ラストラウンド
(第一二ラウンド)
橘の採点ではややゴンザレス有利といったところであった。しかし前回の一一ラウンドの戦いを考えると、接戦になってきていると考えられなくもない。前回の試合よりも拮抗しているようにも思える。最終ラウンド……もしかすると逆転もありえるかもしれない。それを考えると、仕事よりも一ボクシングファンとして興奮してしまう。思わずペンを握り締めてしまった。
実際の採点はどのようになっているのか、そんな事よりも観客たちは、橘と同じように最終ラウンドに国松の逆転が見えてきたと感じていた。
実際の各ジャッジたちの採点を観客たちは見ることはできない。両陣営も自分たちの見た目で採点を考えることしかできなかった。
①9 9 89 9 一〇四○
赤 ②9 99 8 9 一〇四○
③9 9 99 89 9 一〇二●
ラウンド①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑪⑫
① 9899 8 9 一〇二●
青 ② 989 8 99 一〇二●
③ 989 8 9 一〇三○
赤はゴンザレス、青は国松である。そんな中でゴンザレスに二者、国松に一者と、実際の採点は割れていた。
どちらかに一方的な感じではない。しかし国松が最終ラウンドに一度ダウンを取ったとしても採点は一〇対八としかならない。それを考えると引き分けになってしまう。世界タイトルマッチにおいて引き分けとは、王者の防衛という記録になり、国松がベルトを腰に巻くことは不可能であった。
セコンドについている福田も源も、最終ラウンドにKOを狙う以外勝利を手中に収めることはできないと感じていた。けれども現状を見ればそれが不可能ではないことは明確であった。先の一一ラウンドでダメージを追っているゴンザレスを倒すパンチ力を国松の拳が秘めていることを知っていたからである。一発の破壊力において国松のパンチは世界レベルであり、確実にその中で上位につけている。それは前回の試合でゴンザレス自体が認めていることでもあった。だがここまで力を使っている国松の疲労がどこまであるのか……。それによって左右されると思われた。
「国松、もうゴンザレスはフラフラだ。最後に決めて来い」
疲労を考えないわけではないが最終ラウンドということもあり発破をかける以外、やり方はなかった。国松もそれを理解しているのか頷いた。
「もちろん行きますよ。多分倒さないと勝てないですよね」
国松は採点などを数えて戦うタイプではない。だが直感的に判定が厳しいことを理解していた。
「そうだろうな。だがもう一押しだ。お前のパンチならば倒せるぞ」
源も続くようにして額の傷を処置しながら声をかけた。
最後に拳を爆発させるだけだ。国松は静かに眼を閉じた。
ふと父親である国松の顔が頭を過ぎった。雑念、それとも……国松は一瞬自らを諌めようとしたが、それを拒絶せずに力に変えることを選択した。
【あんたを超えてくるぜ】
父に対する憎悪……ボクシングを始めた頃は確実にそう考えていた。しかし今はそんな事ではなかった。ただ純粋にボクサーとして、父を超えて見たいという。息子としての感情だけであった。
「最後はアウトボクシングで逃げるか」
採点ではこちらが有利である。カーキはゴンザレスの気持ちを確かめていた。実際には指示通りにするなという気持ちがあった。ここで逃げるようであれば国松のパンチに巻き込まれて終わってしまう。そう感じていたからである。それほどまでに国松のパンチにカーキ自体が脅威を感じていたのである。
「いや、最後まで倒しに行ってくる」
ゴンザレスはダメージを負いながらも冷静であった。国松の踏み込みなどを実感していて、逃げるよりは打ち合い、クリンチなど自らのテクニックを駆使したほうが安全であると考えたからである。
「いけるのか」
目の光りを確認しながらカーキが尋ねた。
「逃げるよりは得策だろう」
一度感じた国松の拳の脅威を、ゴンザレスは払拭していた。それほどの精神力があれば生き残ることは可能ではないか……。勝利への道はできあがった。カーキは実感をしていた。ゴンザレスが世界で一番のボクサーであると……。これを再び自らが認める時が迫っている。それ以外、今は考えることはできなかった。
