終章
終章
一通りの話を終えると、久恵は空になったカクテル・グラスをバーテンダーの方へと差し出した。
「凄いですね、その松崎さんって方は世界チャンピオンになったのですね」
桜子は興奮した様子で言うと、それに押されるように残っていたグラスの酒を飲み干した。
久恵はその言葉に笑顔を返した。そしてウイスキーのストレートを注文した。バーテンダーは
「かしこまりました」
という言葉を普段とは異なる、神妙な表情で出すと、バックバーの酒を手に取った。
「それで松崎さんという方は、今は何をされているのですか」
桜子は世界チャンピオンになった国松のその後が早く知りたかった。話しの流れを自分の頭の中で創造すると、もしかして久恵と結婚をしているのではないかと想像してしまう。
「桜子ちゃん、今日はそのくらいでいいんじゃないかな……。
久恵さんも疲れていることだろうし……」
バーテンダーはショットグラスを久恵の前に差し出すと、一人で興奮している桜子を制するように言った。
「だって、その先の話を聞きたいじゃないですか……、あっそう言うって事は、マスターは知っているからでしょう。
私だけ仲間はずれじゃないですか」
その言葉に久恵は小さく、自分を納得させるように頷いた。
その仕草を見て、バーテンダーは少し悲しげな表情を見せて、どうぞというように久恵に頷いた。
「まあ、そんな彼がいたので、私はボクシングの雑誌の仕事についたんだ。
彼の、松崎国松というボクサーの存在がなかったら、無縁の世界だったかもしれない。
ただ単に人を殴るというボクシングしか認識していなかったかも……」
久恵は当初聞かれた、なぜボクシング雑誌の仕事をしているかという、桜子が最初とは異なり、今答えてもらいたいものではない、きっかけの答えを語った。
「そうなんですね。それで松崎さんは……」
桜子はそれでも今聞き出したい事を、改めて確認しようとしていた。
「松崎さんは、あの試合の後、脳に障害があるという事で、引退しなくてはならなくなったの……」
懐かしむように遠くを見て、久恵はウイスキーを一口、口に含んだ。強いアルコールの焼けるような刺激が、口腔に広がった。
「引退したんですか……」
二人のその後も気になることでありながらも、引退という言葉を聞いて、桜子は気持ちが少し冷めるような感じを覚えた。
「あの人は、ボクシング以外に人生の目標は何もなかったの。」
ボクシングを辞めさせられて、何もする気になれなかったのかもしれない。
生きていても死んでいるのと同じ……。
そして絶望という言葉しか、彼の頭の中には生まれてこなかったのかもしれない」
バーテンダーは結末を知っているからか、聞いていられないという思いから、グラスを洗い始めた。
「でも、もう時間も経っているし、今は……」
「今はね、もう墓の中だよ。自殺したんだ」
その言葉に、少しだけ冷めていくような思いが、完全に血の気を引かせていく事を、桜子は自分の事でありながらも、第三者のように感じていた。
「あの人は、ボクシング以外に人生の目標を持っていなかったの。だからそれを失った時に、自分の存在がわからなくなってしまったのだと思う」
久恵はグラスの向こう側に、過去を思い出し、静かに笑った。
「それを考えると、あの人が強かったのか、それとも弱かったのか……。ちょっと考えてしまうんだよね。
それでも生きていて何も感じなかったりするのであれば、一つでも好きな物に出会えなかったりする人よりは、いい人生を送ったんじゃないかな。
ただそこに対する思いが強すぎたから、一つの事を求めすぎたから、それ以外の選択が出来なくて、死を選んでしまったんだろうな」
純粋過ぎるほどの国松の眼を思い出してしまい、久恵はいても立ってもいられないのか、ウイスキーを再び口に含んだ。
「自分で自分を殺すことができるのは、動物の中では人間だけって言われている。そこに一つの意味があってもいいんじゃないかなって、それから私は考えるようになったんだ。
死ぬつもりならば、何かを思い切ってやってみる事もできると思うけれども、ただ追い詰められて死んで行くよりも、自分のやりたい事をやりきって死んでいくという道もあるような気がする。
人にはそれぞれに考え方があるし、それを変える事ができない人もいる。誰もが模索して生きている中で、自分で選択するんだから……」
久恵は昔の事を思い出して、悲しいという気持ちよりも、別の感情が自らの胸を支配しているような気がしていた。しかしその感情が何であるかよくわからなかった。
「マスター、私にもウイスキーをください」
桜子が不意に注文をした。普段飲まないウイスキーを注文されてバーテンダーは驚いた。
「聞いているマスター、ウイスキー」
桜子は強い口調で再度バーテンダーを煽った。
仕方がないという表情をして、バーテンダーはショットグラスへとウイスキーを注ぎ、桜子の前へと差し出した。
「久恵さん、その松崎さんって方、最後に世界チャンピオンになって、尚且つ久恵さんに出会えて幸せだったんじゃないですか……」
グラスを目線へと上げるようにして持つと、桜子は久恵に笑顔を見せた。その笑顔につられるように、久恵もグラスを持ち上げて、微笑みを返すと、そのままウイスキーを一気に飲み干した。
「そうかもね。私もあの人に会えて良かったかな。
今なら確実にそう言えるかな」
久恵は嬉しそうな視線で過去を追った。
「でも久恵さんみたいな良い女を置いて自殺するなんて、そこだけは許せませんね」
つられるようにして桜子はウイスキーを一気に飲んだ。普段飲みなれないアルコールのせいか、桜子はむせた。
「そうだね、そこは許せないね」
久恵はむせる桜子と、その気持ちに対して微笑んだ。
やりたい事を見つけ、追い求める事ができた……それに関して、国松は幸せだったのかもしれない。自分を置いて死を選んだことも、国松の性格からしたら、後悔はないのだろう。
改めて四半世紀近く前の出来事を思い出し、近いうちに国松の墓と共に、源ジムに顔を出してみようと久恵は考えていた。
国松を見に行った源ジムは、現在は場所を変えていた。源会長ももう亡くなってしまっている。しかしジムを継いだ福田と共に、久しぶりに恵まれたボクシング人生を送った国松の話をしたいと考えていた。
ボクシングは、戦うという人間の本能を未だに残している世界である。だが戦争などとは異なる。単純に自らがどれ程強いかを追い求められるスポーツの一つとして、今でも残っているのである。
今日もそうであったが、これからも理由はともかくとして、自らを求める選手たちがボクシング人生に対して、真剣に向き合える状態が続く事を切に願い、久恵はバーを後にした。




