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転生少女と黒狼姫 〜女神に選ばれた少女と、掟破りの狼族戦士〜  作者: 白川雫


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22/43

第22話 奥の部屋

 その音は、ひとつだった。

 でも、長かった。


   *


 わたしがふつうに3つ息をするあいだ、その音は、まだ続いていた。

 吸っているのか、吐いているのか、分からなかった。


   *


 風だと思おうとした。

 風なら、草が鳴る。

 草は、鳴っていなかった。


   *


 地面が、震えた。

 足の裏から来て、ひざまで上がって、そこで止まった。


   *


 わたしは、振り返った。


   *


 草に隠れたあの穴から、白いものが出てきていた。


   *


 はじめに、前の脚が出た。

 黒い爪が土に深く入って、ぐ、と土が盛り上がった。

 草の根が、ぷつ、ぷつ、と切れた。


   *


 次に、頭が出た。

 わたしは、動けなくなった。


   *


 毛が、なかった。

 皮膚は乾いて白くて、細かくひび割れていた。

 目は、真ん中まで白かった。

 耳が、頭より大きかった。


   *


 昨日、村の下で見た2つと、おなじだった。


   *


 あれは、動かなかった。


   *


 これは、動いていた。


   *


 まだ、出きっていなかった。

 肩が出て、そのあとに胴が、まだ続いた。

 わたしは、どこで終わるのかを、待ってしまった。


   *


 終わりは、ずっと先だった。


   *


 立ち上がったとき、肩の高さが、わたしの頭を越えていた。

 影が斜面を横切って、わたしの足元まで届いた。

 昼なのに、そこだけ、夕方みたいだった。


   *


 匂いが、風に乗って来た。

 乾いた石灰と、古い土の匂い。

 昨日、あの部屋では、なんの匂いもしなかった。


   *


 これは、した。

 息を止めても、口のなかに残った。


   *


 前の脚の付け根に、すり切れた跡があった。

 左も、右も。おなじ高さで、おなじ幅だった。

 昨日の2つと、おなじところだった。


   *


 でも、ずっと古い跡だった。


   *


 白いものは、これで3つめだった。


   *


 はじめの2つは、床に倒れていた。


   *


 これは、立っていた。


   *


 シズちゃんが、わたしの前に出た。刀は、もう抜いていた。


「うしろへ」


   *


 白いものが、頭を上げた。

 目は白いのに、顔がまっすぐこちらを向いていた。

 鼻先が、ぴたり、と止まった。


   *


 そして、走った。


   *


 地面が鳴った。


   *


 どどど、と。


   *


 足の裏が、そのたびに下から叩かれた。

 斜面には、まだ村の人たちがいた。

 ミアさんも、年寄りも、いちばんうしろにトトも。

 みんな、まだ坂の途中だった。


   *


 白いものは、その横を走り抜けた。


   *


 触れも、しなかった。

 顔も、向けなかった。


   *


 ミアさんのすぐ横を、腕を伸ばせば届くところを、通った。

 ミアさんの毛布のはしが、風で、ばたばたと鳴った。


   *


 それだけだった。


   *


 わたしはトトのところへ走って、その体を斜面の下へ突き飛ばした。


「はしって! ふりかえらないで!」


   *


 突き飛ばした、その瞬間。

 背中に、風が来た。

 押される風じゃなかった。吸われるみたいな風だった。


   *


 わたしは横に転がった。

 転がった、そこに黒い爪が刺さった。

 どす、と鈍い音がして、草ごと土がえぐれた。

 えぐれた土が、わたしの頬に飛んだ。


   *


 ……わたしを、見てる。


   *


 思ってから、なんで、と思った。

 村の人たちは、まだ坂の途中だった。本気で追ったら、たぶん追いつける。


   *


 追わなかった。


   *


 なんで。


   *


 その先が、なかった。


   *


 シズちゃんが、横から入った。

 草の上を滑るみたいに低く入って、そのまま跳んだ。

 刃が、白い首の横に落ちた。


   *


 音が、ちがった。


   *


 こつ、と。


   *


 乾いた木を叩いたような、鈍い音だった。

 白いものが、首を振った。


   *


 それだけだった。

 それだけで、シズちゃんの体が浮いて、草の上を2回転がった。


   *


