世界タイトルマッチ (0ラウンド)
(0ラウンド)
碑は試合後の検診を終えて、シャワールームへと入った。左眼の下の腫れはたいしたことはないが、水分を多く摂取すると腫れるとの、リングドクターの話しであった。明日はどうしても仕事に行かなければならなかった。だが何故か楽観的にそれほど腫れるものではないだろうと、勝手な解釈をしていた。
シャワーはまだ身体が少し熱気を持っているために、冷たいものを浴びた。何となく弛緩していく筋肉を感じると、心地よさを覚えた。そして汗を流すと、碑は身体を拭いて着替えをして控室へと戻ろうとした。その時であった。シャワールームのドアが開き、赤コーナーで勝ち名乗りを受けた高橋が入室してきた。別に恨み辛みがあるわけではない。れっきとしたスポーツの中で戦っただけである。
「お疲れ様でした」
高橋の口から出た言葉であった。勝者だからこそ、あっさり言える言葉なのかもしれない。少しだけ嫉妬を碑は覚えた。しかし負けは負け、潔く受け入れなければならなかった。
「ありがとうございました。負けましたよ」
気持ちの上では負けたなどという思いはなかった。だが勝ったという気持ちもなかった。頭を当てられ、ペースを乱されただけで、効いたパンチはなかった。コツコツと打たれたパンチもガードの上を打たれたものが多かったはずである。しかも試合後のリングの上で見た時よりも腫れが酷くなり、塞がった高橋の右目を見ると、余計に諦めは悪くなった。
「いやぁ、試合前に太い腕を見た時に、どうなるかと思いましたよ」
高橋はその腕のせいで自分の右目が見えない状態になり、何度となく効いたパンチがあった事を語った。だが勝敗が入れ替わるほどの影響力は碑の腕にはなかったのである。高橋が言うほど大したものではない。そう考えると少しだけ、負けを認めなければならないという気持ちが芽生えてきた。
仕事もあり、週に二、三日程度の練習で、毎日練習をしている「プロ」という自覚を持っている人に勝とうという安易な考えを持っていたことに碑は自らが莫迦であると思えた。
「これからもお互い頑張りましょう」
高橋は握手を求めてきた。その手を力強く握り、碑はシャワールームを出て行った。
眼の手術をしている以上、ボクシングを続けるということはもうできなかった。源会長には、何とか一試合という許可を貰ったものの、再び試合をしたいなどという迷惑をかけることは、恩のある源ジムに対して碑はできなかった。
高橋との約束は果たすことはできない。でも趣味としてボクシングを続けることはできるだろう。碑はそんな事を考えて控室へと帰って言った。
勝者がいれば必ず敗者は付き物である。この後に始まる世界タイトルマッチを見ないで後楽園ホールを去ろうとする加奈月啓太郎は、本日の第一試合に出場して、碑と同じく敗者となった。
これで引退勧告が、ボクシングコミッションから所属ジムへと行くのであろう。
敗北という二文字に対して、納得はできなかった。納得などというものが出来るのであれば、始めからボクシングなどという世界に足を踏み入れたりはしなかったのであろうし、引退勧告がくるまでしがみつこうとも考えはしなかったであろう。
だがこれでプロのリングとはお別れである。
あの眩いスポットライトの下に立つことは二度とないだろう。しかし勝敗として納得できないまでも、自らがボクサーであったという記録、記憶だけはいつまでも残るものである。振り返った時、勝ち名乗りは受けることができなかったが、ボクシングをやっていて良かったと思えるように、これからの人生を奮起しようと考え、今一度後楽園ホールを振り返ってから、加奈月は歩きはじめた。
国松はウォーミングアップに余念がなかった。福田にバンデージを巻いてもらい、何回も拳の感触を確認した。その拳を何もない空間で、ゴンザレスの影を追いかけるようにして振るった。
福田は国松がいつもと異なることに気がついていた。いやこの間の平野とのスパーリングの時から、違和感を覚えていた。だがその時は試合になればいつもと変わらない国松がいると考えていた。だがそれは甘い考えであった。
