、いまも伸びていた。


   *


 ……いまも?


   *


 わたしは、まばたきをやめた。


   *


 やめて、見た。


   *


 伸びていた。


   *


 見ているあいだに、背中の線が、少しずつ上がっていった。

 止まらなかった。


   *


 乾いた白い皮膚が、その背中で裂けていた。

 裂け目は、背骨に沿って、まっすぐ走っていた。


   *


 裂けているのに、赤いものは出てこなかった。

 みし、と鳴って、その裂け目がまた少し広がった。


   *


 前脚が、床を掻いた。爪が、石を削った。削れた粉が、白く舞った。


   *


 掻いているんじゃなかった。


   *


 押さえていた。


   *


 自分の体が持ち上がっていくのを、前脚で床へ押さえつけようとしていた。

 押さえきれて、いなかった。


   *


 声が、出ていた。

 獣の声じゃなかった。かといって、人の声でもなかった。

 息を吐こうとして、途中でひっかかって、そこが鳴っていた。


   *


 匂いが、来た。

 乾いた石灰と、古い土の匂い。


   *


 薬みたいなつんとする匂いが、その下へ押しやられていった。

 部屋の匂いが、入れ替わった。


   *


 影が、壁を登っていた。

 灯りは、高いところにある。

 だから影は、壁の低いところに落ちるはずだった。


   *


 その影が腰の高さを越えて、肩の高さを越えて、まだ上がっていた。


   *


 耳が、小さく見えた。

 丘で見たときは、頭より大きく見えた耳だった。


   *


 耳が縮んだんじゃなかった。


   *


 まわりが、ぜんぶ大きくなっていた。


   *


 部屋が、狭かった。


   *


 わたしの掌が、熱くなった。


   *


 いままでで、いちばん。


   *


 村の下にいたときよりも。トトの足にさわったときよりも。

 熱いのは、掌の真ん中だけだった。指は、冷たいままだった。


   *


 光っても、いなかった。にじんでも、いなかった。


   *


 ただ、熱かった。


   *


 昨日は、手首まで来ていた。ゆうべ、真ん中だけになった。


   *


 熱いのは、その真ん中だけだった。


   *


 残っているぶんだけ、熱かった。


   *


 押さえたら消えるものみたいに、わたしは自分の手を握りしめた。


   *


 消えなかった。

 握った指のあいだで、いっそう熱くなった。


   *


「……熱い」


   *


 誰も、答えなかった。

 シズちゃんは、奥を見ていた。

 女の人は、床の子を見ていた。


   *


 わたしの声は、どこにも届かなかった。


   *


 シズちゃんが、また踏み込もうとした。女の人のほうへ。

 わたしは走って、その前に立った。


「シズちゃん、まって!」


「どけ」


「まって! いま、それどころじゃない!」


   *


 わたしはシズちゃんの腕をつかんだ。

 振りほどかれると思った。


   *


 振りほどかれなかった。


   *


 つかんだ腕が、硬かった。石をつかんでいるみたいだった。

 その腕が、いちど、前へ行こうとした。


   *


 行こうとして、やめた。


   *


 やめたのが、わたしの手のなかで分かった。


   *


「うしろ見て! あれ、まだ大きくなってる!」


   *


 シズちゃんの黒い耳が、ぴく、とうしろを向いた。

 女の人が、口を開いた。


「話は、あとでするわ。ぜんぶ話す。逃げも隠れもしない」


 その人はもう、手をかざしていなかった。

 両手を下ろして、まっすぐシズちゃんを見ていた。


「でも、いまはあれを止めて。あなたの力が要るの」


「……お前と、組めと」


「ええ。お願い」


   *


 シズちゃんは動かなかった。刀も、下ろさなかった。

 女の人が、1歩前に出た。

 それから、折れるみたいに、その場にしゃがんだ。


   *


 4度斬られていちども下がらなかった手を、その人はひざの上に置いた。


   *


「ひとつだけ。……お願い」


   *


 その声が、はじめて崩れた。


   *


「とどめは、刺さないで」


   *


 目から、水が落ちていた。

 落ちて、光る線の上で、小さく丸くなった。


   *


 わたしは、その人を見ていた。

 シズちゃんに4度斬られて、1度も撃たなかった人だった。


   *


 あの子を床に下ろすとき、その髪をいちどだけなでた人だった。


   *


 ほこりのない帯を、毎日歩いた人だった。


   *


 花を、枯れる前に持ってきた人だった。


   *


 わたしは、この人がだれなのか知らない。名前も、知らない。

 いい人かどうかなんて、ほんとうは、なにも分からなかった。


   *


 でも、見たものは、見た。


   *


 ……わるい人じゃ、ない。


   *


 うまく言えないけど、わたしはそう思った。

 だったら、いまやることはひとつだけだった。


   *


「シズちゃん」


   *


 わたしは言った。