 わたしは、息が止まった。


   *


 シズちゃんが押し負けるのを、わたしは、はじめて見た。


   *


 街道の熊のときも、この人は先に立っていた。腕が来て、受けて、押し返した。

 村の下の暗がりで白いものが跳んできたときも、刀はもう間にあっていた。

 いつも、先に立っていた。

 いつも、押し返していた。


   *


 わたしは、それを当たり前だと思ったことすら、なかった。


   *


 シズちゃんが立ち上がった。立ち上がるのが、いつもより半分遅かった。

 立って、口のはしを手の甲でぬぐった。

 手の甲に、赤いものが細く残った。

 黒い耳が、べったりとうしろに寝ていた。


   *


 伏せているんじゃなかった。


   *


 張りついていた。


   *


 白いものが、また走った。

 斜面の人たちへは、行かなかった。

 シズちゃんへも、行かなかった。


   *


 わたしへ、来た。


   *


 わたしは横に跳んだ。跳んだ先に、もう白い頭があった。


   *


 ……はやい。

 あの体で、なんで。


   *


 わたしは腕を上げて、その頭を受けた。


   *


 受けた、と思った。

 思ったときには、もう足が地面から離れていた。

 草の斜面を背中で滑って、止まった。

 口のなかに、草の味がした。


   *


 肩が、熱くなった。

 見たら、赤い線が1本、服の上ににじんでいた。

 じわ、と、その線が太くなった。


   *


「ハルカ!」


   *


 シズちゃんが石を拾って、離れた岩に投げた。

 かん、と音が鳴った。

 村の下では、それで白いものは振り向いた。音のほうへ、まっすぐ行った。


   *


 これは、振り向かなかった。

 耳が、ぴくりとも動かなかった。


   *


 あの、頭より大きい耳が。


   *


「……こいつ」


   *


 シズちゃんの声が、低くなった。


「わたしたちだけを、見てる」


   *


 わたしは草の上に手をついて、起き上がろうとした。

 起き上がる途中で、腕が止まった。


   *


 ……かてない、かも。


   *


 その言葉が、ひとりで出てきた。

 わたしが呼んだんじゃなかった。

 街道の熊のときも、村の下の暗がりのときも、この言葉は来なかった。


   *


 こわいとは、思った。

 でも、こわいと、かてないはちがった。


   *


 いま出てきたのは、うしろのほうだった。

 シズちゃんが立っている。刀を持って、わたしのほうは見ないで、あれを見ている。

 そのシズちゃんの耳が、うしろに寝ている。


   *


 わたしはそれを見て、はじめて、その言葉に会った。


   *


 わたしは、立ち上がった。

 肩が熱かった。

 でも、足は動いた。


   *


 ……逃げたら、追いかけてくる。


   *


 これは、そういうものだった。

 斜面の下には、まだ村の人たちがいた。

 ミアさんの背中と、年寄りの背中と、いちばん最後にトトの背中が。


   *


 まだ、あんなに近い。

 だから、逃げちゃいけなかった。

 わたしは、前に出た。


   *


 白いものの首が、いちど下がった。

 さっきも、その前も、おなじだった。

 白いものが来た。地面が鳴って、影がわたしの上に来た。

 わたしは避けなかった。

 避けないで、その首に飛びついた。両腕を回して、抱きこんだ。


   *


 乾いた皮膚が、掌にざらざらと引っかかった。紙やすりみたいだった。

 押しつけた頬にも、おなじものが当たった。


   *


 冷たかった。


   *


 こんなに走っているのに、冷たかった。


   *


 体が、振られた。


   *


 右に。


   *


 左に。


   *


 右に。


   *


 上に。


   *


 空が来て、草が来て、また空が来た。どっちが上なのか分からなくなった。

 歯が、かちかち鳴った。舌をかみそうになって、口を閉じるのをやめた。

 腕が、肩から抜けそうだった。

 肩の赤い線のところが引っぱられて、開いた。

 熱いものが腕を伝って、ひじのところまで下りてきた。


   *


 それでも、離さなかった。

 指を、自分の手首に引っかけた。手と手を、鍵みたいに組んだ。

 組んだら、少しだけ楽になった。


   *


 楽になったぶん、腕がもっと痛かった。


   *


 白いものが、地面に体を打ちつけた。わたしごと。

 背中が草に叩きつけられて、息がぜんぶ出た。

 出たまま、吸えなかった。


   *


 それでも、手は外れなかった。


