第8ラウンド
(第八ラウンド)
「大丈夫か」
コーナーへと戻ってきた国松の頭へと、水をかけながら福田は声をかけた。少なからずダメージを抜きたいそんな気持ちからの行動であった。国松はその声に答えるように右拳を上げると、チラリと近くの観客席へと座る久恵を見た。別に見たからと言ってダメージが消えるなどということはあり得ない。しかし久恵の存在を確認することによって、まだ頑張れる。もう一踏ん張りできるという気持ちが心の中に湧いてくる。
残すラウンドは五ラウンド。それを考えると橘はこのままいくようであれば、間違いなくKOでも判定でもゴンザレスの勝ちになってしまうと考えていた。それを考えたら今までのアウトボックスよりもインファイトで強いパンチを叩き込む。ゴンザレスがカウンター狙いをしにくいような手数で勝負するほうがマシだと思えた。
久恵は国松の視線に真っ直ぐに返した。どのような形であれ、勝利、自らの納得できる試合をしてもらいたい。身体の心配もあるが、それは今の段階で必要なものではない。場合によっては自分がその後の支えになっても良い。そんな事を考えていた。
「ゴンザレス、行って来い」
ゴングを聞いて、カーキの言葉に押されるようにゴンザレスはコーナーを出た。もう終わりにしても良い。今のダメージを追った国松を、復活しない段階で仕留めておけ、そんな言葉であった。
そのカーキの考えの通りに、一方的なラウンドになる予感があった。
ゴンザレスは先ほどのラウンドとは異なりカウンター狙いではなく、自らが先に攻撃を仕掛けていく。左右のコンビネーションブローが当たり、国松の顔が一瞬下を向きかけた時に、身長差を活かして打ち下ろすパンチを繰り出した。この試合でアップスタイルであった国松にはできないようなパンチが入るようになってきたのである。国松はアップスタイルとも、クラウチングスタイルとも取れないような、中途半端な構えになっていた。ゴンザレスはそんな国松に対して、タイミング良くジャブを当てていく。対抗するように国松は合間にジャブを当てていくが、その威力はたいしたものではなかった。
「倒れるなら思いっきり倒れろ」
純粋なボクシングファンではない。スリリングな国松の試合を見に来ているだけの観客からの声であった。日本人対アメリカ人などということは関係ない、男たちの誇りをかけた闘いも関係ない。自らが実社会の中で振り下ろすことのできない拳を、かわりに振るってもらうだけなのである。
国松は必死にゴンザレスのパンチをガードしていく。もう身体で避けて空転させ、相手にリズムを与えないなどという作戦を敢行することはできなかった。もしも身体を振ったとしても、自らのバランスを崩すだけである。ダメージを考えると国松はガードすることしかできなかった。
だが試合を諦めた訳ではなかった。その覚悟が実行されたのは八ラウンド終了間際であった。
ゴンザレスが仕留めに来た右ストレートを、右サイドステップでかわした。その時、右膝に乗った体重を、一気に吐き出すかのように、斜め前方にいるゴンザレスに向けて放った。肩から打つようになったパンチは、ゴンザレスの左肩の上から、顔面を捕らえた。
そのパンチの勢いに、ゴンザレスは膝が崩れ落ちるように後方のキャンバスへと背中から倒れ込んだ。
誰もが予想していなかったパンチに、大きな歓声が起こった。その声と共に木製の観客席にいる人たちが足踏みをはじめ、ホール全体が揺れるような感覚に陥った。
この試合、ゴンザレスがキャンバスに倒れたのは二度目となる。しかし一度目はダウンとはされていない。実質初のダウンであった。
そのゴンザレスを一度見下ろしてから、国松はダメージのある身体をニュートラルコーナーへと移動した。
一発の威力が違う。ゴンザレスのパンチがないという訳ではない。ダメージを抱えながらも人間を倒す威力があるパンチを打てる国松に対して思った感想であった。そんな不確定要素がゴンザレスを困惑させるようであった。
前回のようにインファイトによるショートレンジのパンチではない。今までの国松にはなかったようなロングレンジのパンチである。
立ち上がったゴンザレスは未だに頭の整理がつかないのか、国松のパンチの圧されていった。だが国松は今までのダメージもあってか、再びゴンザレスを倒すまでには至らなかった。
八ラウンド終了のゴングがなると、惜しいという声が青コーナーのみならず会場のあちこちで漏れた。それほどまでに国松の一撃でゴンザレスはダメージを負っていたのであった。




