1998年8月16日(日) (2)
(二)
WBAライト級チャンピオン、カルロス・アーティスティック・ゴンザレスは、昨日アメリカから日本へと着いたばかりでありながらも、時差ボケというものは生じていなかった。
ライト級最強という称号を獲得する寸前の二年前に、彼は日本という小さな島国で、世界的にほぼ無名であった挑戦者である「松崎国松」を相手に、何とかKO勝ちを収めたが、苦戦を強いられたために、評価はガタ落ちであった。
その評価を再び登らせるために、この二年間は必死であった。防衛戦も上位ランカーのみを選んで行ってきた。
そして今回、指名挑戦者となった国松と再び激突し、汚名返上をする最高の場面が用意された。だからこそ、時差ボケですらメキシコに居る時から対策をしてきたのである。
「前回は油断していたが、今回は同じ失敗を繰り返すことはない。
松崎のボクシングは前回の対戦でわかっている。
だから絶対にゴンザレスが負けることはないですよ」
ゴンザレスのマネージャーであるアール・ハルパーンは、記者たちを前にして、そんな言葉を出した。リングの上で華麗な身のこなしを見せるゴンザレスを見ていると【絶対】という言葉がリップサービスではないように思えてくる。
ハルパーンとしては、これに勝利した後で、金になる名の選手との試合や統一戦などを画策していた。だから余計に負けてもらっては困るのである。
「ゴンザレスは国松戦の後から、相当練習をしてきている。
特に足は鍛えに鍛えているという話だ」
取材に来ていた橘幹雄は、メキシコで特派員をしている記者友達からそのように聞いていた。準備運動としてボクシング用の重たい縄跳びを飛んでいるゴンザレスを見ていると、そんな言葉を思い出してしまう。
確かに国松の突進を交わすためにフットワークは必要だろう。思った以上にダッシュ力のある国松はあっという間に自分の距離に入り込んでしまう。それを一二ラウンドという間捌くために、下半身の練習は必要不可欠なのだろう。
その後のシャドー・ボクシングを見ても、必ず足を止めないようにしている。それだけこの一戦をゴンザレスは重要視しているのだろう。
そしてスパーリングが始まる。
ゴンザレスのパートナーは国松に似て、前に出て、手数を出し続けるという、いかにも日本人的なボクシングをしている。そのボクシングで現在は東洋ウェルター級のタイトルを保持している。
そんな選手を相手に、ゴンザレスは完全に足のみで捌いていく。いくら踏み込みのスピードが国松に劣る東洋チャンピオンとは言え、ジャブを使わずに足で捌く事は容易ではない。だがゴンザレスは難なくそれをこなしていく。二年前とは大違いのフットワークであることを記者の誰もが感じていた。
足先から力を無駄使いしないゴンザレスのジャブが、二発ほど東洋チャンピオンを捕らえる。拳の一点に威力が伝わってくる。無駄がない分、見た目以上の威力があるのか、一瞬東洋チャンピオンがのけぞるようにしてその場に立ち止まってしまう。
「あのジャブはかなり有効だな」
橘が思わず言葉を発した。
東洋チャンピオンは無理やり頭を振り、ゴンザレスの懐へと入り込んだ。
【油断はしない。国松との試合は一瞬が命取りになる】
ゴンザレス陣営の前回の試合での教訓であった。
頭を下げて入った東洋チャンピオンの顎を右ショート・アッパーが捕らえた。顔が跳ね上がったところに、左フック、右ストレートの追撃が、顔面を正確に捕らえる。そして再びフットワークを使い、距離を確保する。
「今回の試合のキーポイントは足か」
橘は鍛え上げられた脹脛に目をやった。足の力は無論パンチ力にも影響してくる。ゴンザレスは前回よりも怖い武器を備えてやってきた。ボクシングを知っている者ならば誰もが思うことであった。
「今回も国松は厳しいかもな」
他の記者の言葉を橘は素直に受け取った。その通りかもしれない。ゴンザレスの並々ならぬ国松戦に対する決意を感じ取ることができる。
ゴンザレスには前回の汚名返上と共に同じくらい、負けられない理由があった。
今年二六歳になるゴンザレスは、父を亡くし、母が病に伏し、六人の兄弟の面倒を一手に見ていた。しかも自分の子供も二人いるのである。
一家の長としての責任もそこには上乗せされていた。それを考えれば尚更、今後の展望として、ビックマッチで強敵を相手にするためには、やはりここで負けてはいられなかった。