   *


 また、持ち上げられた。こんどは、横に振られた。

 わたしの足が、どこかの岩に当たった。

 当たったのは分かったのに、痛いのは、あとから来た。


   *


 ……離したら。


   *


 そこまで来て、頭が止まった。

 止まったのに、続きが出てきた。


   *


 ……離したら、シズちゃんが、行く。


   *


 わたしがここを離したら、これは、次にシズちゃんのところへ行く。

 シズちゃんは、逃げない。

 わたしが下がれば下がるだけ、あの人は前に出る。

 ずっと、そうだった。


   *


 だから、離さなかった。


   *


 もういちど、振られた。こんどは、いちばん高く上がった。

 上がったところで、わたしは息を吸った。


   *


 吸えた。


   *


「シズちゃん!」


   *


 声が揺れて、途中で切れた。


「いま!」


   *


 黒い影が、下から入った。草の上を、低く。

 刃が、白い喉の下へ潜り込んだ。


   *


 こんどは、音がちがった。


   *


 こつ、じゃなかった。


   *


 ず、と。


   *


 深く、入った。

 白いものが、はじめて声を出した。

 ほえたんじゃなかった。息を吸い損なったような、短い音だった。


   *


 ひ、と。


   *


 それだけだった。


   *


 その音が、わたしの抱いている首のなかから直接、腕に伝わってきた。


   *


 わたしの腕が外れた。わたしは草の上に落ちて、転がって、顔を上げた。

 腕が、震えていた。自分の腕なのに、止め方が分からなかった。


   *


 白いものは、立っていた。頭を低くして、荒い息をしていた。

 喉の下から、黒っぽいものが糸みたいに垂れていた。


   *


 血の色じゃなかった。

 シズちゃんが刀を構え直した。わたしも構えた。

 構えた腕が、勝手に震えた。


   *


 でも、来なかった。

 白いものは、体の向きをゆっくり変えた。

 そして、丘の斜面の穴のほうへ走った。


   *


「逃げた」


「……ちがう」


   *


 シズちゃんが、その穴を見ていた。


「戻ったんだ」


   *


 斜面の下を見た。

 村の人たちの背中は、もう丘の向こうへ入りかけていた。

 いちばん最後の小さい背中が、いちど止まって、また歩き出した。


   *


 わたしは、手を振らなかった。

 振ったら、あの子は、また戻ってくる。


   *


 わたしは、自分の肩を見た。

 服が裂けて、そのふちが赤く濡れていた。


   *


 わたしは、指で血をぬぐった。


   *


 その下に、切れたところは、なかった。


   *


 ふさがっていた。


   *


 いつもの、ことだった。

 わたしは、それを見ても、もうなにも思わない。

 シズちゃんも、思わない。


   *


 残ったのは、血だけだった。

 服の裂け目にも、掌にも、指のあいだにもついていた。


   *


 傷は、ないのに。


   *


 わたしは、掌を返した。

 昨日は、手首のところまで来ていた。ゆうべ、真ん中だけになった。


   *


 いまも、真ん中だけだった。


   *


 戻っては、いなかった。


   *


 シズちゃんが、わたしの肩を見ていた。

 なにも聞かなかった。

 外套を脱いで、そのはしを裂いて、わたしの肩に巻いた。

 結び目を、いちど締めて、それからもういちど締め直した。


   *


 もう、ふさがっているのに。


   *


「痛いか」


「……ちょっと」


「そうか」


   *


 それだけだった。

 わたしたちは、追った。


   *


 白いものが潜り込んだのは、さっきの草の穴だった。わたしたちも、そこへ入った。

 中は暗かった。でも、灯りはいらないとシズちゃんが言った。

 匂いが、まっすぐ残っているからだった。


   *


 まっすぐ、というのがどういうことか、少し歩いて分かった。

 シズちゃんは、いちども鼻先を下げなかった。

 昨日は、何度もかがんで、土に鼻を寄せていたのに。


   *


 少し行ったところで、シズちゃんが立ち止まった。

 人を助けに来たときには、気づかなかった。

 通路が、二股になっていた。

 片方は下へ、もう片方は上へ続いていた。


「こっちだ」


   *


 シズちゃんが、上のほうを指した。

 わたしは、下のほうを見た。

 あの先に、さっきまで10人が座っていた。

 毛布が6枚。木の器が4つ。小さい灯りが、1つ。


   *


