1998年8月21日(金) (5)
(五)
橘は第一試合の結果を、取材ノートへと簡略的にまとめていた。今日という日のはじまりがどのようなものであったか……それは世界タイトルマッチを記事にした時の副材料になるかもしれない。そんな事を考えると粗末にすることなく、毎度の事でありながらも乱雑に筆を走らせていた。そしてやっとはじまり出そうとしている二試合目に目を向けた。
「そろそろ準備をするか」
予備計量を済ませて戻ってきた国松に対して福田は声をかけた。国松もその問いかけに、まだ余裕のある表情で答える。この段階で神経をすり減らしても無駄であり、まだ集中するにしては早かった。
逆に緊張をしなくてはならない時に、緊張していない者もいた。碑はリングに上がることに対して、わくわくとした期待はあるが、緊張をしていなかった。多少不安のような物が胸を過る時はあるが、それは緊張とは異なるものであった。
「いいか、手数をしっかり出していけば平気だからな」
新米トレーナーである中川は、源会長や福田が国松の控室に付きっきりになっているために、碑のチーフセコンドを務めることになっていた。その他セコンドにつくのはプロの選手たちであった。
「はい」
中川の言葉にそう答えると、碑は会場のすぐ裏にある関係者入り口の扉の中で、セコンドについてくれるプロ選手の山田の右手に向かい、パンチを打っていた。ジャブの出は感触的には良かった。身体も減量がそれほどきつくなかった分楽に思えた。山田も受けるパンチに碑の調子の良さを感じていた。だがいつもよりも押しこむ圧力を感じない。そこが不安と言えば不安であった。
第二試合の二ラウンドが終わった頃、もう一人のセコンドが会場の中の様子を確認して、関係者入り口の中へと戻ってきた。もうそろそろということで、会場の観客席の後ろで出番を待つという話を中川としていた。
「取り敢えず出るか」
中川の言葉に、セコンド三人と共に碑は関係者入り口を出た。
そこは会場の熱気が伝わってきていた。まだ観客の入りは少ないが、選手の身内たちだけでもそれは感じられた。これが試合前の感覚なのか……碑は嬉しそうに笑った。そんな会場のリングに、自分が立てることを楽しみにしているという感覚である。
「先輩、頑張ってよ」
碑の存在に気付いた石田は、近くに寄ってくると一言だけ声を掛けた。その声に右手を上げて碑は答えた。友人の存在が更に碑を奮い立たせた。それによりちょっと気持ちが楽になった気がしていた。
「さあ、行くぞ」
第二試合が判定で終わり、碑の出番がやってきた。中川は碑が持ってきていたタオルを身体にかけた。それは昔、碑がスイミングクラブでもらった名前の入ったタオルであった。それを掛けたまま、リングまでのほんのすこししかない道のりを歩き始めた。
使い込んでいない、試合が決まってから購入したリングシューズで、後楽園ホールの浮き上がったリングまでの距離を、一歩一歩と踏みしめていく。それにより碑は闘いがまもなく行われるという実感を胸に寄せた。
チケットを購入してくれた友人たちが、自分の名前を呼ぶ声が聞こえる。わかってはいるが振り向くことをせずに歩く。その間にリングを降りた敗者とすれ違った。俺はああはならない。碑はそう思いながらリングへと上がる階段の前で、大きく深呼吸をした。山田がそれを確認してから、うがい用の水を碑の口の中へと流し込んだ。それを吐き出し、松脂をリングシューズで捻るようにして、靴底へとつけた。
準備は整った。もう目の前にある数段の階段を上がれば、自らの力でしか解決のできない箱型の空間へと入り込むだけである。中川が開いたロープの間へと、一気に駆け上がり、リングへと入り込んだ。
