1998年8月16日(日) (1)
(一)
未明に時々降った雨によって、湿度が高く感じられた。雨が降ることによって気温が下がることを期待していた人たちは、それほど体感温度が下がっていない事と共に、重苦しい湿度を体感し、不快な表情を浮かべた。
しかしロードワークをする国松に取って気温の高さは、減量という面において有り難いと思える状況であった。それでも自らの体力を削って行う減量が、試合目前のボクサーにとって厳しいことに変わりはない。
いつも通り公園に寄り、シャドー・ボクシングを繰り返していく。そこは相変わらず水道が嫌になるくらいで、国松にとって、湿度などによる不快さはなかった。
昨日のスパーリングも上々の出来であった。後は減量をこなして当日に試合をするだけである。世界戦とは言っても気持ちはいつもと変わることはない。国松としてはただリングへと上がり、相手に向き合えば良いだけである。
アパートへと帰り着くと、少ないとはいえ、まとわりつく汗が嫌だったので、すぐに着替えにかかった。昨日のうちに干した服が、六畳の部屋を、不快指数と共に更に狭く感じさせた。本来は外に干したかったのだが、天候が良くなかったので、仕方なく部屋の中へと入れたのだった。
身体を濡れタオルで拭いて着替えを済ませると、国松はアルバイトへと歩いて出かけた。
倉庫の品出しであった。たまたま自宅からそう遠くない場所にそのような仕事があった事を国松は有り難いと感じていた。人と会うことがなく、黙々と力作業をこなしていれば良い。トレーニングも兼ねていると思えば、もってこいの仕事であった。
「松崎、こっちも頼む」
一人の社員が国松を大声で呼んだ。ダンボールを数個抱えている社員は、力のある国松を重宝していた。他にいる年配の文句ばかりのアルバイトと異なり、国松が黙々と仕事をこなしていることも原因であったかもしれない。
八時から一六時まで、休憩を含めて働くと、国松の仕事は終わりであった。
「松崎、本当に明日も出勤して平気なのか」
シフトなどを決める社員の染谷は、ロッカーに入り着替えている国松へと話しかけてきた。ちょっとした休憩もできるスペースがあり、そこの机には灰皿があった。染谷は国松に声をかけると、椅子へと座り煙草へ火を着けた。
「平気ですよ」
着替えを続けながら国松は答えた。その身体はいつも以上に脂肪が、ほとんどと言って良い程なくなっていることを、染谷は確認した。
「世界戦だろう。別に無理しなくていいんだぞ」
長年働いてきた同僚に気を使いながら、染谷は煙を気にせずに宙に舞わせた。
「大丈夫ですよ。いつものペースを乱したくないので、逆にこっちが有り難いと思っていますよ」
染谷に向き直った眼光が、自然と鋭いものになった。だがそれは煙に対する不快感などではなかった。業量をしている顔つきが、自然にそうなってしまうのだった。
「それならばいいが」
染谷は灰皿に向かい、先端の長くなりかけている灰を落とした。
「気を使ってもらってありがとうございます。
しかも今回も皆さんで応援に来ていただけるなんて……」
ボクサーのファイトマネーを現金支給してくれるジムもあるが、チケットで配布するところもある。国松も日本タイトルを取ったあたりまではチケット支給であったが、最近はジムの後援会のみならず、ある程度の人気も手伝ってか現金支給をしてもらっていた。
アルバイト先の人たちは、国松が日本チャンピオンになる前から、チケットを購入して試合会場に足を運び、試合を見に来てくれていた。だから今回もジムからチケットを回してもらい、それを購入してくれていたのである。
「とんでもない。俺たちは仕事と家庭で疲れているから、お前の試合を見て楽しませてもらっているだけだ。
しかも世界タイトルマッチに出る知人の試合を見に行けるのだから、自分の事じゃないくせに鼻が高いよ」
染谷は口ではそう言いながらも自分の事のように嬉しそうな表情を見せた。
「まあ、勝てるように頑張りますよ。
それじゃあ、明日もよろしくお願いいたします」
国松はそれだけを言うとロッカーを後にした。染谷はその後ろ姿を見送って、煙草を肺の奥底まで吸い込むと、灰皿に押し付けて仕事へと戻っていった。