 いまは、だれもいない。


   *


 そう思ったら、足が、少しだけ軽くなった。

 軽くなった足で、わたしは上へ向かった。


   *


 上の通路は、だんだん広くなった。

 天井が高くなって、空気が変わった。


   *


 ……くさい。

 白いものの匂いだった。


   *


 それも、1つぶんじゃなかった。


   *


 広い場所に出た。

 わたしは灯りに火を入れた。ガラスの覆いは、まだ割れたままだった。

 灯りの届く先は、まだ暗かった。天井は、見えなかった。


   *


 声を出したら、返ってきそうな広さだった。


   *


 だから、出さなかった。

 空気が、こもっていた。

 息を吸うと、喉の奥にほこりの味が残った。

 長いあいだ、なにかがここで生きていた空気だった。


   *


 壁に、鉄の輪が打ってあった。

 腰くらいの高さのところに、おなじ間で。

 村の下で見たのと、おなじ形だった。

 丘の通路で見たのとも、おなじだった。


   *


 3度目だった。

 わたしは灯りを持って、壁に沿って歩いた。

 輪と輪のあいだは、わたしの2歩だった。


   *


 次も、2歩だった。

 どの輪も、内側の下だけがこすれて光っていた。

 輪の下の床だけ、石が浅くくぼんでいた。


   *


 でも、ここにはひとつだけ、ちがうところがあった。

 いくつかの輪に、短い鎖が垂れたままだった。


   *


 わたしは、灯りを近づけた。

 鎖は、輪とおなじ黒い色をしていた。長さは、わたしのひじから先くらい。


   *


 その先には、なにもなかった。


   *


 ちぎれた跡じゃなかった。

 いちばん最後の環まで、ちゃんと丸いままだった。


   *


 わたしは、その鎖に手を伸ばしかけた。


   *


 伸ばしかけて、やめた。

 やめてから、なんでやめたのか、自分でも分からなかった。


   *


 床に、線が2本あった。

 昨日の部屋のと、おなじ幅だった。

 その2本が、鉄の輪の下を通って、奥へ入っていった。


   *


 わたしは、指を置かなかった。


   *


 線から少し外れたところに、丸い模様があった。

 消えかけていた。

 でも、1つじゃなかった。

 灯りを動かすたびに、また1つ、また1つ出てきた。


   *


 わたしはしゃがんで、その線を指でなぞった。


   *


 彫ってあるんじゃなかった。


   *


 描いてあった。


   *


 なにかで、床に、直接。

 指で押したら、少しだけ、こすれて薄くなった。

 わたしは、指を離した。


   *


 光っては、いなかった。


   *


 壁ぎわに、石が並べてあった。

 わたしは灯りを、そちらへ向けた。

 小さい石だった。川原にありそうな、丸くて白っぽい石。


   *


 大きさは、ばらばらだった。

 いくつかはこぶしくらい、いくつかは指の先くらい。


   *


 でも、並べ方は、ばらばらじゃなかった。

 壁からおなじだけ離して、まっすぐ、1列に。

 石と石のあいだも、だいたいおなじだけ空いていた。


   *


 大きさの順でも、なかった。

 こぶしくらいのが2つ続いて、そのあとに、指の先くらいのが1つ。

 また、こぶしくらいのが1つ。


   *


 わたしは、その並びを端から目でたどった。

 灯りをいちど持ち上げないと、端まで届かなかった。


   *


 いくつかの石に、なにか刻んであった。


   *


 字だった。

 わたしには、読めない字だった。


   *


 でも、どれもおなじ手で、丁寧に刻んであるのは分かった。

 線の深さが、どれもおなじだった。石の面の真ん中に、まっすぐ。


   *


 いちばん端の、いちばん小さい石にも、おなじ丁寧さで刻んであった。


   *


 小さい石ほど、刻むのは難しいはずだった。

 それでも、そこだけ雑になっている、ということがなかった。


   *


 いくつかの石には、なにも刻まれていなかった。


   *


 わたしは、それを数えようとした。

 数えかけて、やめた。


   *


 なにも刻まれていない石は、列の端に固まっているんじゃなかった。


   *


 途中に、あった。


   *


 字のある石と字のある石のあいだに、ぽつん、と。


   *


 少し先にも、ぽつん、と。

 いちばん端の、いちばん新しそうなところにも、あった。


   *


 わたしは、そこで灯りを持つ手を止めた。


   *


 石の手前に、花が置いてあった。


   *


 白い、小さな花。

 3本だった。


