第19話 息を止めて
低かった。立っていなかった。床の上に、倒れていた。
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わたしは、動かなかった。シズちゃんも、動かなかった。
灯りが揺れると、影が、うしろの壁で伸びたり縮んだりした。
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長いあいだ、そうしていた。白いものは、動かなかった。
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シズちゃんの左手が、柄をにぎった。にぎったまま、抜かなかった。
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わたしは、そこで、はじめて息をした。1歩、前に出た。シズちゃんは、止めなかった。
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近くで見ると、大きかった。シズちゃんが横になったら、それくらい。
2つとも、おなじ大きさだった。
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脚が4本。前の2本が短くて、うしろの2本が長かった。うしろの脚は、途中で逆に曲がっていた。
背中が、まん中でくぼんでいた。首が長くて、頭は細かった。
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耳が、頭より大きかった。
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横のところに、骨の形がいくつも浮いていた。数えられそうだった。数えなかった。
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白いのは、皮膚だった。毛が、なかった。抜けた跡も、なかった。
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はじめから、生えていなかったんだと思う。
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口が、閉じていなかった。歯が、並んでいた。前のほうの歯だけ、長かった。
目は、開いていた。白かった。まん中も、白かった。
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黒いところが、どこにもなかった。
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わたしは、胸のところを見た。しばらく見ていた。動かなかった。
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わたしは、鼻で息を吸った。なんの匂いも、しなかった。
街の市場の魚は、遠くからでも分かったのに。
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これだけ近くにいるのに、なんにも、しなかった。
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上に、ほこりが積もっていた。うすかった。でも、あった。
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昨日や、今日じゃなかった。
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2つは、わたしの2歩ぶんだけ離れて倒れていた。
頭の向きも、脚の曲がり方も、おなじだった。2つとも、石段のほうを向いていた。
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並べたみたいだった。
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そう思ってから、そう思ったことが、いやだった。
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「シズちゃん、……これ、だれかが、並べたの?」
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シズちゃんは、答えなかった。その先の、暗いところを見ていた。
黒い耳が、うしろへ倒れていた。尻尾は、外套の下で止まっていた。
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わたしは、シズちゃんの外套のはしを、指で持った。シズちゃんは、それを外さなかった。
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壁に、鉄の輪が打ちこんであった。腰の高さだった。わたしの、腰。
大人なら、かがまないと手が届かない。
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わたしには、ちょうどだった。
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1つじゃなかった。わたしは、壁に沿って歩いた。1つ。また1つ。
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輪と輪のあいだは、わたしの2歩。次も、2歩。その次も、2歩だった。
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灯りの届かないところにも、まだあった。
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わたしは、いちばん近いのを引いてみた。動かなかった。
指を当てた。鉄はざらざらで、内側の下のところだけ、つるつるだった。
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幅は、わたしの小指くらい。
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ずっと、おなじところがこすれていた。
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どこかで、水が垂れた。ぽつ。
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それきり、鳴らなかった。
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うしろを見た。白いものが、まだそこにあった。
わたしは、指を離した。
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床に、線が2本あった。石がすり減ってできた線だった。
2本のあいだは、どこでもおなじ幅だった。
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部屋の奥から、まっすぐ来ていた。
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わたしは、線に指を入れてみた。指の先が、やっと隠れるくらいだった。
これだけへこませるのに、なんべん通ればいいんだろう。
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壁ぎわに、靴があった。村の大人のより、ずっと大きかった。
革が厚くて、底に、丸い金物がいくつも打ちこんであった。
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底の溝に、土が詰まっていた。乾いて、固まっていた。赤かった。
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この村の道の土は、灰色だった。
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「……よそから、来た」
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わたしは、それだけ言った。
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2つあった。でも、そろえて、なかった。1つは立っていて、1つは横に倒れていた。
紐は、結んだままだった。脱ぐときは、ゆるめるのに。
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空気が、動いていた。石段の中では、動いていなかった。
すう、と顔の右から来ていた。風だった。
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わたしは、そっちへ歩いた。壁の下に、低い穴があった。
シズちゃんなら、かがまないと通れない。
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穴の先は、上っていた。顔を近づけると、風がまっすぐ当たった。
冷たくなかった。土の匂いと、草の匂い。
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ここへ来てから、はじめて外の匂いがした。
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……上が、ある。
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わたしは、耳を澄ませた。すー。とん。部屋の、奥から。
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とん、のあとに、もう1つあった。うすくなって、返ってきた。
少し、遅れて。
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村の井戸で、石を落としたときとおなじ。
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向こうに、広いところがある。
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「シズちゃん、宿の、おじさん」
「うん」
「半年、って、言ってた」
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シズちゃんが、止まった。
「……うん」
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シズちゃんは、ゆうべから。わたしは、昨日から。
この音は、半年、鳴っていた。たぶん、もっと前から。
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村の人がいたときも。いなくなってからも。聞く人が、いなくても。
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わたしが家に近づいたら、家の人は気がつく。戸を開けて、顔を出す。
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これは、そうしなかった。
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こんなに近づいたのに、こっちを、見なかった。
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わたしは、息を止めた。なんで止めたのかは、分からなかった。
聞こえないように、か。よく聞くために、か。
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すー。とん。すー。とん。
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わたしは、吸った。音は、変わらなかった。もういちど、止めた。変わらなかった。
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吸っても。止めても。おなじだった。
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わたしが、どうなろうと。
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わたしは、気づかれないように息を止めていた。でも、気づかれて、いなかった。
はじめから。息を止める前から。
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気づかれていないほうが、こわかった。
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すー。とん。すー。とん。
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わたしは、次を待った。来なかった。まだ、来なかった。
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来た。
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すー。とん。
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1つぶん、おそかった。
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ずれた。はじめて、ずれた。
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……いま、こっちを、見た。
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わたしは、動いていない。音も、立てていない。息も、止めている。
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なにも、していない。
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……なのに。
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かり。
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爪が、石を掻いた。奥の、暗いところで。
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シズちゃんの耳が、真上に立った。ゆうべからずっと聞いていた人の耳が、いま、はじめてその形になった。
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かり。かり。
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近づいてきた。
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灯りの外から、それは出てきた。
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白かった。