アパートに帰った国松は、準備を済ませると、いつも通りに走ってジムへと向かった。湿度のせいなのか、うっすらと背中に汗をかいていた。しかしながらそれは夏の暑い中を走っているとは思えないくらいの少量であった。やはり身体の中の水分が少ないことが原因なのだろう。
そんなボクサーの汗は、対価として考えた時に、いったい幾らになるのだろうか……。
ボクシングの運動量は、世界タイトルマッチの場合、一ラウンド三分×一二ラウンドであるから三六分である。KOをしてしまえばもっと早く終わってしまうが、判定であればその時間をフルに動かなければならない。
どのスポーツにおいても単に時間だけではなく、運動量が問題になってくる。しかしボクシングにおいては三六分間、ほぼ気を抜くことは許されない。隙を見せればそこを突くことができる能力がある相手に攻め入られてしまう。
全ての時間、集中することは不可能かもしれないが、出来る限りそれを遂行しなければならない。
そこまでやっても、手にするファイトマネーは、それほど多くはなかった。
今回のように世界挑戦をする国松は、まだ他の選手よりも人気があり、高額チケットも完売しているので、それなりの金額が入ってくるが、挑戦者という立場もあり所詮数百万という単位である。
タイトルを取り、数回の防衛を経て、一試合のファイトマネーが数千万へと跳ね上がっていく。しかし敗れてしまえば、今後そのような金額が手元に入ってくることはない。
ちなみに四回戦のファイトマネーは一試合一律六万円(1990年代)、そこからジムへのマネージメント料などが引かれると、手元に残る金額は四万円程度にしかならない。
六回戦や八回戦は人気も問題になってくるが、日本チャンピオンで二百万や三百万も稼げる選手は、それなりの人気がなければそのような金額を手にすることはできない。
汗の金額は絞りに絞っているので、余計に安く換算されてしまう。しかしボクサーたちは自分の存在意義を賭けてリングへと向かうのである。見た目以上に純粋な気持ちがそこには存在しているからこそ、金額だけではなくボクシングという興行が成り立っているのであろう。
国松は一階のリングの中で福田の構えるミットに容赦なく、力強いパンチを叩き込んでいく。試合にかける思いがヒシヒシと福田には伝わってくる。
「ラスト」
ラウンド終了のゴングが鳴った瞬間に、素早く福田は左のミットをフックのようにして国松の頭部へと向けて出した。そのミットを国松は身体を丸めてかわし、後ろ足へと乗った体重を前方へと吐き出すように右足で蹴りだした。
同時に右の拳が前方へと伸びる。
「バチン」
弾けるような炸裂音がジムの中へと響いた。福田が受けた右のミットに、しかめるような表情で力を入れた。
「あれはもうライト級のパンチじゃないよな」
ミドル級の八回戦ボクサーである平野利行は、その光景を見て思わず呟いた。
ジムの壁には、プロの人間だけ、木製の名札が掛けられていた。下からC級数名、B級数名、A級数名である。
日本ランカーなどは別枠になっているが、国松が世界ランカーの所に飾られている以外にランカーは源ジムには存在しなかった。
平野は国松に次ぐ源ジムの上位陣のA級ボクサーであった。
二度もプロテストに落ちた時には、こんな位置にまで自分が来ることができるとは思ってもいなかった。それを考えると国松がいなかったら、プロテストに落ちた段階でジムを辞めていたのだろう。
思わず平野は、当時の事を振り返った。
二度目のプロテストに落ちた頃の平野は、身体が大きいわりに気迫があまり感じられなかった。何となく巧さはあるが、絶対に勝ちたいという気持ちが薄いのである。
練習も真面目にこなすのだが、プロテストの落ちた原因は、攻められると怖気づいてしまう所にあった。
「自分はボクサーには向いていないかもしれないです」
練習を終えようとした平野はバンデージを着けたまま、源を前に自信を無くした表情を見せて言った。
「やるかやらないかは、お前が決めることだからな。本当に辞めるか……」
源は選手を慰留することはなかった。本人の気持ちがなければプロになったとしても長続きはしない。無駄に身体を痛めるだけであれば、そんなことはしない方が懸命という考えであった。
「……」