リングサイド。
青コーナーに近い位置で、久恵は出会ってから一週間ばかりしか経っていない松崎国松という人物を見つめていた。頑なまでに自らの生き方を、自らの存在をかけて戦い続けている彼の精神力の強さを感じていた。だが一つだけ国松が自分を受け入れた事を考えるとそれが不安にも思えてくる。もしかしたら自らの存在を受け入れてくれたことによって、今までのような戦い方ができないで負けてしまったら……。
不器用な国松だからこそ、人生の葛藤を覚え、それを今まで乗り越えてきたのだと思う。強さゆえの苦しみもそこにはあったのだろう。
勝ち負けも勿論求めているのであろうが、試合を終えて自らの存在確認を出来なかった時に、国松がどのような苦悩を生み出すのであろうか……国松であれば修行僧のように、そこにのみ固着しかねない。残りの人生全てを費やしてでも自らを確認せざるを得なくなってしまいそうな気もする。強い人間であるが故に、その強さを向ける方向が他の人たちとは異なってしまうのかもしれない。
松崎さんが納得のいく戦いが、最後までできますように……久恵は自らとの出会いで存在を受け入れてくれたことで、それができなくなる事だけは避けてもらいたかった。
国松はもう久恵を見ることはなかった。視野に入れないまでも近くにその存在を感じている。それだけで充分であった。自らの新しい感情の扉を開いてくれた。その存在があったからこそ、ここまでゴンザレスとの戦いができたのである。国松ははじめて女という異性に感謝をしていた。
母親という存在を愛していたかもしれない。だがそれはあくまでも血の繋がりがあってこそであり、それがなければ自分を世の中に吐き出しただけの存在でしかない。人間の愛ゆえに、子供はその欲望の中から産まれる。親の欲望の中から産み出された自分という存在が、果たして何者なのであろうか……考えれば考えるほど苦悩するばかりである。そんな事を考えないほうが生きるという意味において楽に違いない。女は生物学的に、本能で自らを求める男たちに対して、優位な立場に立つものだと、嫌悪を覚えてきた。だがそれが違うことを久恵は感じさせてくれた。自分の存在をその人に見てもらいたい。自己愛かもしれないが、好きな人がいるからこそ思える感情であった。
インターバルがまだある中で、国松は椅子から立ち上がった。
「会長、福田さん、自分の存在を確認しに行ってきますよ」
力強い言葉であった。額の傷は何とか血を止めているが、顔は被弾したことがありありと腫れでわかる。そんな中でも眼の中の光りは消えていなかった。国松の強みは自らを信じて、最後まで戦える精神力である。源も福田も今までの試合で、嫌というほど見てきた姿であった。
「お前がチャンピオンだという存在も確認してこいよ」
福田がセコンドアウトのアナウンスを聞いてマウスピースを口に入れながら言った。
「最後だ、大暴れしてこい」
源が国松の肩を叩いた。
一〇年前、街で福田に喧嘩を吹っかけてきた。そしてジムへと乗り込んできた、元気な国松の姿を二人は思い出した。何をやったら良いのかわからずに、鬱積された生命エネルギーはボクシングに出会うことによって、国松を生かした。
リングという神聖な場所は、名前とは異なり決して神の領域ではない。人間が自問自答し、苦悩し苦行して、はじめて辿り着けるという人間臭い場所でしかない。
ゴングが打ち鳴らされ、二人のボクサーが中央へと歩んだ。
そこで二つの拳が一ラウンド目よりも、お互いに対して尊敬と愛情を込めて合わされた。数少ない戦友という意味を込めて、最後まで本気で戦うことを誓う意味もあったのかもしれない。
一一ラウンドの最後を引っ張るかのような歓声が二人のボクサーを後押しし、会場を揺るがしていく。
国松は左ジャブを二発、三発と続けざまに振るう。そのパンチは最終ラウンドだというのに、真っ直ぐにしっかりと蹴り足を使い伸びていく。
