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転生少女と黒狼姫 〜女神に選ばれた少女と、掟破りの狼族戦士〜  作者: 白川雫


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第21話 帰れない人たち

 穴は、思ったより短かった。


 シズちゃんが先に入って、わたしがあとから入った。肩が、両側の石に当たった。


   *


 ずっと、上りだった。途中で、風が強くなった。


   *


 シズちゃんが、上で草をかき分けた。


 明るいものが、いっぺんに入ってきた。わたしは、目をつぶった。


   *


 目をつぶってから、それが光だと分かった。


   *


 出た。


 草の中に、立った。


   *


「……外」


   *


 空があった。夕方の色をしていた。


   *


 半日ぶりだった。


 半日しか、経っていなかった。


   *


 うしろを見た。いま出てきた穴は、もう見えなかった。


   *


 知らなければ、絶対に見つからない。


   *


 その夜、火は焚かなかった。理由は、聞かなかった。


 夜のあいだ、何度か目を覚ました。そのたびに、シズちゃんは起きていた。


   *


 わたしは、外套の中で掌を握った。


 まだ、熱かった。


   *


 手首のところまでは、来ていた。ひじには、来ていなかった。


   *


 減っては、いなかった。


   *


 朝になった。


 足跡は、まだそこにあった。夜のあいだ、雨は降らなかった。


   *


 大人の足跡があった。子どもの足跡もあった。


 その2つに挟まれて、細い線が2本、走っていた。


   *


 線は、どこまでもおなじ幅だった。


   *


 ぜんぶ、北へ続いていた。


   *


 シズちゃんは、ときどきかがんで土に鼻先を寄せた。


 そのたびに黒い耳が前に傾いて、それからまた歩き出した。なにも言わなかった。


   *


 言わないということが、まだ追えているということだった。


   *


 林を抜けたら、目の前がひらけた。


 なだらかな丘がいくつも重なって、北へ続いていた。


 草は秋の色をしていた。風が渡るたびに、丘ぜんたいが白っぽく波打った。


   *


 ……きれい。


   *


 思って、打ち消した。


   *


 この草の上を、みんな、はだしで歩いたんだ。


   *


 わたしは、自分の足元を見た。


 靴の底の下で、草の株が固かった。踏むたびにこつん、こつん、と足の裏に返ってきた。


   *


 靴を履いていても、返ってきた。


   *


 いちばん奥の丘の斜面に、それはあった。


   *


 石の建物だった。草と土に、半分埋まっていた。


   *


 石の上に草が生えているんじゃなかった。石と石のあいだから、草のほうが出てきていた。


   *


 壁は崩れて、傾いていた。上のほうは、もうなかった。


   *


 それでも。


   *


 正面の、四角い門の形だけは、はっきり残っていた。


   *


 高かった。


   *


 わたしが両手をうんと伸ばしても、上のふちには届かなかった。


 シズちゃんが肩車をしてくれても、たぶん届かない。


   *


 ……なんで、こんなに、大きいんだろう。


   *


 人が通るための口には、見えなかった。


   *


 足跡は、その門の前で消えていた。


   *


 門の奥に、石の扉があった。わたしは両手をついて押した。


   *


 動かなかった。


   *


 肩を当てた。足を踏ん張って、体ぜんぶで押した。


   *


 石は、わたしが押したぶんだけ、そのまま押し返してきた。


   *


「ハルカ、下がって」


   *


 シズちゃんが、刃を隙間に差しこんだ。鋼が石をこする音がした。それだけだった。


   *


「……内側から、なにかで留めてある」


   *


 内側から。


   *


 その言葉が、なぜだか、いちばん長くわたしの耳に残った。


   *


「ハルカ」


   *


 振り向いたら、シズちゃんは斜面の草の中にしゃがんでいた。


 草をかき分けると、地面に穴があった。


   *


 ……おなじだ。


   *


 昨日の夕方、わたしたちが出てきた穴と、おなじだった。


   *


 わたしは、その穴に顔を近づけた。風が、出てきていた。


   *


 外の風より、あたたかい風だった。


   *


「人の匂いがする」


   *


 シズちゃんが言った。黒い耳が、穴のほうへ、まっすぐ倒れていた。


   *


「たくさん」


「……生きてる匂いだ」


   *


 わたしたちは、顔を見合わせた。


   *


 それだけで、じゅうぶんだった。


   *


 通路は狭くて、ゆるく下っていた。


 しばらく行くと天井が高くなって、立てるようになった。わたしは、灯りに火を入れた。