「この人と、組もう」


   *


 シズちゃんは、動かなかった。

 黒い耳がうしろに寝たまま、それから、ゆっくり立った。


   *


 その背中から、力が少しずつ抜けていくのが分かった。


   *


 肩が、下りた。


   *


 吐ききれていなかった息が、そこで、やっと最後まで出た。

 長い息だった。


   *


「……おかしいだろう」


   *


 シズちゃんが言った。


「さっき外で斬ったときは、ただの獣だった。手負いになって、自分で戻っていった」


 シズちゃんは、奥の暗がりを見ていた。


「なんで、いまになって、形が変わっていく」


   *


 女の人が、顔を上げた。


「……あの子が、この部屋に入ったからよ」


「なに」


「ここへ入って、転んだの。ガラスで手を切って、その血が床の線に落ちた」


 女の人は、床の光る円を見ていた。


「この線は、魂を呼んで体に入れる術よ。生きた血が落ちれば、それだけで動くの」


「わたしはあの子を抱えて、逃げようとした。そこへ、あの獣が逃げこんできた」


 女の人が、奥の暗がりを見た。


「線は、いちばん近くにいた魂をつかんだわ」


   *


 わたしは、床の白い髪の子を見た。

 その手に、白い布が巻いてあった。


   *


 さっきは、気づかなかった。


   *


 ほどけないように、はしが内側へ折りこんであった。


   *


 シズちゃんの手のなかで刀が、かちり、と鳴った。


   *


「……なにを、言っている」


   *


「あの獣の中にいるのは」


   *


 女の人は、そこでいちどだけ息を吸った。


   *


「あの子の、魂よ」


   *


 シズちゃんは、動かなかった。

 黒い耳が、ぴくりとも動かなかった。


   *


 わたしの頭のなかで、丘の斜面が、いっぺんに戻ってきた。


   *


 あの獣は、村の人たちを追わなかった。


   *


 ミアさんの横を、腕を伸ばせば届くところを走り抜けた。


   *


 顔も、向けなかった。


   *


 石を投げても、振り向かなかった。


   *


 わたしたちだけを、見ていた。


   *


 ……ちがう。


   *


 シズちゃんを、見ていた。


   *


 あのとき、なんで、と思った。


   *


 その先が、なかった。


   *


 いま、その先が来た。


   *


 わたしは、床のあの子を見た。

 白い髪の、目を閉じた女の子。

 胸だけが、まだゆっくりと上下していた。


   *


 息は、している。


   *


 でも、名前を呼ばれても、まぶたも指も耳の先も動かなかった。


   *


 ……からっぽ、なんだ。


   *


 そう思ってから、わたしは、どっちのことを思ったのか分からなくなった。


   *


 床の、この子なのか。


   *


 名前を呼んだ、あの背中なのか。


   *


 決められなかった。


   *


 ……治せる、かな。


   *


 思って、自分の肩を見た。

 シズちゃんが巻いてくれた布の下に、切れたところは、もうなかった。

 布には、血だけが乾いて残っていた。


   *


 わたしの体は、そういうものだった。


   *


 でも。


   *


 わたしが治せるのは、切れているところだけだった。


   *


 この子の切れているところが、どこなのか。


   *


 わたしには、分からなかった。


   *


 わたしは、部屋のいちばん奥を見た。


   *


 部屋のいちばん奥に、白い壁が、あった。


   *


 さっきまで、そこは暗がりだった。


   *


 奥で、なにかが立ち上がった。


   *


 大きかった。天井が低いのに、その背中が、天井にぶつかりそうだった。

 石の天井から細かい土が、さら、と落ちた。


   *


 つるした灯りが、ゆっくり揺れはじめた。


   *


 風は、なかった。


   *


 部屋じゅうの影が、その揺れに合わせて、いっせいに動いた。


   *


 床の白い線だけが、揺れなかった。


   *


 白いものが、こちらへ顔を向けた。

 白く濁った目が、まっすぐシズちゃんを見ていた。


   *


 そして、その口が、動いた。

 最初に出てきたのは、音だった。


   *


 喉の奥でなにかが引っかかって、こすれて、無理やり押し出されてくる音。


   *


「……シ」


   *


 腕に、ぶつぶつと鳥肌が立った。


   *


「シィ……ズゥゥ……」


   *


 人の声じゃなかった。獣の声でもなかった。

 その2つがおなじ喉から一緒に出ようとして、途中で混ざってしまった声だった。


   *


 でも、それは、名前だった。


   *


「シィィィ……ズゥゥゥ……」


   *


 シズちゃんが、1歩、下がった。


   *


 この旅で、はじめて見た。


   *


「にげ……でぇ……」

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