第1ラウンド
(一ラウンド)
両国の国旗が掲揚されたホールの南側に向かい、会場の誰もが立ち上がった。そして順番に両国の国家が流れた。その自国の国旗を見つめるボクサーたちの表情を、テレビカメラが捕らえていく。二人とも良い緊張感のある表情であった。ただその表情には、国という思いよりも、自分たちの誇りに対しての方が大きいと橘は感じ、それをメモしていた。
「ただいまより、WBA世界ライト級タイトルマッチ、一二回戦を行います」
二人のボクサーが登場したリングは、先ほどまでの前座とは異なり、更に浮かび上がるように光り輝いて見えた。そんな中、リングアナウンサーの後に続き、コミッショナーより、この試合が正式にWBAに認められた試合であるという宣言が読み上げられた。
「赤コーナー、WBA世界ライト級チャンピオン、カルロス・アーティスティック・ゴンザレス」
声高らかに名前を読み上げられたゴンザレスは、両拳を高々と掲げ、リング中央へと数歩進んだ。その先には国松という存在がいる。その姿を視界に入れ、ゴンザレスは少しだけ気負うような気持ちになった。トレーナーでもあり、チーフセコンドについているカーキは、そんなゴンザレスの姿を見逃しはしなかった。
「ゴンザレス、最初は冷静に様子を見ていけよ」
コーナーに帰ってきたゴンザレスは、その声に頷いた。しかし気持ちの余裕はすでになくなっていた。前回勝っていたにもかかわらずc、自らの評価を落とすという雪辱を果たす。そんな思いが前面に浮かびあがっているようであった。
「青コーナー、WBA世界ライト級一位、松崎国松」
再び甲高いリングアナウンサーの声が会場に鳴り響いた。だがすぐに会場の大歓声によりその声はかき消されてしまった。
国松はその歓声に対して軽く手を上げた。それを儀式のように終えると、すぐにステップを踏み、パンチを数発だけ出した。今日の国松の眼には、いつものように相手ばかりを睨みつけんばかりに見るギラギラとした眼光はなかった。妙に落ち着き、内に闘志が閉じ込められているような雰囲気である。
気負っているゴンザレスに対して、珍しく冷静な国松。対照的な二人がレフリーに呼ばれて、リング中央まで歩み寄った。選手たちにはお互いのチーフセコンドがついているが、ボクサー二人に取っては、戦う相手以外は見えていなかった。
レフリーが何語で注意などを言っていても、本人たちに取ってはそんなものは関係がなかった。ただ自らの力を相手にだけ向ける。もうそれしかやることはなかった。
各コーナーへと弾かれるように別れた後、セコンドがリングの中から去った。試合を裁くレフリーとボクサーのみという、戦う空間が完全に用意された。
決戦のゴングは間近である。観客たちはそれを察してか、声を出さずに開始の合図が鳴らされることに集中した。
「カーン」
乾いた音が後楽園ホールの中に響いた。それを待っていたかのように、静寂に満ちていた会場に歓声が大きく反響した。
ゴンザレスと国松はその音に反応し、ゆっくりとリング中央へと歩んだ。ゴンザレスは国松がすぐに仕掛けてくると思っていたのか、飛び出してこない国松を確認して、一瞬緊張の糸を解いた。だがそれはほんの一瞬で、すぐに頭の中を切り替えた。
その直後、二人はリング中央で拳を合わせた。ゴンザレスは瞬時に後方へと一歩下がり、自らの射程距離を確保し、緩めた緊張の糸を張り詰めた。
国松はその姿をいつになく、その場でどっぷりと構えて見た。ファイタースタイルで一気に攻める気はないらしい。橘はいつもと異なり、異様な雰囲気を放つ国松を視野に入れた。
ゴンザレスの足は適当に力が抜けていた。しかしつま先立ちで、いつでもどの方向にでも動けるようなっている。膝にタメがあるために余計にその精度は高いと思えた。タメがなければ反発力が使えずに、一瞬の動きは遅くなってしまう。そしてその膝は、パンチの体重をしっかりと受け止めて、拳に伝えることができ、威力を増大させていく。そんな構えであった。
そこからジャブが一発放たれた。しかしそのパンチは距離を測るような物であり、国松の前をかすめる程度でしかなかった。けれども威力は十分に実感できるものであった。届かないパンチとわかりながらも、国松はそのジャブを右の手の平で止めた。
ファースト・コンタクトに歓声は上がった。観客のボルテージが最高潮であることがそれでわかる。
橘は試合に対する観客の期待が高いことを改めて知った。そして日本に来た時、ゴンザレスのマネージャーであるハルパーンが言っていた「松崎のボクシングは以前と全く変わっていない」という言葉が覆されている現状を見つめた。
今までの試合であれば、国松は膝を前出ることにしか使えないほどのクラウチングスタイルを取るのであったが、今回はアップスタイルで、ゴンザレスのようにつま先立ちで、膝にタメをしっかりと作っているものであった。それがゆとりとかではない事はわかるが、ゴンザレスが異なった意味で警戒心を解かないことが、頭のどこかで修正を加えているように見えた。