   *


 四角く切りそろえられて、隙間なく積まれた石。


 角の削り方も、継ぎ目の入れ方も、見たことがあった。


   *


 つい昨日、見たばかりだった。


   *


 シズちゃんが足を止めた。黒い耳が、ぴく、と動いた。


   *


「……あの村と、おなじだ」


   *


 もう少し行ったところで、壁に鉄の輪があった。


 腰の高さだった。わたしの、腰。


   *


 わたしは、そこから目をそらした。


 そらした先の、次の壁にも、またあった。


   *


 床にも、線が2本あった。細かった。石がすり減ってできた線だった。


 2本のあいだは、どこでもおなじ幅だった。


   *


 わたしは、指を置いてみた。


   *


 わたしは、指を引いた。


   *


 通路が、右に曲がった。


   *


 曲がった、そのとき。


   *


 音がした。


   *


 最初は、風だと思った。


   *


 でも、風は、あんなふうに途中で止まらない。


   *


 止まって、また始まって、また止まる。


   *


 わたしは足を止めて、息も止めた。


   *


 すーでも、なかった。


   *


 とんでも、なかった。


   *


 あの2つは、半年、おなじ間だった。


   *


 これは、間が、そろっていなかった。


   *


 なにを言っているのかは、分からなかった。


   *


 でも。


   *


 人だった。


   *


 わたしは、うれしくなかった。


   *


 先に、こわかった。


   *


 せきだった。


   *


 人の、せきだった。


   *


 小さくて、かすれていて、何度も続いた。


   *


 風でも、石でも、火でもなかった。


   *


 喉から出て、口から出た音だった。


   *


 そのあとに、布のこすれる音がした。


   *


 誰かが、誰かの背中をさすっていた。


   *


 さするには、手がいる。


   *


 背中も、いる。


   *


 2人、いる。


   *


 わたしは走った。シズちゃんがうしろで名前を呼んだけど、止まらなかった。


 通路の先に、光があった。わたしたちの灯りじゃない、誰かの灯りだった。


   *


 奥まったところに、石の部屋があった。天井が低くて、隅のほうは暗かった。


 その真ん中に、人がいた。


 毛布にくるまって、身を寄せ合って、座っていた。小さな灯りを、ひとつだけ囲んで。


   *


 みんな、こちらを見た。


   *


 誰も、悲鳴を上げなかった。誰も、逃げなかった。


 いちばん手前のおばあさんが口を開けて、それからその口を押さえた。


   *


 みんな、耳があった。灰色の耳だった。


   *


 ガランさんと、おなじ色だった。


   *


 シズちゃんが、わたしのうしろで小さく息を吸った。


   *


「……10人か」


   *


 毛布は、6枚だった。


   *


 6枚を、10人で使っていた。


   *


 いちばん厚い毛布は、いちばん奥の、いちばん動かない人にかかっていた。


   *


 誰かが誰かに譲ったんだ、と分かった。誰が譲ったのかは、分からなかった。


   *


 灯りのそばに、木の器が伏せてあった。


   *


 4つ。


   *


 10人で、4つ。


   *


 伏せてあるということは、洗ったということだった。


   *


 こんなところで、器を、洗っていた。


   *


 せきをしている人は、3人いた。


 奥の人がいちばん長くせきをして、その背中を、隣の人がさすっていた。


   *


 そして、わたしは子どもを探した。


   *


 探してから、自分がなにを探しているのかに気づいた。


   *


 毛布のはしに、1人いた。


   *


 1人だけだった。


   *


 もういちど、10人を見た。左から、順番に。


   *


 やっぱり、1人だけだった。


   *


 板の間には、小さい木の靴が、いくつもあった。


 斜面の土には、小さい足跡が、いくつもあった。


   *


 わたしは、そこで数えるのをやめた。


   *


 やめた、というより、頭のほうがそこから先へ行くのを断った。


   *


 わたしは、なにか言おうとした。言おうとして、なにも出てこなかった。


 こんにちはも、だいじょうぶですかも、ぜんぶちがう気がした。


 だからわたしはしゃがんで、その人たちと、おなじ高さになった。


   *


「……助けに、来ました」


   *


 言ってから、自分でびっくりした。


 わたしは、そういうことを言える人だと思っていなかった。


 おばあさんの目から、水が落ちた。落ちて、それから声が出た。


 言葉には、なっていなかった。


   *


 おばあさんは、ミアさんといった。わたしたちは、灯りのそばに座った。