ゴンザレスはそれを避けながら近寄るように懐へ入るとスパーリングで見せたようなアッパー、フック、ストレートというコンビネーションを打つ。それにより身体を起こされた後に真っ直ぐのパンチをガードの上にもらい、国松は後方へと下がった。それを見逃さずにゴンザレスも最後の力を振り絞り、左周りをしながらジャブからストレートを打ってくる。そのパンチが国松の顔面を捕えた。
効いた。
観客たちから思わず不安気な、悲鳴のような声が起こった。
しかし国松はお構いなしであった。勝負を諦めるようなパンチではない。道を自ら閉ざしてしまうことはしなかった。すぐに前方へと体重移動して、攻撃を仕掛けていく。ゴンザレスはそれ以上攻めきれずに一度間を置いた。
前のラウンドと同じように、打ち合いが始まると観客の足踏みが始まった。二人のボクサーの魂がこのラウンドを終えた時に休まるような鎮魂歌になればと思えるくらいに、最後の炎を燃やせと言わんばかりの爆音が響いた。
ゴンザレスの右ストレートが再び国松の顔面を捕えた。一一ラウンド終了時にはこんなにゴンザレスが力を残しているとは思えなかった。
国松の膝が一瞬ガクッと折れる。
レフリーは国松のダメージを確認するために表情をのぞき込むように確認していた。ゴンザレスも国松もダメージが多い。しかも体力の落ちている最終ラウンドは耐久力も落ちているはずである。これ以上のダメージは危険かもしれない。そんな中で渾身のパンチが急所に入るような事になれば命に危険が予想されるかもしれない。それを見極めなければならないので、最後までリングの中にいるレフリーも気を抜くことはできなかった。
国松は続くゴンザレスのショートパンチの連打を避けた。その間に攻撃態勢を取れるように左膝に体重を乗せた。それはベタ足ではなく、つま先で瞬間的に動くことができる体制になっていた。
ショートパンチをかわされたことにより、一度間をおこうとゴンザレスが一歩下がった。空間が開くことによって一瞬気を抜いたゴンザレスの右ガードが顎の位置から下がった。だがそれは拳一個分であり、観客の位置からはそれほど変わったようには見えなかったのだろう。しかしその隙間を国松は見逃さなかった。両足が同じようにつま先の力を使い、瞬間的に前に出た。それとほぼ同時に身体が膝、腰、肩と連動して動いた。渾身の左フックがゴンザレスを捕らえた。ゴンザレスの身体が力を失ったかのように下がった。一瞬で脳が揺れたとわかるように、ゴンザレスは膝を着いた。
観客は大盛り上がりであった。更に足踏みが【ダウン】とマイクを通して言ったリングアナウンサーの声をかき消すほどであった。
橘はよし、と心の中で思いながらも、もしも立ち上がって来た時に、果たしてこのダウンでポイントがひっくり返るのかどうか心配していた。ジャッジの採点がどのようになっているのか、それが気がかりであった。
国松の緊張は観客とは異なり、持続していた。前回の試合では最後の最後で逆転KOを喫しているのである。今回は同じようなミスはしない。ニュートラルコーナーで国松は一瞬眼を閉じ、立ってくる、であろうゴンザレスの姿を想像していた。
その国松の思い通りにゴンザレスは何とか立ち上がった。レフリーが確認するその眼はまだ死んではいなかった。
ボクシングではたった一発のパンチで、負けそうになっている人間が復活することがある。前回のゴンザレスがそうであった。そうならない為にも国松は立ち上がったゴンザレスに対して攻撃をしかけた。
国松はアウトボクシングではなく、懐へ入ろうとした。ここが勝負の場面だと考えたからだ。しかしゴンザレスはガードの上からでも細かいパンチを連打して国松引き離そうとした。だが力がないそのパンチで、体重を左膝にしっかりとかけた前傾姿勢の国松が離れることはなかった。そして今一歩踏み込んだ国松がここぞとばかりにパンチを連打する。
歓声はもう会場に留まらないくらいになっていた。この先に待っている光景……そんな場面に対する期待が大きく膨らむ。
チャンピオンになる。只単純に国松は勝ちを得たいと思っていた。その後の具体的なことなどを考えることはない。ただ目の前の一瞬にだけ集中していた。
「国松、行け」