すぐに言葉は出てこなかった。心の片隅に、どこかで諦め切れない平野が存在したのである。
「どうする」
ここで折れるようであれば、プロは無理だろう。源は少し圧力をかけるような視線で平野の表情を探ろうとしていた。
そんな時に平野の表情が、ふっと隠れた。国松が後方からヘッドギアを乗せたのである。何事かと平野が振り返る。源は国松に何か考えがあるのだろうと思い、黙ってその行動を見守った。
「スパーリングだ」
平野は目を疑った。誰もスパーリングの準備などはしてない。一体自分は誰とやるのだろうかと見渡した時に、国松がヘッドギアをかぶる姿が視界に入った。
当時の国松は一七勝一七KO四敗で、日本タイトルを保持していた。幾ら階級が四階級異なり、平野の体重が上とはいえ、プロテストに合格していない人間が日本チャンピオンを相手にできるはずがなかった。
「松崎さんとやるのですか」
自信なさげに平野は国松に少しだけ蒼白な顔で近づいた。
「……」
「あの」
返答どころか顔もむけない国松は、黙々とスパーリングの準備をしていく。平野は恐る恐る再度声をかけた。
「いいから上がれ」
国松の強い口調であった。
「会長……」
平野は源に助けを求めた。だが源は国松の真意はわからないが任せようとしていたので
「取りあえずやってみぃ」
とだけ言うと、平野の肩を軽く叩いた。それでも戸惑う平野にグローグを手渡して
「チャンピオンを待たせるな」
と即した。
渋々、平野はグローブをはめるとリングへと上がった。
ゴングが鳴らされる。
平野は体格で勝りながらも国松の圧迫感に押されるように下がりながら距離を保とうとする。しかし後ずさりをするような体勢ではパンチが出ない。
国松はそんな平野に対して、大きなスィングを見せた。ダメージを与えるのであれば、大振りよりも、真っ直ぐのパンチの方が見た目以上に威力があるが、それは威圧することを目的としたものであった。
ブウンと目の前で風を切るようなパンチに、平野は恐怖心を植えつけられていく。四階級下の人間のパンチでありながらも、怖くなり、情けない話であるが、今にもリングから逃げ出したい気分であった。
自信を無くした時の人間というのは、いかにも脆いものである。国松を近づけないようにジャブを出すが、逃げ腰のせいか力がこもらない。案の定、大振りのパンチを避けている間に、ロープへと追い詰められてしまった。
国松は軽いジャブで目隠しをするように平野の意識を上へ持って行き、がら空きになった腹へと思い切りパンチを叩き込んだ。急所にしっかりとめり込んだ拳を受けて、平野は倒れこんだ。
国松は悠然とコーナーへと下がり、カウントを始める。
【ダメだ、もうこれ以上できない】
ダメージよりも精神的なショックを受けている平野に構いもなく、国松は早く立てと言わんばかりの視線を向ける。試合であればカウントアウトする程の時間が経過するが、カウントを続けて国松はそのまま平野が立ち上がるのを待った。
仕方なく立ち上がった平野に対して国松は再び、容赦なくパンチを叩き込んでいく。押し込まれるようにしてロープ際で亀のように丸まった平野は、何とか耐えるが、何も為す術が浮かんでこない。
「回れ、ロープから抜け出すんだ」
源と共に見守っていた福田の声が響く。それに反応しようと平野はサイドステップを使うが、逃げようとする意識だけで技術が伴っていないからか、それとも実力差のせいか、すぐに国松の圧力により、再びロープに詰まってしまう。
身長差を活かして、クリンチにも行ったりしたが、三分間が終わるまで、まともなパンチを、国松に当てることはできなかった。
「もう一ラウンド付き合えよ」
鋭い国松の言葉を聞いた時に、今までの恐怖が再び継続すると思うと、平野の気持ちは重かった。やはり自分にボクシングは向いていない。このスパーリングが終わったらボクシングを辞めよう。平野は覚悟を決めた。
「一発でいいから国松にパンチを当ててみろよ」
福田はコーナーで休む平野に近づいて声をかける。しかし自信を喪失した平野は答えることができない。
そんな弱気な相手を見て、国松は苛立ちを覚え、ヘッドギアを取った。
「ほら、いくらなんでも舐められ過ぎだぞ」
素顔をさらけ出した国松を見て、福田は平野に発破をかける。