「みなさん、どうやって、ここに」


 ミアさんは、しばらく言葉を探していた。


「朝でした。みんな、呼ばれた気がして、家を出たんです」


「呼ばれた?」


「名前を呼ばれたわけじゃないんです。でも、行かなきゃいけない気がして」


 ミアさんは、自分のひざを見ていた。


「気がついたら、板の間で、靴を脱いでいました」


 わたしは、なにも言えなかった。


 あの、きちんとそろった靴の列。つま先を壁のほうへ向けて、ひとつも乱れていなかった、あの列。


 あれは、この人たちが、そろえたんだ。


   *


「北から来た人たちに、ここまで歩かされて。上の、柵のあるところに入れられて」


「さく」


「はい。人が入るには、大きすぎる柵でした」


 わたしは、さっきの門を思い出した。


 両手を伸ばしても、上のふちに届かなかった、あの四角い口。


「それから、どうなったんですか」


 ミアさんが顔を上げた。目が、少しだけ明るくなった。


「……耳の、ながい人が、助けてくれました」


   *


 わたしは、うなずいた。


「レスフィーナさん?」


 昨日、下で聞いた名前が、そのまま出てきただけだった。


 ミアさんが、目を丸くした。それから、笑った。


「……ご存じでしたか」


「うん。下で、聞いた」


   *


 シズちゃんも、うなずいた。


   *


「その人が、夜のあいだに柵を開けてくれたんです」


 ミアさんが続けた。


「それから、ここにかくまってくれて。もう、10日近くになります」


   *


「……その柵は」


   *


 シズちゃんが言った。


「はい」


「外から、開いたのですか」


 ミアさんは、少し考えた。


「……いいえ。内側から、でした」


   *


 わたしの隣で、音がした。


 音、というほどの音じゃなかった。外套の布が、ひとつ、こすれただけだった。


   *


 内側から。


   *


 門の奥の、あの石の扉。シズちゃんが刃を差しこんで、動かなかった扉。


 あれも、内側から、なにかで留めてあった。


   *


「……あそこは」


   *


 声が、いつものシズちゃんの声じゃなかった。


 うすい声だった。息のほうが多くて、声のほうが少ない、そういう声だった。


「あそこは、外から入るところが、ないのですか」


   *


 ミアさんは、答えなかった。


 その顔は、答えたくない顔じゃなかった。


 いま自分がなにを聞かれたのか、分かっていない顔だった。


 わたしも、分からなかった。


   *


 わたしは、シズちゃんを見上げた。


 ひざの上で、袖口の布を、指が握っていた。握って、離して、また握った。


   *


 ……ずっと、中にいるものが、いるってこと。


   *


 その言葉が、喉のところまで来た。でも、出せなかった。


 いま言ったら、シズちゃんの足が、止まってしまう気がした。


   *


 シズちゃんは、それきり、聞かなかった。


   *


「じゃあ、どうして、ここにいるんですか」


 わたしは言ってから、言い方がまずかったと思った。でも、ミアさんは怒らなかった。


「外に出る道が、ふさがってしまって」


 声が、そこで少し落ちた。


「……白いのが、そとに、いるんです」


 白いの。


 昨日の、あれ。毛がなくて、目のまん中まで白くて、息をしなかった、あれ。


 わたしの中で、その2つが、隣にならんだ。


 ならんだだけだった。線は、つながらなかった。


   *


「動ける人から、順番に出してもらいました」


 ミアさんが言った。


「……みんな、じゃ、ないんです」


 それきり、ミアさんは黙った。わたしも、聞かなかった。


   *


 部屋の隅で、誰かがせきをした。


 ミアさんはそちらを見て、それから声を落とした。


「あと、2日だそうです」


「え」


「2日後の夜だと、あの人たちが言ってました」


「……なにが、2日後なんですか」


 ミアさんは、答えなかった。


 答えないまま、わたしの手を握った。


 その手は乾いていて、細くて、とても冷たかった。


 握る力が、弱かった。


 弱いのに、離れなかった。


   *


「わたしの家に、パンが切りかけであるはずなんです」


 わたしは、顔を上げた。


 切りかけの、パン。卓の上に、皿が1枚。


 うっすらと灰色の膜が浮いていて、わたしは触らずに、指を引いた。


「……ありました」


「そう」


 ミアさんは、それだけ言って笑った。


「食べるつもりだったんです」


 わたしは、なにも言えなかった。


 握られた手を、握り返すことしか、できなかった。


   *


 そのとき、部屋の隅で小さい声がした。


「……いたい」


 男の子だった。7つか、8つくらいの。


 毛布のはしに座って、片方の足を両手で抱えていた。灰色の耳が、うしろへ、ぺたんと倒れていた。


「トト、我慢しなさい」


 ミアさんの声は、困っていた。


 叱っている声じゃなかった。ほかに言うことがない人の声だった。