福田は自らが叶えることができなかった夢をそこに重ね見ていた。世界タイトルマッチの舞台に立つのと、チャンピオンベルトを腰に巻くのとは大きな違いである。自分が巻けなかったベルトを、ぜひとも国松の腰に巻かせたかった。
まだ気は早い。国松は気を引き締めた。フラフラでありながらも力ないパンチを振るうゴンザレスを相手に、ラウンドの残り時間は三十秒……叩き続けるしかなかった。
ゴンザレスは身長差を活かして、上から覆いかぶさるようにしてクリンチへと持ち込んだ。そして体重をかけて休んだ。無理やりでもはねのけようとする国松はその行為により体力を減らして行くが、ここで攻撃を止める訳にはいかなかった。そうしなければ勝機は見えてこない。国松が少し苛立ったところでレフリーが二人を離した。
クリンチの間にゴンザレスは少しだけ足が回復したことを理解した。その上で残り一〇数秒逃げ切ることができるならば、勝利することができると思っていた。最終ラウンド逃げずに行くというはじめの考えが、残り時間を見て変わった。
「ファイト」
レフリーの声と共にゴンザレスは一歩下がり、左ジャブを繰り出した。力はないが牽制し、距離を保つことができると思ったからだ。
力ないそのジャブをかい潜り国松は前進をするが、チャンピオンの意地はそれを許さなかった。渦巻く歓声が鳴り止まない。二人のボクサーの鼓動は、その渦を乗り越えるかのように、熱く激しく動いた。
残り一〇秒…もうKO決着はない。
勝てないのか……橘は思わず唇を噛んだ。
国松はゴンザレスとの距離を感じながら、思わず今日のリングで負けた後輩ボクサーである碑の、ジムでのサンドバッグ打ちを思い出していた。思い切り踏み込んで遠い距離から右ストレートを当てていた場面を、である。
今あれを俺が打てるのか……国松はジャブですら当たらない位置から、両足で身体がスライドするように前方へと思い切り踏み込んだ。
ゴンザレスは国松の動きを察知したがダメージもあったのか、瞬間的に動けずにいた。そんな自らの身体を理解し、少し下がっているガードを何とかして上げようとした。
その反応よりも早く、国松の右足が回り、それに押されるようにして腰、肩が回転した。
「このパンチをゴンザレスに叩き込んでください」
そんな事を言っていた平野の言葉が、一瞬脳裏をかすめた。
本当に長い距離を詰めたところからのパンチであった。グローブの中の、バンデージに包まれた拳の、中指の上に突き出した拳一点が当たった事が感触でわかった。
その瞬間、パンチの威力に弾かれるようにゴンザレスは後方へと倒れた。
明らかにダメージの色は濃い。
観客が総立ちになった。歓声は何を言っているかわからないくらいの坩堝に巻かれた。
レフリーがカウントを数えはじめる。
ゴンザレスは何とか立ち上がろうともがく。そんな中カウントが五と告げた時に、一二ラウンド終了のゴングが打ち鳴らされた。
最終一二ラウンドのゴングは、他のラウンドとは異なりカウントは継続されることなく終了するのである。もしも一〇まで数えることができたのであれば、ゴンザレスは立ち上がることはできなかったであろう。それほどのパンチであった。
総立ちになった観客たちは悲鳴を上げるように椅子へと腰を下ろした。それはある種の落胆が含まれていたのかもしれない。だが一瞬を置いて、二人のボクサーを大きな拍手で称えた。
ニュートラルコーナーでゴンザレスを見下ろしていた国松が、大きく手を上げて観客に答えた。今までならば淡々とコーナーへと戻る国松が、はじめて観客に対して心を開いたように見えた。
ほどなくして立ち上がったゴンザレスが、フラフラとしながら宿敵へと近寄っていった。国松もそれを視野に入れ、歩みよった。そして二人は戦った相手の存在を確認した。同じ時代に、同じリングで戦った宿敵……その存在がなければ、自己確認はできなかった。ある意味で有り難いものであった。
福田も源もリングの中へと入り、青コーナーへと帰ってきた国松の健闘を讃えた。平野は水の入ったボトルを国松に見せた。朝のロードワークの公園で散々恨めしく思えた程の水であった。国松はそこに吸い寄せられるようにして水を飲み込んだ。
