1998年8月15日(土) (6)
(六)
夕方になると、源ジムには多くの練習生が集まっていた。もちろんプロも数名と、昼に練習ができなかった主婦たちも、珍しい時間に顔を出していた。その中に碑勇次も練習をしていた。
「碑のデビュー戦ももうすぐですね」
数名のミット打ちの相手を終えた福田が、同じように練習を見ていた源のそばへ寄った。
「そうだな。
最近はプロのライセンスだけを取って、試合をしない選手もいるが、デビューしてはじめてプロボクサーと呼べるようなものだからな」
源からしたら、実践のリングへと上がっていない者たちを、プロとして認める気にはならなかった。だが碑はホテルという仕事の関係であまり練習ができないまでも、そのリングへと立つ権利を手にし、そしてもらった。たまたま源ジムの興行だから試合を組むことができたという感じではあるが……。
「でもいい感じじゃないですか」
福田はシャドー・ボクシングをする碑の動きを見て、四回戦の選手の動きではないかもしれないと感じていた。
日本のボクシングは、プロのライセンスはA、B、Cとランクが分かれていて、C級の選手は四ラウンドしか戦う事が認められていない。だからグリーンボーイや四回戦と呼ばれることがあるのだ。ちなみにB級は六ラウンド、A級は八ラウンド以上を戦う事ができるのである。そんな区分けがされていた。
「スパーリングも、フライでありながらフェザーの選手ともやっているくらいですからね」
ガッチリとした筋肉質の碑の身体は、小さくても相手を威圧するには決して引けをとらない。フェザー級はフライ級から数えると四階級上であるが、身長差を感じさせないくらいに距離負けしないのも、碑の技術の要する所であった。
「確かにな……。
ただ自分のペースが乱れた時に負ける事もあるからな。
試合まで残り数日、デビュー戦の重圧がどう影響するかだな」
福田とは裏腹に、源は心配していた。自分がそうであったように、なまじ巧さがあるとそれに頼り過ぎてしまう。特に日本人のどこか根底にあるような「腹切り」「特攻」という精神のせいなのか、頭から突っ込んでくるファイターを育てるジムは多い。そんな選手と当たった時には、くっつかれ手数で押され、自分の良さを出すことができなくなってしまう。だからこそ、ペースを乱される状態になった時に、碑がどのようになってしまうのか、それを心配していた。
「でも碑さんなら平気ですよね」
先日プロテストに受かった我孫子は二人の話に割り込んできた。
「碑さんが、どれだけの思いでプロになったかを知っていますから、それと比べたらデビュー戦なんてどうってことないですよ」
我孫子が続けた言葉に福田も頷く。
当時のプロに成るには視力が0点六以上なければいけないという規定があった。碑は0点一以下の視力を現代の技術に頼り、回復手術をしてプロテストに合格したのである。だがこの当時には、レーシックという技術ではなく、RKという、角膜に直接メスを入れるという手術であった。その手術をしてから半年以上スパーリングもできない状況の中で、碑は黙々と練習をしてきた。
それを知っているからこそ、我孫子は碑の勝利を疑わなかった。
「ボクシングに絶対はない。たった一発のパンチで何が起こるかもわからない。
確かに、碑は勝てる可能性があるかもしれないが、あいつは気力が充実している時と集中力が切れた時で出来がばらつくからな」
源はそれだけを言うと、二人の元を離れていった。そして碑のミットを持った。
「会長はもちろん、ジムの選手に勝ってもらいたいさ。だが不安も多いって事だよ」
福田は我孫子に笑顔で言った。それは自分も所属の選手たちが負けないように願っている表情であった。
そんな中、自分も勝てる可能性があると言われていた試合で、勝てなかったことを思い出した。
それは一〇年以上も前になる。
世界ライト級一位にランクされていた福田が、世界タイトルマッチの舞台に立った時の事であった。ただその試合は、挑戦という言葉ではなく空位になったタイトルを争う王座決定戦というものであった。
戦績からしても対戦相手の二位の選手に勝てる可能性は高かった。だが敵地に乗り込むという点が不安材料になっていた。
リングに上がった時に、応援は相手にのみ向けられて、自分にはブーイングしかなかった。レフリーもその雰囲気に飲み込まれて相手の味方とさえ感じられた。
ホームタウン・デシジョンは、敵地である相手への声援で、今のラウンドはどちらが取っているのだろう、と迷ったジャッジが、声援が多かった方を取ってしまう場合があるからだ。
会場の雰囲気に飲み込まれたのはレフリーやジャッジだけではなかった。
何戦もこなしてきているはずなのに、世界タイトルマッチという緊張も手伝ったのか、中盤までは良い配分ができたものが、一気に福田の体力と精神力を奪っていった。
そしてKOで負けたのである。
勝負の世界に絶対ということはない。自らがそれを実感したからこそ、碑に対する源の考えも福田は理解ができたのだろう。