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立っていた。
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3つ目だった。
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倒れている2つと、おなじ形。おなじ大きさ。目のまん中まで、白かった。
ちがったのは、頭がこっちを向いていたことだった。
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シズちゃんが、刀を抜いた。
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「ハルカ、壁に、背中を」
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わたしは、うしろへ下がろうとした。
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うしろは、石段の口だった。
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のぼりだった。
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のぼりながら、うしろは向けない。
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横は、壁だった。上は、手をのばしたら届く高さだった。
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下がる場所が、なかった。
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来た。
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ざ、と床を掻いて、それは来た。速かった。床にほとんど体を寄せたまま、まっすぐ。
シズちゃんが前に出て、刃を落とした。肩のところに入った。
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音が、ちがった。
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じゃり、と鳴った。骨の音じゃなかった。刃が、外へすべった。
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血が、出なかった。
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白いものは、そのままシズちゃんの横を通って、わたしのほうへ首を伸ばした。
わたしは、殴った。
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ごっ、とこぶしがあごの下に入った。手ごたえは、あった。ちゃんと、あった。
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白いものが、3歩ぶん、横へずれた。
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すぐ、戻ってきた。
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わたしは、それを見ていた。
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痛がらなかった。
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鳴きもしなかった。あごを振りもしなかった。首をすくめもしなかった。
殴られたところを、いちども気にしなかった。
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わたしは、もういちど蹴った。腹だと思ったところを、思いきり。
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がつ。
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石を蹴ったみたいだった。足首まで、しびれが来た。
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シズちゃんが、横から刃を払った。
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払いきる前に、かつ、と切っ先が壁に当たった。
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シズちゃんは、刀を短く持ち替えた。柄のなかほどを、左手でつかんだ。
振るんじゃなくて、突くための持ち方だった。
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シズちゃんの刃が、下から上へ入った。白いものの耳が、片方、落ちた。
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落ちた耳が、床でぺたり、と鳴った。
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白いものは、音を出さなかった。
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動きも、変わらなかった。
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わたしは、そこがいちばん、こわかった。
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痛くないなら、やめる理由がない。
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白いものが、体をひねった。前の脚が、シズちゃんの腕をかすめた。
び、と外套の袖が裂けて、その下に赤い線が出た。
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「シズちゃん!」
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「かすった」
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「かすってない!」
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シズちゃんは、答えなかった。答えるかわりに、わたしの前へ半歩出た。
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灯りは、床に置いてあった。
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白いものの尻尾が、そのすぐ横を通った。かたん、と灯りが傾いた。
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わたしは、飛びついて、両手でそれを抱えた。
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油が、指にこぼれた。熱かった。それより、掌のほうが熱かった。
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暗くなったら、終わりだった。
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白いものが、向きを変えた。倒れている2つのほうへ、体を寄せた。
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よけなかった。
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前の脚が、動かないほうの背中を踏んだ。踏んで、そのまま、越えてきた。
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わたしは、それを見ていた。
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おなじ形をした、おなじ大きさのものを、床とおなじに踏んでいった。
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シズちゃんが、わたしの襟をつかんだ。
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「走れ」
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「シズちゃんも」
*
「走れ」
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わたしは、灯りを抱えて、風のほうへ走った。
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低い穴のところで、ひざをついた。頭を下げて、先に入った。
肩が、両側の石にざり、と当たった。灯りを前に押し出して、体を進めた。
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うしろで、シズちゃんが入る音がした。
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かり。
*
かり。
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爪の音が、すぐうしろだった。石をつかむ音まで、聞こえた。
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わたしは、前だけ見て進んだ。上りだった。掌が、床の石をつかむたびに熱かった。
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かり。
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止まった。
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わたしは、動きを止めた。シズちゃんも、止まった。
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わたしは、うしろを見た。
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灯りの、ぎりぎり外のところに、それはいた。
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白いのが、見えた。首の、長いところだけ。
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来なかった。
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顔を、こっちへ入れた。それから、引いた。また、入れた。
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何度も、おなじことをした。
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でも、そこから先へは、来なかった。
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床は、続いていた。天井も、続いていた。狭くも、なっていなかった。
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なのに、来なかった。
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しばらくして、首が、引いた。
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かり、が、遠くなった。
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わたしは、そこではじめて、自分が息をしていなかったことに気がついた。
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吸った。石の匂いがした。
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「シズちゃん、腕」
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「あとだ」
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「あとって、いつ」
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シズちゃんは、答えなかった。答えないときは、あとが来ないときだった。
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わたしは、掌を返した。
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昨日は、真ん中だけだった。いまは、手首のところまで来ていた。
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ひじまで来たら、どうなるんだろう。
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わたしは、そこでやめた。
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そして、そのとき。
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穴の、先のほうで。
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音がした。
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すーでも、なかった。とんでも、なかった。かりでも、なかった。
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あの3つは、半年、おなじ間だった。
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これは、間が、そろっていなかった。
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止まって、また始まって、また止まった。
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なにを言っているのかは、分からなかった。
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でも。
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人だった。