「平野、お前の言うように、俺のパンチをゴンザレスに叩き込んできたぞ」
平野はその言葉に何も言えずにただただ頷き涙を流した。
「まだ結果は出てないぞ。しかもお前が泣いてどうするんだ」
福田は国松のグローブを外すために近寄った。そして平野に笑いながら声をかけた。
闘い抜いた新品のグローブがヘタっているように思えた。
バンデージを取られた手で、国松は福田に握手を求めた。福田はその手をしっかりと握った。
「良くやった。後は結果を聞くだけだ」
国松はそれに対して微笑みながら頷いた。
ゴンザレスは国松とは異なり、自陣へと帰ると用意された椅子へとすぐに座った。腫れた顔が激戦を物語っていた。最後のダウンのダメージが未だに抜けていないような感覚であった。
「大丈夫か」
カーキが声をかける。ゴンザレスはその声に頷いた。前回以上に挑戦者である松崎国松は強かった。そんな強敵と戦えたことに満足していた。しかし雪辱を晴らすことはできなかった。逆に今回の方が更にやられたという実感もあった。けれどもこれだけの闘いができたのであれば、勝ち負けに関係なく、結果を素直に受け入れられると思っていた。
リングの上に、コミッション関係者が登り、採点表を渡されたリングアナウンサーと共に勝者を確認した。
「勝者」
リングアナウンサーの声に、今までにないくらいの静寂が会場を支配した。セコンド陣たちも、国松もゴンザレスも、各コーナーでその後の言葉を待った。数秒もない時間がとてつもなく長く感じられた。
「青コーナー、松崎」
スピーカーから聞こえた言葉が、判定を聞いた国松の耳に入った。そしてすぐに大きな歓声が響いた。
福田は思わず国松に抱きついた。平野もそれに続いた。源はその光景を見て、はじめて自らのジムから生まれた世界チャンピオンの姿を誇らしく見ていた。
久恵は他の観客同様に立ち上がり、国松に対して大きな拍手を送った。だがそれは多くの拍手や歓声に飲み込まれ個人の物ではなくなった。だが全てが国松を讃えているものであることには変わりなかった。本当に心から嬉しかった。それ久恵に取って自分の事のように思えるものであった。
国松は当事者でありながら、何とも言えない気持ちであった。身体が浮いているような錯覚にさえ陥る。だが顔や身体の痛み、そして疲労を感じることによって、自らを実感していった。
勝ちはもちろんであるが、自らの存在という自己確認ができたことが嬉しかった。自分という存在が、この世にしっかりと存在している。ただ生きているだけでは実感できないものであった。国松からしてみたら自分が自分を実感できなければ生という物自体が、実像があるかどうかもわからないものであった。もしかすると実像がない自分が見ている人や物たちも虚像になってしまいかねない。そこに評価をされても実際には全て無に帰してしまいかねない。人間の存在などそんな小さな物なのであろう。
「おめでとう」
ゴンザレスはこの時点で、前チャンピオンとなっていた。新チャンピオンの国松に対して戦争ではないので憎しみや恨みなどは、全く存在はしなかった。ただただ素直に自らに勝った者を讃えにきたのである。
「ありがとう」
改めて二人はお互いを、殴りあった拳で握手をした。
ライト級最強と言われていたゴンザレスの落城……本人に取ってショックがない訳ではない。この試合を見たゴンザレスファンからため息が漏れる光景もわかる。しかしゴンザレスは仕方がないと思った。今日のところは負けを素直に認めよう……そう今日のところは……。いつかこの雪辱を晴らす日が来るであろうと気持ちを切り替えて、自らの復活を考えた。
国松の腰にチャンピオンベルトが巻かれた姿を一度だけ見たゴンザレスは、黙してリングを去っていった。
その間に試合の採点が発表された。一人目は一一二対一一一、二人目も同じく一一二対一一一、三人目は一一三対一〇九という判定であった。三対零で全てのジャッジが国松を支持する採点結果であった。
