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求め行く者  作者: 祓川雄次


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1998年8月15日(土) (7)

(七)

 久恵は、今日会ったばかりの、松崎国松の家を目指しながら歩いていた。

 どうしても国松に会わなければいけないと考えていたからだ。今までの人生であれほど純粋な目をした人を見た記憶がなかった。それが久恵を動かしていた。

 見た目は怖そうな印象を受けたが、その純粋に見える瞳からは、なぜか悲しみや苦しみ、寂しさのような感情を受けていた。その瞳を見ていると、なぜか自分が引き込まれて行きそうであった。

 もしかしたら自分の感情の中で、今まで経験したことの無かった一目惚れという感情が芽生えているのかもしれないと、少しだけ胸の中で感じていた。

 そんな事を考えているうちに、ボロとしか形容できない、国松のアパートの前まで来てしまっていた。

思わず久恵は口の中が渇くような感覚を覚え、唾を飲んだ。

 ギシギシと鳴る床が、何とも不気味に思える。更に明るくない廊下の蛍光灯がそれの気持ちを増幅させていく。

 そんな事を感じながらも久恵は【金を返す】という目的を果たしたかった。ただ目的は自分の感情を押し通すための理由でしかなかった。どうしてもあの純粋な目を今一度見たい、そのためにも会いたいという気持ちが先行していた。

 久恵は一番奥にある国松の部屋のドアをノックした。それは呼び鈴のようなものが存在しなかったからだ。

 しかし数回叩いてみても反応はなかった。ドアの右上にある小さな曇りガラスを確認すると、灯りがついていない事はわかる。部屋の中にいないのかもしれない。二〇時を回ったばかりであるから、寝ているという事は考えられなかった。

 仕方がなく出直すという選択をして、アパートを出ようとした時であった。国松がロードワークから帰ってきた。

「あの、松崎さん、今日はありがとうございました」

 荒い息遣いの国松へと久恵は頭を下げた。

 国松はその仕草に怯えた。今まで自分の中にあり得なかった感情が、胸を圧迫する。ロードワークを終えたばかりの鋭い視線が、思わず崩れそうになる。久恵はそこに何とも言えない国松の中にある寂しさを感じ取っていた。

「別に、あの時はたまたま通りかかっただけだから」

 久恵の感謝の言葉に対して、たどたどしい言葉を国松はやっとの思いで返した。なぜこの女は、わざわざ自分に会いにきたのだろう。戸惑いが複雑で不安な国松の感情を煽った。

「あの、お金を返しにきました」

 もう一度国松に会いたい。出した言葉は久恵の隠れ蓑でしかなかった。

「別に良かったのに」

「そんな訳にはいきません」

 やはり久恵は、国松の瞳をもう一度見たかったのだ。その中にある感情と、自分の感情を照らし合わせて、改めて自分の中に湧き出してきた感情が本当の物かどうか、判断をしたかった。

 強い久恵の視線に、対戦するボクサーから目を逸らすことのない国松が視線を外した。

「本当にいいから」

 そう言いながら自室へと入っていく。久恵はその後を追い、部屋の中へと入り込んだ。

「どうしてもお金は受け取ってください」

 玄関と呼べないような土間で、久恵は頼み込んだ。

 国松は思考回路がおかしくなりそうであった。若くして親が死に、伯母の家で育ってきたが、中学の頃には殆ど家に帰ることはなかった国松である。

 人の気持ちを考え、思うなどという感情は、その頃から存在しなかった。世の中に対してあるのは憎しみと怒りだけであった。

 ジムに通うようになってからも、そのままであった。唯一考えることがあるとしたら、自分を拾ってくれたジムに対しての恩義だけである。だからこそ、迫り来る久恵の感情と、自分の中に新たに芽生えてくるような感情が怖く思えてならなかった。心が爆発しそうな国松はそれが怖かった。だが【帰れ】という強い言葉が口に出てこなかった。

「松崎さんって、ボクサーだったのですか」

 部屋の中に飾られている写真に、久恵の視線がとまった。長髪でもなく髭もない。しかしそれが国松であると久恵は瞳が同じであると感じ、すぐに理解できた。

「……」

 国松は振り返ることができなかった。改めて久恵の目を見ることが怖かったのだ。

「凄いですね」

「いや、凄くも何ともないよ」

 本心であった。自らにとってはプロボクサーというものは至極日常のことに過ぎないのである。そんな当たり前の事は本人に取って、凄いものでもなんでもなく、当たり前の存在でしかなかった。

「そんな事ないですよ」

 久恵からしてみれば国松とは異なり、非日常であるボクサーは凄いとしか言いようがなかった。

「……」

 言葉が出てこない。こんな情けない自分を見ることも国松としてははじめてであった。自分がどうにかなってしまいそうで怖かった。

「すみません。会ったばかりの松崎さんにこんなことばかり言って」

 久恵は嫌われないために、社交辞令のような言葉を出した。

「いや、構わないよ。俺はもうすぐ試合なんだ。忙しいから帰ってくれないか」

 どうしても久恵を遠くに離したかった。近くに置いておく事が、それによる感情の変化が恐怖でしかたがなかった。

「試合なんですか……。

 私はボクシングを見たことは一度もないですけど、松崎さんの試合、見てみたいです」

 久恵はリングの上で輝いている国松を想像して、その感情を表情に出した。しかし国松は相変わらず背を向けて視線を外したままであった。

「悪いけれども、色々な事をいっぺんに考えられないんだ。

 本当に今日はもう帰ってくれないか」

 弱々しい、国松らしくない口調であった。疲れているのかもしれない、久恵は国松の言葉をそう読み取った。

「わかりました。でも良かったら試合を見に行かせてくださいね」

 久恵はそれだけを言うと、床に封筒を置いた。それは今日借りた靴代を入れた物であった。そして部屋を出て行った。

 やっぱり松崎という男に好意を持ってしまった。久恵は自分の感情を素直に受け入れた。逆に国松は自らの新たな感情を受け入れることはできなかった。

 男と女の違いではない。ただの国松の今までの人生においての感情がそうさせていた。

 彼女の事を考えることは、もう辞めよう。

 国松は自分が人を愛することができない事を理解していた。

 それはただ単に自分の中で感情を縛り付けているだけであったかもしれない。しかしそれが出来たのならば、福田に会う前のように、横着もしていなかっただろうし、ボクサーになることも無かったのだろう。

 人を愛してはいけない。憎しみや怒りだけが自分を今まで生かしてきたのである。

 世界タイトルマッチのリングに上がるまで、あと六日。

 国松ははじめての感情を抱えながら、試合までの間を過ごすことになるとは、考えてもいなかった。


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