見た目の身長差がそれほどないように感じられることも、国松がアップスタイルであることを示す指標になるのだが、スタイルの違いにより、攻撃は今までと異なってしまう可能性は大である。果たしてそれが吉と出るか凶と出るか……そんな事を想像してしまう。
そう言えば国松の父は今の国松と同じようにアップスタイルであった。思わず橘はテクニシャンであった父を思い出した。
今度は国松が、ゴンザレスと同じような距離から左ジャブを出した。それはゴンザレスの距離を測るような物とは異なり、しっかりと顔面を捉えようとしているパンチであった。腕の長さを考えれば国松のパンチが同じような距離で届くはずがない。そう思った観客も少なくはないのであろう。しかし後ろ足の蹴りから、腰骨、肩が一直線に相手に向かって伸びている。肩は顎に当たり、それ自体が防御になるような程である。
伸びる左ジャブ……それを打てる選手は少ないように思えるが、本来ファイターである国松がそれを実践している。そこに驚く玄人のような観客も会場には何人かはいたであろう。
見えにくい軌道であったのか、ゴンザレスの顔面を強いジャブがヒットした。今までの国松であればそこから懐の中へと入るのであろうが、今日の国松は、前足の蹴りを使い、すぐに元の位置へと戻った。
前回とは異なり、長距離で攻めてくる国松に対してゴンザレスは油断してはいけない試合であると、改めて考えていた。だがアウトボクシングはゴンザレスの専売特許である。左ジャブの刺し合いで負ける訳にはいかなかった。
すぐさま国松を中心に置き、左回りをし、ジャブを数発、速射砲のように繰り出していく。近づかずに、同じ距離を保てることもゴンザレスの強みであった。
国松はガードでそれを受け止め、そのジャブに合わせるようにして、自らのジャブを繰り出していく。ゴンザレスは素早い横への動きでそれを避けた。
スピードと距離の取り合い。ハイレベルな攻防が一ラウンドから繰り広げられている。お互いにジャブのみという、多少静かな立ち上がりであるが、その中に目や小刻みな肩の動きを使いフェイントなどを入れている。そのような高等な闘いが繰り広げられている。世界レベルをそこに感じている観客たちも多くいた。しかし今までの国松の、猪突猛進な闘いしか知らない人たちからは、野次紛いの言葉も出ていた。
「松崎、いつもみたいに思い切り良く行けよ」
「ジャブだけじゃなく、中に入って打てよ」
「そこじゃお前の持ち味が出ないだろう」
観客の言いたい気持ちはわかるが、ボクシングはただの殴り合いではない。橘は今日の国松の決意を感じているが、人が倒れるだけの試合を見たい人たちからしたら、納得が行かないという事も理解はできた。
冷静な眼で国松は、ゴンザレスのパンチを捕らえる。ジャブの刺し合いの中で、数発のパンチが顔面を捕らえるが、完全にダメージを与えるようなパンチではない。ペース争いが未だにリングの中では繰り広げられていた。
そんな中、ゴンザレスの左ジャブから右ストレートが放たれた。その右が顔面を捕らえるが、国松が芯を外しているために完全なクリーンヒットとはいかなかった。それでも歓声は大きく湧き上がった。
だが追撃をするゴンザレスのパンチを国松はステップでかわし、距離を取った。その時、ゴンザレスが一瞬留まるように距離を置いた。それを国松は見逃さなかった。
後ろ足に乗っていた体重が、再び前にある左膝へと蓄えられた。これでしっかりと体重の乗ったパンチを繰り出すことができる。国松がそう確信した瞬間であった。ゴンザレスが自らの射程距離から左ジャブを飛ばした。
直感的に国松は頭の位置を変えて、パンチを滑らせるように左へと頭を動かした。それと共に前足が前方へと弾き出され、ゴンザレスの左手に絡むように右拳が伸びた。
国松の右クロスであった。接近戦以外でこのような伸びるクロスを国松が打てるなどと思っていた者は、会場を埋める観客の中にはほぼいなかった。
「カーン」
ゴングの音が鳴り響いた。その音と共にゴンザレスは足の力を無くし、膝をキャンバスの上へと落とした。前回の試合で、このようなタイミングによるダウンはなかったはずである。パワーではなく技術でダウンを取るという事は、国松の今までのボクシングでは無かったと橘は記憶していた。
この二年間の間に彼のボクシングに何が起きたのであろう。ゴンザレスはそんな事を考えながら立ち上がった。
レフリーはこのダウンをゴング後と判断したのか、ダウンを取ることはなかった。それなのでもちろんカウントを取ることもしなかった。しかしこのダウンは、二人の男たちの熱い闘いの序章でしかなかった。
それを知らしめるかのように、観客は大きなうねりの籠もった歓声を、ホールへと響かせた。