一二ラウンドに二回のダウンがあり、一〇対七となった事が勝因であった。もしも二度目のダウンがなければ、最終回の採点が一〇対八となり引き分けでゴンザレスの防衛となる試合であった。これだけ拮抗した試合であればゴンザレスが勝ちを主張することも充分できたはずであるが、本人に取って不満はないようで、胸を張って元チャンピオンは会場から姿を消した。
自分が今までの防衛戦で戦った中で、前回以上の強さを見せた国松に負けたのである。悔いはなかった。それよりも無敗の連勝というプレッシャーに今後苛まされることがなくなった。そんな安堵がゴンザレスの中にはあった。しかしそれは負けたからこそ考えられる感情だとゴンザレスは理解していた。
「それでは見事新チャンピオンになりました松崎選手にインタビューしたいと思います」
アナウンサーが生中継のテレビカメラの前で、マイクを手に国松へと近づいた。
「見事前回の雪辱を晴らして、チャンピオンベルトを巻きました。今の感想は」
アナウンサーは自らが勝ったかのような笑顔でインタビューをはじめた。
「何とか勝ったという感じなので、雪辱をと言っていいのかわかりませんが……」
カメラなどを気にすることもなく、国松は答えた。
「勝ちましたので、雪辱を晴らしたと言っていいと思います。
それにしても今回は今までとは異なるスタイルで戦ったことに、観客の皆様も驚いたと思うのですが」
その通りというような観客の声が上がった。
「いや何となくゴンザレスを相手にする上で、試してみようと思っていたのですが、あまり良くなかったですね」
国松は今回のアウトボクシングが本当に作戦としてよく、それによって勝てたのかどうか、答えはわからなかった。
「しかし最後には見事激戦を制して勝利いたしましたね」
もっと勝利した喜びを伝えて欲しい。そんな熱のこもった言葉でアナウンサーは問いかけた。
「本当に最後までどうなるかわからなかったです。
ゴンザレスは前回以上に強く感じたので……」
まだ国松の喜びは伝わらなかった。
「その強いゴンザレス選手に勝って腰に巻かれたチャンピオンベルト、いかがでしょう」
「そうですね、何とも言えない重みがあります」
本当に重みがあるベルトであった。自らの存在一つが、今回の試合とベルトによって自分なりに存在確信を得たのだから、尚更他のものとは比べ物にならないと思えていた。
「最後に応援してくださった観客の方々に一言お願いいたします」
最後くらいお願いします。勝利の熱をマイクに伝えて欲しい。アナウンサーの心の叫びであった。
「自分なりに精一杯やって何とか勝つことができました。本当に応援ありがとうございました」
国松は今までやることのなかった、両手を大きく掲げて、観客に答えた。
やっと熱が伝わった。アナウンサーは安堵した。
今までにない喜びようだという事もわからずに、国松の姿を見ていた久恵の眼から自然と涙が溢れた。一人の人間が生きていくということは、これほどまでに熱いものである。そんな事を肌で実感していた。
出会って一週間という期間で、国松がここに到るまでどのような経緯を辿ったか知っているわけではない。だが人間が自分を確信するために自らを奮い立たせることは、これほどまでに熱く、本人のみではなく、周りの人たちを巻き込むことができるエネルギーがある事を知った。
そしてその熱を帯びた人たちが、今後どのような行動に出るかはわからないが、今の感動に揺れ動く気持ちは忘れないと思う。そして成功という二文字を掴む明日への活力になるのかもしれない。そんな事を考えていた。
福田の開けたロープの間を抜けると、国松は戦士から一人の男へと戻ったような気がしていた。一歩一歩階段を降りていく国松を拍手で見送る人たちの姿と、思わず触ってしまったチャンピオンベルトが、自らが勝ったことを実感させてくれていた。
源は観客席へと座った久恵に視線を送った。押し寄せているファンたちに埋もれるように動けなくなっている久恵に対して、源は小さくガッツポーズを見せた。久恵はそんな姿を見て、同じように拳を握って見せた。
国松の近くにいながらも近づくことができない。だが久恵は身近に国松を感じることができた。国松も久恵へと視線を送り、同じような事を感じていた。そして安堵の表情を浮かべて国松は控室への道を歩いていった。