だが二ラウンド目も一ラウンド目と同様に、状況は打開されないまま、サンドバッグのように打たれるだけであった。
「このままでいいのか」
スパーリング中でありながらも、国松は平野が必死にクリンチした際に言葉を発した。
「ただの糞野郎に成り下がるのか」
そんな事を言われてもどうにもならない。ただそこまで言われて男として、平野は引き下がる訳にはいかなかった。福田が言うように一発でいい、国松にパンチを当てたい。そんな思いが胸の中に生まれた。
残り時間が一分を過ぎ、鼻血を出した平野に対して国松はもっと舐めるようにノーガードで攻めていった。
そこでリングを見守っていた源や福田、そして練習生たちは、信じられない光景を見た。
不用意にノーガードで飛び込もうとした国松の顎を、闇雲に出した平野のパンチが捕らえた。先ほどまでとは異なり、逃げ腰でなくなったことによる、力の籠もった拳であった。
国松はストンと腰をキャンバスに落とした。
「おー」
練習生たちの歓声が上がる。源も驚きの表情を見せる。福田はニュートラルコーナーへと移動する平野にガッツポーズを見せる。それに対して軽く頷いた平野は、自らの拳を見て何かを思っていた。
ダメージはないようで、国松はすぐに立ち上がり、残りの時間を再びラッシュして、平野をロープへと追い込んでいく。
何とかしようと、平野は必死にパンチを繰り出す。先ほどのダウンが自信になったのか、そのパンチは当たらないまでも、強く、時には国松を押し返すほどであった。
「ブー」
ラウンド終了を告げるゴング代わりのジム用のブザー音が鳴った。平野は鼻血が出ている顔をTシャツの袖で拭った。
「良くやった」
福田はリングを降りた平野のグローブを取り、声を掛けた。疲れきった平野はその言葉に頷くだけで何も返せなかった。
取ってもらったグローブを福田から受け取ると、それを持ったままジムの端の方へと歩き、しゃがみこんだ。そして国松からダウンを奪った拳を見た。俺のパンチでも、まともに急所に当たれば人が倒れる。もしかしたらもっとボクシングを知ることができれば、それが可能になるのではないか……ふと自らのボクシングに対する可能性を考えてしまった。
そこにグローブを片付けた国松がやってきた。表情はいつものように、無表情に近いものであった。もしかするとみんなの前でダウンを奪ってしまい、怒られるのかもしれない。追い込まれていた時の恐怖が蘇ってくる。
「おい」
「はい」
反射的にドスの効いた国松の声に返すと共に、平野は立ち上がった。それは悪いことをした後に立たされている子供のようであった。知らぬ間に身体が硬直する。
「怖いと思うから何もできなくなるんだよ。でもそれに打ち勝って立ち向かっていったら俺だってパンチを貰って倒れることもあるんだ」
「……」
平野の身体が、怒られると思っていた感情から開放されて弛緩して行った。
「だから自信を持って、もう一回プロテストを受けてみろよ。
それでも駄目なら辞めちまえ」
国松はそれだけを言うと平野の前から去っていった。
「お前のボクシングは、それなりに技術があると思うよ。だからこそ国松はあと少し意識改善ができれば違ってくるという事を言いたかったんじゃないか」
入れ替わるようにして近づいて来た福田の言葉であった。その言葉に頷き、平野は黙々と練習を続ける国松を見た。
「俺でもプロになれるのでしょうか」
平野は福田に問いかけ、国松を倒した拳を握りしめて見た。
「後は気持ちしだいじゃないか」
福田は平野の肩を叩いた。
ここから平野のボクシング人生は転機を迎えた。
国松ともタイミングが合えばスパーリングをするようになった。
そしてプロテストに合格したのである。
普段はほとんど表情を変えることのない国松が見せた、愛という感情をほとんど持たない男の、後輩に対する精一杯の思いやりがそこには存在していた。
「やっぱり松崎さんのパンチは強いのですか」
平野の近くにいた練習生が、先ほどの言葉に対して問いかけてきた。
「ああ、俺がプロで対戦してきた誰よりも強いよ。あれは世界を獲るパンチだよ」
平野は自分が褒められているような口調で話をした。それは国松に酔いしれているのか、国松のパンチに酔いしれているのかわからないようなものであった。