影を追いかけている国松の姿は、何度となく公園で行ってきたようなロングレンジのパンチに、華麗なフットワークである。いつもならばこの時点でベタ足のファイターになっているはずである。それを今指摘するべきなのかどうか、福田には迷いがあった。
ゴンザレスの控室も重い雰囲気が立ち込めていた。
チャンピオンはいつになく入念に身体を動かしている。試合前に軽く動くことが多いはずのゴンザレスが、いままで見せたことのないくらいに体に気をつかっている。それほどまでにこの一戦に対する思いが強いのであろう。しかしマネージャーのハルパーンは状態が良い、それで良いと見ていた。
久恵は会場の熱気を近くに感じていた。未だに会場の中には入らずに、売店の前あたりで歓声だけを聞いていた。
そんな時であった。源会長がひょっこりとその空間に来たのである。客入りを確認するために受付に顔を出していたのである。その帰りに久恵の存在に気付いて近づいてきたのである。
「お嬢ちゃん、まだ席に行かないのかい」
源はセコンドにつくと言うのに緊張をしているようには見えなかった。あくまでも冷静に試合を見るために所属ジムの選手の試合の時でも第三者目線を忘れない。だから無駄な緊張感がないのであろう。だが期待だけは胸に秘めていた。
源ボクシングジムとしては三度目の世界戦である。前回の試合内容を考えると国松が勝つチャンスは少なくはなかった。だがそれを考えすぎると、第三者目線で試合を見ることができなくなるかもしれない。福田が控室にいれば大丈夫だという気持ちもあり、受付に来て気持ちを切り替えることができたのだった。
「はい、松崎さんの試合が始まる前に行こうと思っています。それまではボクシングはやはり怖くて見られません」
久恵は恐怖するような表情を見せた。
「そうかい、国松のことを思えばこそか……ぜひともあいつの戦う姿を見てやってください。
次がセミファイナルだから、その試合が終わった時に席についていれば良いだろう」
源は老婆心をちらつかせた。
「ありがとうございます。それまではここでゆっくりさせてもらいます」
「そういえば席はどこかな」
久恵はそう言われるとチケットを源に見せた。確かに遠い席ではない。しかしそれでは国松が彼女を確認することがしにくいと源は思った。
「ちょっと待っていてもらえるかな」
源は再び受付へと歩んだ。確か先ほど関係者でこられない人がいるという話を聞いた。そのチケットを受付で確認して、源はそのチケットを手にした。
「こっちで見るといい」
久恵の元へと戻るとチケットを手渡した。
「このチケットは」
久恵はいきなり手渡されたチケットを見て、驚くような表情を見せた。
「いいから、まあどちらで見るかは自分で決めればいいけれども、こっちの方が良いと思ってね」
源からしてみれば、久恵は今回試合前に国松の感情を変えてくれた。それが吉と出るか凶と出るかはわからない。けれどもせめてものお礼のつもりであった。自分が変えた男がどれほどの試合をするのか、間近で見てもらいたい、そんな気持ちであった。
「ありがとうございます」
久恵は源の行為を素直に受け取り、改めて国松の試合をしっかりと眼に焼き付ける決意をしていた。
メインイベントが近づき、会場の椅子という椅子が埋め尽くされようとしている頃、国松は少しばかりの汗を額に滲ませていた。この間まではウォーミングアップ程度の運動ではこんなに汗は出なかった。だが昨日の計量を終えてからの食事や水分補給だけでこれだけ体が変わってしまうのである。そしてそれが力となって体の中で燃えていることが確信できた。
グローブをつけている拳は、何ともいえないほどに戦闘態勢に入ってきている。脈拍もかなり高い位置まで一度上げており、リングに入ったらすぐに全開の勢いを出せるように仕上げていた。人間の身体は、一気に脈を上げることができない。そのためにウォーミングアップの段階で一度しっかりと上げておけば、すぐに適応できるのである。