 わたしはそっちへ行って、しゃがんだ。


「見せて」


 トトは、首を振った。


「なにも、しないから」


 トトはもういちど首を振って、それから少しだけ足を出した。


   *


 足の裏が、切れていた。


   *


 1本じゃなかった。何本も、深く。


 乾いた血が黒くこびりついて、そのまわりが赤くふくれていた。


 ふくれているところが、灯りの色で、よけいに赤く見えた。


   *


 ……はだしで、あの草の丘を。


   *


 わたしは、さっきの丘を見た。目の中で、見た。


 わたしは靴を履いて、あの上を歩いた。それでも、草の株の固さが、足の裏まで返ってきた。


 この足は、それを直接踏んだ。


   *


 斜面の土の、あの小さい跡。


 わたしは掌をひらいて、その横に置いてみた。


 わたしの掌より、少しだけ小さかった。


   *


 その跡を、この足が、つけた。


   *


 わたしは、なにも考えなかった。


   *


 考える前に、手が動いていた。


   *


 「見せて」と言ったときは、まだ、見るだけのつもりだった。


 なのに、腕がひじから先だけ、自分のものじゃないみたいに前へ出た。


   *


 止めよう、とも思わなかった。


 止める、という考えが、そもそも浮かばなかった。


   *


 トトの足の裏に、掌を当てた。


   *


 熱くなった。


   *


 昨日、村の下にいたときと、おなじ熱だった。


   *


 でも、ちがった。


   *


 あのときの熱は、どこにも行けずに、ただそこにあった。


   *


 いまの熱は、流れた。


   *


 掌から、トトの足のほうへ。


   *


 行き先を見つけた水みたいに、まっすぐに。


   *


 わたしは、掌の下を見た。


   *


 ひかる、と思った。


   *


 治療師さんの家で、リーンちゃんの掌には、豆粒くらいの白い芯が灯った。


 息を吸うとふくらんで、吐くとしぼんだ。


   *


 だから、ひかると思った。


   *


 掌の下は、暗いままだった。


   *


 灯りのオレンジが、指のふちに当たっているだけだった。


   *


 でも、流れていた。


   *


 わたしは、掌を離せなかった。離す、という考えも、浮かばなかった。


   *


 器に水を注いでいる途中で、水差しを戻す人はいない。


   *


 いまは、注いでいる途中だった。


   *


 トトが、ひくっ、と息をのんだ。


「あついよ」


「ごめん」


「……ううん。あったかい」


   *


 やがて、流れが細くなった。


   *


 細くなって、止まった。


   *


 ……もう、行かない。


   *


 それが分かってから、手が離れた。


   *


 わたしが離したんじゃなかった。離れた、というほうが近かった。


   *


 トトの足の裏を、灯りが照らした。


   *


 切れていなかった。


   *


 乾いた血の跡だけが残って、その下の皮膚が、つるんとしていた。


   *


 部屋が、しんとした。


   *


 トトが自分の足を持ち上げて、指で押した。押して、それからわたしを見た。


   *


「……いたくない」


   *


「……いま、なにを、したの」


   *


 ミアさんの声だった。


   *


 わたしは、自分の掌を見た。


   *


「……わかんない」


   *


 本当に、分からなかった。


   *


 わたしは、掌をもういちど見た。


   *


 光は、なかった。


   *


 あの夜も、なかった。


   *


 治療師さんの家の奥の間で、おじいさんの掌の下に、白い光が灯った。輪郭のない、小さな光だった。


 リーンちゃんの掌にも、灯った。すぐ消えて、またにじんで、3度目にはなにも起きなかった。


 わたしは、そのあと、寝ている人の額に掌をかざした。


 掌の真ん中は、あたたかかった。


 でも、そのあたたかさは、掌の中から外へ出てこなかった。


 光は、灯らなかった。


 おじいさんは、なにも言わなかった。


 深いしわの奥の光が、わたしの掌のすぐ上の、なにもないところを通っただけだった。


   *


 わたしはあのとき、いつか灯るかな、と思った。


   *


 いまも、灯らなかった。


   *


 いちども、光らなかった。


   *


 なのに。


   *


 トトの足は、治っていた。


   *


 ……ひかって、ないのに。


   *


 もういちどと思って掌を見たら、ふつうの手だった。


   *


 指を握って、開いた。


   *


 なにも、起きなかった。


   *


 ……冷めてる。


   *


 わたしは、掌を返した。


   *


 昨日は、手首のところまで来ていた。


   *


 いまは、真ん中だけだった。


   *


 へっていた。