開場前に上がったリングとは異なり、スポットライトが熱いくらいに感じられた。胸の中で一つの不安が、心臓の鼓動と共に口から出そうになった。透き通るリングの上で、碑はその不安を吹き飛ばすかのように、ステップを踏んだ。
「本日の第三試合、フライ級四回戦を行います」
リングアナウンサーの声が、やけに新鮮に聞こえる。試合であるという実感が自らの鼓動で、更に理解できた。
赤コーナーにいる相手が紹介さ、大きな声援と拍手を浴びてガッツポーズをしている。自分はどのようなポーズを取ろうか、あれこれとリングに上がるまでは考えていたが、いざその場になってみるとすっぽりと頭の中からは消えていた。
「青コーナー、源ボクシングジム所属、碑勇次」
呼ばれて碑は少し前に出ると、軽く右手を上げた。チケットを購入してくれた友人たちによる歓声は、相手の高橋よりも大きく感じられた。なぜかそれで碑の緊張は消えた。
リング中央へと呼ばれると、試合の注意などをいわれるが、そんな事は頭に入りはしなかった。ただ目の前にいる相手を倒せば良い。そんな事だけを考えていた。
「いいか、気合と手数だ」
コーナーへ戻ると、一緒にリング中央から帰ってきた中川が強い口調で言った。それに対して碑は頷いた。
「カーン」
乾いた音が、半分くらい埋まりはじめた観客席に鳴り響いた。
碑はゆっくりとリング中央へと歩んだ。そして高橋とグローブを合わせると、すぐに軽快なステップを踏み始めた。それに対して高橋は対照的にベタ足でゆっくりと進んでくる。上背は高橋の方があるのだが、碑がアップスタイルであるために、高橋の方が小さく見えなくもない。
碑はオーソドックスらしく、左回りをしながら軽く左ジャブを出していく。距離を測るようなジャブは、高橋のグローブをかすめる程度である。まずは自らのリズムを作る。その上で測った距離を把握して攻撃へと続ける。だいぶ緊張の取れた碑は、距離を保ちながらどのように攻撃をして行こうかと考えていた。
高橋は対照的にステップを使う碑をジリジリと追うようにして前に出て行く。射程距離が短いからなのか、未だに手を出す機会を伺っているようであった。
距離を把握しできたからなのか、碑のジャブが一発、二発と高橋を捕らえた。それに対して友人たちから大きな声援が飛んだ。観客の声を聞きながら試合をしている。プロという実感が更に碑の気持ちの中に湧いた。
高橋は距離を潰すために無理やり突っ込んできては、ジャブを出そうとするが、碑の軽快なステップに交わされてしまう。しかしそれを読んでなのか、それとも無意識なのかは分からないが、高橋は左周りをする進路を塞ぎ、碑にロープを背負わせた。
今だ、高橋はここぞとばかりにジャブを出した。しかしその腕の下をすり抜けるように、碑のコンパクトな右ストレートが、切れるような音と共に高橋の顔面を捕らえた。
再び歓声が大きくなった。すぐに高橋は返しのパンチを振るうが、碑は上手くサイドステップを使い、ロープから抜け出し、再びジャブを顔面へと叩きつけた。
【ただ前に出るだけで何も技術も感じない、こんな選手に負けるはずがない】
碑はそう思うと、一ラウンドの終了間際に再び右ストレートを顔面へと叩き込んだ。
意気揚々とコーナーへと引き上げる碑とは対照的に、高橋はゆっくりと自陣へと歩いた。しかしその表情に悲観というものは見えず、それどころか息一つ切らしていなかった。
「いいぞ、その調子だ」
中川の言葉を、碑はその通りだと思い頷いて聞いた。セコンドたちと同じように、碑の応援団たちも、この試合の結果はもう思った通りになると感じていた。二人のボクサーのパンチ的中率は明らかに違っていた。しかもパンチの音すら異なる。それはレベルの差というふうに取れなくもなかった。