今日の試合会場に足を運んだ誰もが、自分なりの感動を覚えていた。そんな中で橘は今日の試合の事を皆に伝えるためにペンを動かそうとしていた。
どこまでも伝えていきたい。そんな思いであった。
控室を出た国松は勝利者として、静まり返った後楽園ホールのリングのそばに立ち尽くしていた。
試合が明日もあるためなのか、本来であれば撤去されるリングはそのままであった。
このリングの上で、自らの存在を確認できたのである。そんなリングに蚯蚓腫れや赤くなった肌をタンクトップという生地で覆いながら、国松は再び上がった。
左眼の上のガーゼが邪魔に思えたがかまわず、ロープを国松はくぐった。ボクサーという戦士でなければ立ち入ることができない四角い箱の中……。今の自分は戦うためにリングへと入ったわけではない。戦士ではない自分が穏やかな気持ちでこの空間に入るとは思いも寄らなかった。ここ数年の中で一番、穏やかでゆったりとしたものが国松の時間を支配しているようであった。
もしも世界タイトルマッチの前に雪藤久恵という女性に出会っていなかったら、このような気持ちにならなかったと国松は感じていた。今までのように、すぐに次の戦いの事を考えていたのだろう。今日は彼女がいたからこそ苦しい展開でも戦い抜くことができた。彼女の存在を受け入れることができたからこそ、自分を見つけることができたと実感していた。
国松は今日、世界で一番の幸せ者であると自分を感じていた。久恵を受け入れたことと、ゴンザレスに勝って世界チャンピオンになれた。こんなに嬉しいことはなかった。
「国松、行くぞ」
リングの上にいる国松を見かねた福田が声をかけた。
今一度リングの上から姿を消した星たちの、残骸のように光りを発していない照明を見上げてから、国松はリングを降りた。そして福田や源と共に激闘の記憶を残した後楽園ホールを後にした。
エレベーターを降り、建物から出る時に、国松は久恵の姿を視界に入れた。
「松崎さん」
国松の姿を確認した久恵は、小走りに源ジムの一員がいる中へと近寄った。
「国松、明日は一時にジムで記者会見だからな。遅れるなよ」
源は国松の肩に手を置いて言った。
「とりあえず、今日はゆっくり休めよ」
福田もそれに続くように言葉を出した。
「松崎さん、お疲れ様でした。荷物はジムに持っていっておきましょうか」
平野が気を使うようにして、トランクスやノーファールカップの入った荷物を半分無理やり受け取った。
「大丈夫だ、自分で持っていくよ」
「いいですから、遠慮しないでください」
平野は気を利かせるようにして国松の荷物を奪い取った。
「国松、チャンピオンベルトを今日は俺に預からせてくれ」
福田も国松の手からベルトの入っている荷物を奪った。ちょっとした手荷物のみが国松の手元へと残った。
「お嬢ちゃん、国松は疲れているからよろしくな」
源は久恵の耳元で呟いた。逆に福田は
「国松、夜道で危ないだろうから送っていってあげな。
何と言っても世界一のボディーガードなんだから」
と茶化すようにして言った。それだけを言うと国松のセコンドについていた陣営はいつの間にか二人の前からいなくなっていた。
「世界チャンピオン、おめでとうございます」
久恵の笑顔を見た時に、心から嬉しいと国松は思った。自分の存在を自分で確認し、その上で認識できた久恵からの祝福である。虚像の人ではなく、目の前の実像になった、愛する人からの言葉に思わず頬がほころんだのだった。
「ありがとう、君の存在があったから最後まで頑張ることが出来たよ。
本当に感謝している」
それだけを言うと国松は久恵に近寄り、その存在を確認するように抱きしめた。
男は戦いをする強さの裏に、甘える場所が欲しくなる時がある。休む場所と言い換えることもできるが、やはり気を抜ける場所は必要になってくる。その戦いが過酷であればあるほどに、その場所は意味を大きく持ってくるものである。
国松は愛する人の存在があったがために戦い抜き、その場へと戻ってくることができた。
そして二人は、お互いの肌で、お互いの存在を感じることができた。
そんな時間であった。