福田の手にはめられたミットに、何発も気合の入ったパンチを叩き込む。納得がいくパンチを入れると、天を仰ぎ、そのイメージを自らの中で強くしていく。
決戦まで後少し、緊張が国松の鼓動を少しだけ早くしていた。
碑は山田たちと共に、観客席の階段に座り込んだ。左目の下の腫れが、試合直後に比べて増してきていることが自らでもわかった。近くにいる観客たちは、先ほどの試合の選手であるとわかっているからなのか、その腫れた姿を見ても何とも思わない。これが路上などで見かけるのであれば、喧嘩でもしてきたのだろうと推測されるだけであろう。
四回戦から世界ランカーの多くの夢は、世界チャンピオンである。その瞬間では一七階級で複数の団体があるとはいえ、世界に数少ない存在である。そんな存在に皆が憧れるのである。一試合で引退を考えている碑でさえも、自らの夢の一つに九割以上無理なことである世界チャンピオンを掲げたい気持ちもあったくらいである。
だが、たとえ世界チャンピオンになれなくても、自らの存在を、拳の痛みを持って確認できるのがボクサーである。それはある意味、ノンベンダラリンとした生活を送っている者には確認できない「生」というものを実感できる。そんな事があるだけでもボクサーはいいのかもしれない。碑は敗北の悔しさを何とか忘れようと頭を動かしていたが、その気持ちは彼にとって悔しさを忘れるためではなく、自らが生きるための哲学を探しているのと同じようなものであった。
ゴンザレスは国松同様に、何度となく繰り返してきたパンチを再確認するように振るいながら、静かに落ち着いた様子で控室の中をゆっくりと歩いた。
もうすぐ戦いのゴングが鳴る。
日本という狭い島国の、狭い後楽園ホールという空間で、あの乾いたようなゴングの音が鳴り響くのである。前回の試合を忘れはしない。あそこまで追い詰められた試合は、今までのボクシング人生の中でなかったものである。それを思うとゴングを待ちきれない気持ちであった。
「ゴンザレス、兎に角、早いラウンドはしっかりと松崎のパンチを確認してさばいていけ。ジャブを多用して、まずは懐に入れないように」
カーキはゴンザレスに対して序盤の作戦を言い聞かせていた。もしも国松の出方が違う場合には、他のプランをすぐに頭の中から引き出す準備もできていた。それは長年の経験によって得たものであり、そしてゴンザレスとのコンビに中で組み込まれたものでもあった。そのカーキの言葉にゴンザレスは静かに頷いた。
後楽園ホールはセミファイナル後の休憩中であった。
そんな中、会場内に足を運んだ歴代チャンピオンの名前がリングアナウンサーによって上げられていた。そして名前を呼ばれたチャンピオンたちは、律儀に立ち上がり歓声に答えるように四方八方へと手を振った。
そんな雰囲気に飲み込まれるかのように、久恵は青コーナー下のリングサイド席へと腰を下ろした。自らが戦う訳ではなく、ただ観戦をするだけなのに、口から心臓が飛び出してくるような、圧迫された緊張感に支配されるような気持ちであった。あまりにも緊張している自分を見ていると、力が入り過ぎていると思ったのか、ふといつの間にか強く握っている手を開いた。その手には汗が滲んでいた。その左右の手を合わせ、どうか松崎さんが納得のできるボクシングをできますようにと、願いを込めた。
彼は言っていた。勝ち負けだけではない、自らが納得できる結果が出たら、この世の中で自らの存在を自らが確認できる。その唯一の方法が、自分にとってボクシングであると……。人間の誰もが自分の存在を疑い、迷ってしまう事が人生の中では多々ある。だがそれは生活の中で、何となく忘れさられ、自らが何者であるかを感じることなく、生きている人が多い。その人たちとは異なり、自らを純粋に考え、存在確認をしたい。そんな国松の身の安全を久恵は、勝ちと共に願った。
「ただいまより、WBA世界ライト級一二回戦を行います。