二ラウンドが始まる時、碑の慢心が、緊張の糸を緩めた。ステップを踏み、ジャブを高橋の顔面へと当てる。それは一ラウンドと変わることはなかった。高橋は前進の速度を早めて距離を潰そうとするが、碑は余裕を見せ、ステップを使って避けるか、面倒だと思うとクリンチを行った。それが慢心による誤算であった。
高橋は身体の強さを使い、思い切り碑の身体を押すと共に、低い体勢から頭を顔面へと当てていく。それはたまたまもみ合っているうちに行われているもののように見えるので、故意でないと、レフリーはやり過ごしていた。
【この頭が邪魔だ】
碑は顔をそむけた。レフリーが二人を分け、再び戦闘がはじまる。しかし碑はすぐに気持ちをそこに向けなかった。高橋は今まで至近距離でしかパンチを打たなかったが、この時ばかりは飛ぶようにして右ストレートを放ってきた。バランスの取れていない、なりふり構わないパンチであったが、碑の顔面を捕らえた。上体の立っていた碑の身体が押されるように後ろへと飛んだ。威力よりも見た目は効いたように思えた。
【この野郎】
碑は素早く体勢を立て直し、左ジャブを放ち、距離を取った。そこで一度力を抜くためなのか、両拳をだらりと下げた。
「ノーガードかよ」
観客のどこかで聞こえた言葉であった。それによって何かが行われるのであろうか……観客の期待がそこには集まった。
打てるものならもう一度打ってみろ……そんな含みをもたせた時であった。再び高橋の飛び込むような右ストレートが放たれた。
【見えにくい】
碑は思った。綺麗な軌道でないので、逆にそのパンチはわかりにくかった。瞬時に反応をするが、完全に避けることはできずに、軽くその拳が顔面を捕らえた。調子に乗ったのか、高橋が当てた右拳を一度高く上げてアピールをした。
碑は仕方なく中に入ってきた高橋に対してクリンチをした。ノーガードに期待をした観客たちは、今度はパンチを当てた高橋へと興味を示した。単発で、下手くそなボクシング、そう感じていた高橋に押されるという事を情けないと思い、身体の力で押された碑はロープへと下がった。その先の視線に自らの応援団の姿が見えた。こんな風にやられてばかりではいけない。少なからず良いところを見せなければ……下手な落ち着きが観客の姿をとらえさせた。しかしそれは落ち着きではなく、慢心や散漫でしかなかった。
二ラウンド目の後半、何度か高橋をコーナーへと追い込み、コンビネーションなどを碑は放った。数発は顔面を捕らえるが、前半の高橋の方が印象強いかもしれない。少しの不安と共に、クリンチのたびに頭がぶつかり体力だけではなく、精神力も削られるように碑には思えていた。
減量はスムーズに行っていた。だからこそだからか、発汗作用が良いことが、逆に碑の体力を奪うようであった。しかもスパーリングで高橋のようなインファイターとの経験がなかった事から、尚更どのように対処したら良いのか……碑の頭は混乱しはじめた。
「碑、悪くないからどんどん行け」
二ラウンドが終わりコーナーへと帰ってきた碑に対して、中川の指示は状況などを加味しないものなので、碑は実際に何をしたら良いのかわからなかった。何か具体的なアドバイスが欲しい。碑は弱気になっているのか、そんな事を考えていた。
第三ラウンド。
碑は明らかに劣勢であった。彼の足はすでに鈍くなってきていた。前回のラウンドのように、足でさばくという事ができなくなってきていた。冷静な判断ができないどころか、くっ付くことが多くなり、兎に角手を出すしかできなかった。しかし下から突き上げるように突っ込んでくる高橋に、体勢を上げられて体重の掛からないパンチをお互いに打ち合うしかなかった。
それと共に高橋の頭が当たってくる。それを避けようとしてガードを上げると力のない連打が腹に数発まとめられる。
邪魔だ。高橋の存在をそのように感じることしか碑はできなかった。ほんの数分前まではスピードもない高橋を相手に、楽勝とまで考えていた応援団も、次第に不安を覚えていく。
