1998年8月15日(土) (5)
(五)
国松は自宅からパチンコ屋へと向かっていた。いつもならばこれから練習へと向かう時間であったが、昼に練習をしたために時間が空いてしまい、気晴らしをしたかったからである。
軍資金を使い古した財布へと入れて、駅前を歩いていた。
そんな気分転換ができる駅近くの目的地が近くなった時であった。ふと前方から歩いてきた女性が、急に前かがみに倒れそうになった。
瞬間的に、いつもならば倒れる人間を見下ろしているはずの国松が、思わず手を差し伸べた。
普段ではすることのない感覚に国松は、自分の行動が理解できなかった。けれども倒れそうになった女の元へと自然に身体が動いていた。
側方に出された国松の右腕に女性の腹のあたりが引っかかった。優しい助け方ではないが、女性はそれによって倒れることなくバランスを保った。
「すみません、ありがとうございます」
体勢を立て直したスーツ姿で薄化粧の女性は、丁寧に頭を下げた。その時に自分の足が不自由な事に気が付いた。
マンホールの穴にはまった靴の踵が折れてしまっていたのだ。
「ああ」
国松は女性にお礼を言われて、素っ気なく答えた。人の事など考えたこともない自分が思わず人助けをしたことに、自らが驚いていたのだ。それに異性に興味を示すことがない自分が、思わず目の前にいる女性に吸い込まれるようになっている事に、更に驚きを隠す事はできなかった。
恋という物をした事がない国松は、不思議な感情を覚えた。しかしそれが何であるかは理解ができなかった。だからこそ戸惑いでしかなかったのである。
目の前にいる女の澄んだ瞳が、眩しく感じられ、必死に視線をそらすことしかできなかった。
「靴が」
国松はそらした視線に入った女の足元を見た時に、女が倒れそうになった原因を知った。
「そうみたいです。踵が折れるなんてびっくりしました」
驚いた表情で女は答え、靴を手にして、折れた踵を取ってから、再び足に装着した。
「その靴じゃあ歩くのは大変じゃないですか」
国松は自身でも違和感がある言葉を口から出した。
「でも、それほど自宅は遠くないですから」
「でも」
何だかいつもよりも歯切れが悪い。雄弁ではないが、普段は必要なことはしっかりと話をすることができる。それなのに……国松はそう感じて、思わず女から視線を逸らして辺りを見渡した。そして近くにある靴屋を発見した。
「とりあえず」
女の手を引いて思わず店内へと入り込んだ。急であったために女は身構えるまもなく、国松についていくしかなかった。商店街であったのが良かったのか悪かったのか、そんな判断は意味がなかった。
「すみません」
入ると国松は店先で声を上げた。それに釣られるように中から店主と思われる男が顔を出した。
「すみません。靴が壊れてしまったのですが、同じような物はありますか」
切羽詰るように店主に声をかける国松に女は戸惑った。
「いいですよ、平気ですから」
女はこのままでも帰ることができると主張をしたかったのだが、国松は押し通すようにしてそれを遮った。
「良くないです。とりあえず」
なぜ自分がそのような行動に出ようとしているか、国松は自分自身の行動が理解できなかった。パンチよりも強い衝動が、自分の精神を侵している。そう考えると逃げ道を塞ぎ、最良だと思える筋書きを自ら作ることしかできなかった。
その勢いに任せて、半ば強引に女の靴を購入してしまった。なぜそうしたのかは最後まで自分でも理解はできなかった。靴が壊れた原因は国松にはない。ただ、そうすることしか国松の頭の中では行動することができなかった。
女は国松の強引さに気圧されて、それを受けることしかできなかった。
「あの、せめて連絡先を教えてください。後日ちゃんとお金は返しにいきますので」
「いいですよ」
国松は自分がなぜそのような行動を取ったのかわからず、女の瞳を真っ直ぐに見ることもできなかった。普段ならば相手を睨みつけることはできるのに…・・・理解ができない事、それによって思考回路は確実に混乱していた。
「駄目です。ちゃんと教えてください」
女は持っていたメモ用紙とボールペンを鞄から出して国松へと手渡した。その勢いに今度は国松が圧された。仕方がなく名前だけを紙に書いた。
「住所と電話番号もお願いします」
更に押されるように国松は、それを書いて女へと渡した。
「ありがとうございます」
女はメモ用紙を受け取ると、別の用紙を出し、自分の住所と電話番号、そして雪藤久恵という名前を書いて国松に渡した。
「これは私の住所です。ちゃんとお金は返しにいきますので……。
今日はありがとうございした」
そして丁寧に頭を下げた。
「金は別にいいよ」
国松は視線を合わせずに答えた。
「そんな訳にはいきません。ちゃんと返しに行きます」
それだけと告げると、履き替えた靴でしっかりと地面をとらえて、再びお辞儀をしてから久恵は歩いていった。
その後ろ姿を、なぜか国松は見送っていた。最後の言葉に対して、一言も返すことができなかった。今まで自分の中であり得なかった感情が、国松の思考回路を止めてしまっているようであった。