初めに青コーナーより、挑戦者、松崎国松選手の入場です」
先ほどまでの光りが消え、暗転した開場の中、リング上にポッカリと穴の開いたようなスポットライトを当てられたリングアナウンサーの声が響いた。
控室の国松に係員から声がかかる。
「行くぞ」
源はハッパをかけるように陣営に声をかけ、その自陣を先導していく。その後に福田、国松と続いていく。生中継のテレビカメラがその一団を捉える。
四階の控室から階段を上がっていくと、会場内に木霊する国松の入場曲と共に、大きな歓声が聞こえてくる。ホールへの扉の前で国松は二、三度ステップを踏んだ。そして開かれた扉を潜り抜けた。
スポットライトが国松の姿を追う。それと共に会場内の大歓声が起こる。その歓声の中には、スパーリングパートナーを務めた平野の姿や、試合を終えて顔を腫らした碑のものも含まれていた。
橘は声を出さずに、その光景をしっかりと眼に焼き付けようとしていた。記者としての仕事もしかりであるが、一人のボクシングファンとしても、前回の因縁を含めたこの一戦を見逃すことはできないと考えていた。
光が当たっていなくても、会場の中でひときわ透き通るように浮き上がるリング。
その中で国松は、再び自分の存在を確認しようとしている。今回はそれと共に世界一という、ボクシングの世界では一位とは異なるチャンピオンという、特別な存在に成ることが、更なる存在確認になると信じていた。
二度目の世界タイトル挑戦の舞台までは、デビューしてから短いようで、長かった。だが喧嘩ばかり繰り返してきた一〇代の頃よりも、この一〇年は長いようで短かった。自らの父親の名前をリングネームとして、父の存在を超えるために、死んだ父親を納得させるためにボクシングをやってきた。しかしこれが最後ではない。あくまでも自らのボクシング人生の通過点である。チャンピオンとして、次は必ずリングへと戻ってくる。そんな思いを秘めて青コーナー下に着いた時に、国松はリングを見上げて誓った。
福田が、国松の口に少量の水を含ませた。口の渇きを軽く潤し、その水を階段下の松脂の中へと吐き捨てた。粉末状の松脂は、少しだけその場で舞うが、人間の肉眼でわかるようなものではなかった。その水分を含んだ松脂を、リングシューズで踏みにじるようにして、靴底へとつける。いつもよりも少し少なめにつけていることを現認したのは、会場内で福田だけであった。福田はそれを確認すると、国松よりも先に階段を上がり、リングへの扉を開けた。国松はそのロープの間にできた扉へと向かい、階段を一気に駆け上がり、すり抜けるようにしてリングの中へと入った。そして歓声に答えるように手を高々と上げて、明るくなった頭上のスポットライトを見上げた。
ゴンザレスよ、早く来い。胸の中で戦いへの期待を高めていった。前回の屈辱を絶対に晴らしてやる。一人の男として、同じ相手に二度負けるようなことは許せなかった。
今回も世界タイトルがかかっているが、もしもそれがなかったとしても、ゴンザレスともう一度試合をしたいと思っていたのだろう。
「赤コーナーより、チャンピオン、カルロス・ゴンザレス選手の入場です」
国松がリングに入った時の歓声の切れ間をつくように、リングアナウンサーの声がホールへと響いた。そして再び暗転した中に、ゴンザレスの入場曲が鳴り響いた。
一歩一歩、5階への階段を上がってくるゴンザレスの姿は、テレビの前の人達以外には見ることはできない。
ただ会場へと控室から上がってきたことは、スポットライトの光で確認ができた。いつもならば少し笑みを浮かべて入場してくるゴンザレスだが、今日は引き締まった表情を見せるのみであった。そのまま一気にリングへと入り込むと、国松の入場時と変わらないくらいの歓声が起こる。それを後押しするかのようにリングを照らす光が、瑞光のように湧き上がった。
いよいよ、二人のボクサーがリングの中で火花を散らす瞬間が近づいてきた。
後楽園ホールの中に、緊張感が走り飛んでいたのを橘は見ていた。