そんな中、高橋の右ストレートが碑の顔面を捕えた。応援の声の中に、悲痛に感じられる声が混じった。
碑は力強いパンチを数発、高橋の顔面へと当てるが、高橋はおかまい無しに中へと入り込み、ポコポコとパンチを当てる。碑の一発のパンチではポイントを取ることは難しくなっていた。
第四ラウンド。四回戦というC級ライセンスの最後のラウンドが訪れた。
コーナーを出る碑に対する中川の指示は、毎度変わらず具体的な物はなかった。もはや高橋のペースの中で、何が何でも打っていくという事しかできなかった。スパーリングでもこのような接近戦をしたことのない碑としては、対処方法は少なかった。
逆に高橋は慣れている戦いに終始した。軽いパンチに加えて頭が当たる。無茶苦茶な軌道のパンチであってもお構いなしであった。
下からくる高橋を何とか押し返しながら、碑はただただパンチを繰り出した。もうどちらがどのように当たっているかもわからない状況であった。ただ会場は打ち合いをする試合に沸いた。
そんな状況の中、試合を終えるゴングが鳴り響いた。
良くて引き分け。そんな感じを覚えながら碑はコーナーへと帰った。出された椅子へとどっぷりと疲れを痛感しながら座り、水を飲んだ。チーフセコンドではない山田は、自分がチーフであったならば、もっと指示を出せたのではないかと、考えたがプロの世界はタラレバで語られる事はなかった。だが出だしの調子の良い段階で、何か手を打っていたら……そう思わずにいられなかった。
ジャッジペーパーがリングアナウンサーの手に渡され、それを審判員たちと共に確認していく。碑は頭が当たって腫れたと思われる左目の下を氷嚢で冷やされながら、立ち上がった。せめて最後はしっかりと立ったまま勝敗を耳に入れたかった。勝ってくれ。他人事、他力本願の気持ちでしかなかった。
「勝者、赤コーナー、高橋」
その言葉を聞いた時、碑は首をうなだれ、力の無い足の置かれているキャンバスを見た。自らの存在は痛みの中で確認できたが、自分の勝利は得られなかった。それでもそれを素直に受け入れなければならない。否定したとしてもそれはもう変えることのできない、事実でしかなかった。
今までの人生の中では「仕方が無い」で済むこともあったが、そんな感覚で処理することはできなかった。ただただ自分が無力という事を受け入れることしかできなかった。
「ありがとうございました」
勝ち名乗りを受けた高橋が走るようにして、青コーナーへとやって来た。それと入れ違うように碑も赤コーナーへと挨拶へと向かう。
そして自陣へと帰る途中で、二人は抱き合った。健闘を称えあう中、碑は高橋の塞がりそうになっている左眼を見た。もしかすると自分の顔よりも酷く腫れているのかもしれない。そんな相手に二対〇の判定で負けた。悔しさがこみ上げてくる瞬間であった。
碑は中川が開いたロープの隙間から、四角い空間を出た。晴れやかな顔で浮かび上がる空間から出ることはできなかったが、仕方が無かった。それでも応援団は大きな拍手で碑を迎えてくれた。その応援団の方へ向かい、碑は手を上げた。負けて手を上げるのは見っとも無いが、それでもいいと思っていた。
「良い試合だったぞ」
そんな言葉が聞こえてきた。その声を背に受けながら碑は会場から去った。
勝敗は自らが望んだものではなかったが、プロのリングへ上がれた嬉しさと共に、悔しい気持ちが心の中で交錯した。思わず碑の眼から涙がこぼれた。山田はそんな碑の肩へと軽く手を置いた。
望んでもリングへと立てない者たちもいる。観客席の中にいる橘のように実力とは関係なく、検査の結果によって、プロという世界から弾かれてしまう者もいる。
勝ち負けとは関係なく、その場に立てる者を、橘は羨ましくもあり、素晴らしい経験をしているのだと考えていた。