   *


 はじめて、へった。


   *


 シズちゃんが、わたしのそばに立っていた。いつ来たのか、分からなかった。


 なにも言わないまま、その手がわたしの肩に置かれていた。


 いつもより、力が入っていた。肩の骨のところに、指が当たっていた。


 痛くは、なかった。


 でも、その指はわたしを引き寄せもしなかったし、押しもしなかった。


 ただ、そこに置かれて、力だけが入っていた。


   *


 わたしは、待っていた。


 聞かれると思っていた。いま、なにをしたの、って。


 ミアさんが聞いたんだから、シズちゃんだって聞くはずだった。


 でも、聞かれなかった。


 昨日と、おなじだった。


 なんで動けたの、とも、聞かれなかった。


   *


 ちがったのは、手だった。


 昨日は、わたしのひざについた土を、掌でそっと払った。いちど払って、もういちど、おなじところを払った。


 今日は、肩だった。


 払わなかった。


 握っていた。


   *


「立てる?」


 トトは立った。立って、1歩歩いて、それから走った。


 石の部屋の中を、ぐるっと。毛布のあいだをよけて、灯りのまわりを回って、また戻ってきた。


 誰かが笑った。久しぶりの音、という感じの笑い方だった。


 声を出す準備ができていない喉から出た、笑いだった。


   *


 ……リーンちゃんに、見せたかったな。


   *


「出ましょう」


 わたしは言った。


「わたしたちが来た道に、白いのはいなかった」


 シズちゃんが言った。


「そこから出す。順番に」


「わたしは、まだ歩けます」


 ミアさんが言った。


「順番は、こちらで決めます」


 シズちゃんの声は、静かだった。でも、それ以上は言わせない声だった。


   *


 1回目は、いちばん長くせきをしていた人だった。


 シズちゃんはその人の前にしゃがんで、背中を向けて、その人を乗せてから、ひざ立ちのまま体を起こした。


 わたしは灯りをうんと低く持って、足元だけを照らした。


 顔のほうを照らすと、まぶしがるから。


   *


 通路の、天井の低いところ。


 シズちゃんは、ひざを折った。折って、そのまま歩いた。


 背中の人の頭が当たらないように、自分の頭を下げていた。


   *


 シズちゃんの頭のてっぺんが、石をこすった。


 黒い耳が、ぺたん、と伏せられた。伏せて、そのまま、上げなかった。


   *


 2回目からは、わたしが手を引いた。


 握ってきた手は、乾いていた。みんな、おなじ乾き方をしていた。


 何度も引き上げると、ひじの内側が、じんじんした。


 引く手を右から左に替えた。替えたら、左も、すぐに震えた。


   *


 3回目のとき、トトが、また下りてきた。


 いちど外へ出たのに、戻ってきていた。


「トト」


 ミアさんの声が、少し高くなった。


 でも、トトはもう先を歩いていた。自分の足で、狭いところを、するすると。


 わたしの前を行って、途中で止まって、うしろを向いた。


「ここ、だんが、あるよ」


   *


 わたしは、その声を聞いた。


   *


 高くて、少しかすれていて、うしろの人に向かって出された声だった。


   *


 さっきまで、あの足は、切れていた。


   *


 最後は、ミアさんだった。


 ミアさんは狭いところの手前で、いちど、部屋のほうを振り返った。


 小さい灯りが、まだそこにあった。10日、あれをひとつだけ囲んでいた場所だった。


 ミアさんはそれを見て、それから、こちらを向いた。なにも言わなかった。


 引き上げたとき、わたしの腕が、はっきり震えた。それでも、上がった。


   *


 10人、ぜんぶ。


   *


 外は、まだ明るかった。


 村の人たちはその光の中に出て、しばらく動かなかった。


 目を細める人と、目を閉じる人がいた。誰も、なにも言わなかった。


 ミアさんが、手で顔をおおった。さっき、わたしが握った手だった。


   *


「南へ、丘を3つ越えてください」


 シズちゃんが言った。


「越えたら、尾根に小屋があります。煙が、1本、上がっています」


   *


 わたしは、その横で言った。


「ガランさんが、畑を、打ってた」


   *


 ミアさんは、なにも言わなかった。


   *


 顔をおおった手が、そのまま、下りてこなかった。


   *


「あなたたちは」


「わたしたちは、まだ用があります」


   *


 村の人たちの背中が、草の斜面を下りていった。


 支え合って、ときどき止まって、また歩いた。


 秋の色の草が、風が渡るたびに、その背中のまわりで白っぽく波打った。


 いちばん最後に、トトが振り返って、手を振った。


 わたしも、振り返した。


   *


 ——そのとき。


   *


 背中のほうの、暗いところで。


   *


 なにかが、息を、した。

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