   *


 束ねては、いなかった。

 1本ずつ、離して、置いてあった。


   *


 どの花も、茎の切り口が、こちらを向いていた。


   *


 置いた人が、石のほうから手を伸ばして、そっと置いた。

 そういう向きだった。


   *


 まだ、乾ききっていなかった。

 花びらのふちだけが、少し茶色くなっていた。

 真ん中は、まだ白かった。


   *


 この地面の下に、花は咲かない。

 だれかが、外から持ってきた。


   *


 光のあるところから、あの二股の通路を通って、ここまで。


   *


 枯れる前に。


   *


「……これ、なに?」


   *


 シズちゃんは、答えなかった。

 わたしは、待った。

 いつもなら、なにか言う。「分からない」でも、「行こう」でも。


   *


 なにも、来なかった。


   *


 振り向いたら、シズちゃんは石のほうを見ていた。

 黒い耳が、その石のほうを向いたまま、動かなかった。

 尻尾も、動いていなかった。


   *


 わたしは、もういちど聞こうとして、やめた。

 やめて、灯りを、少しだけ石から外した。


   *


 外したのは、わたしだった。


   *


 なんで外したのかは、分からなかった。


   *


 わたしたちは、その先へ進んだ。

 広い場所の奥に、また通路があった。

 そこからは、石の積み方が変わった。

 もっと古くて、もっと丁寧だった。


   *


 石と石のあいだに、隙間がなかった。

 継ぎ目に爪を立てても、先が入らなかった。


   *


 天井の一部が落ちて、土が入り込んでいた。

 壁の彫りは半分すり減って、なんの形だったのか分からなかった。

 落ちた石のかけらが、そのまま床に転がっていた。

 だれも、片づけていなかった。


   *


 でも、床に、ほこりがなかった。

 わたしは、そこで足を止めた。


   *


 天井が落ちている。石が転がっている。土が入り込んでいる。


   *


 なのに、床の、真ん中のところだけ。


   *


 人ひとりが通るくらいの幅だけ。


   *


 ほこりが、なかった。


   *


 その両側には、うっすらと灰色に積もっていた。

 わたしは、灯りをうんと低く下げた。

 真ん中の帯だけ、石の色がそのまま出ていた。


   *


 ……だれかが、毎日、ここを歩いてる。


   *


 1日でも空けたら、たぶん、また積もる。

 積もっていないということは、昨日も今日も、ということだった。


   *


 わたしは、自分の足元を見た。

 わたしは、いま、その帯の上を歩いていた。


   *


 ……耳の、ながい人。


   *


 ミアさんの声が、頭のなかで鳴った。


   *


「シズちゃん」


   *


 シズちゃんは、答えなかった。

 黒い耳が、前を向いたまま、動かなかった。


   *


 わたしは、それ以上、言わなかった。


   *


 通路の突き当たりに、木の扉があった。

 その下から、光が漏れていた。


   *


 細い、まっすぐな線。

 オレンジ色じゃなかった。


   *


 もっと白い、静かな光だった。


   *


 白いものの匂いは、そこで消えていた。

 濃くなって、濃くなって。

 扉の手前で、ふっ、となくなった。


   *


 わたしは、耳を澄ませた。

 息の音が、していた。

 浅くて、速い息だった。

 丘で聞いた、あの長いのとは、ちがった。


   *


 すーは、長かった。とんは、短かった。

 あの2つは、半年、おなじ間だった。


   *


 これは、そろっていなかった。


   *


 もうひとつ、音がした。


   *


 人の声だった。


   *


 小さくて、途切れがちで、何度もおなじことを繰り返していた。

 なにを言っているのかは、分からなかった。

 でも、いつもおなじところで切れて、おなじところからまた始まった。


   *


 光が、あった。


   *


 息が、あった。


   *


 声が、あった。


   *


 シズちゃんが、扉に手をかけた。

 わたしは、その隣に立った。

 シズちゃんの手が、木の板の上で止まっていた。

 指が白くなるくらい、板を握っていた。


   *


 その手が、扉から離れた。


   *


 離れて、また、戻った。


   *


 黒い耳が、ぴたりと前を向いていた。


   *


 開けた。

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